断食系男子、悟りを開く
レオタードにその身を包んだ少女達が、その手に様々な手具を持って舞う。
それを、僕は体育館の端の方で眺めていた。
と言っても、その視線はたった1人に集中されているのだが。
その1人とは、当然この女子新体操部の絶対的エースであり、僕の彼女でもある渡井愛佳だ。
(はぁ~~やっぱりすごいなぁ、渡井さん)
素人目に見ても、渡井さんの動きは彼女達の中で一際洗練されていた。
その手が軽やかに振られる度に、その手に持ったリボンが美しく宙を踊る。
その動きには一切の淀みがなく、指先1つにまで神経が行き届いているのがよく分かる。
新体操にはリボン、ロープ、フープ、ボール、クラブの5つの手具があるが、その中でもリボンは渡井さんの一番得意な手具なのだ。
僕が今やっているのは、女子新体操部の手伝いだ。
飽くまで手伝いであって、正式なマネージャーという訳ではない。
いや、やっていることは道具運びや時間管理、水やタオルの用意等々、完全にマネージャーのそれなのだが、この部活にはマネージャーという役職が存在しないのだ。
飽くまで少しでも渡井さんと一緒にいたい僕が自主的にやっていることなので、扱いはお手伝いということになっている。
まあ、なんだかんだで男手が必要な時もあり、他の部員にも感謝されているようなので悪い気はしないが。
ピピーーー!!
「はぁーい、15分休憩。しっかりストレッチしておきなさいよぉー」
ホイッスルの音と共に顧問の先生がそう声を掛けると、部員達は演技をやめ、休憩を取り始める。
僕は彼女達に順にタオルと水を配ると、最後に体育館の中央に残っている渡井さんにもタオルと水を渡しに行った。
「渡井さんお疲れ」
「ん、ありがとう」
大きく脚を開いて体を伸ばしていた渡井さんは、お礼を言いながらタオルとペットボトルを受け取ると、ペットボトルのキャップを外して口を付けた。
ごくごくと水を飲むたびに上下に動くのどと、そこに伝う汗。
それがなんだか妙に艶めかしくて、思わず僕は視線を逸らした。
「ぷはっ……ねえ倉瀬君、柔軟手伝ってくれる?」
「う、うん。いいよ」
来たか。
内心そんな風に思いながらも、表には動揺を出さないようにして、僕は渡井さんの背後に回った。
「じゃあ行くよ」
「いつでもどうぞ」
一度つばを飲み込んで覚悟を決めると、僕はそっと渡井さんの背中に両手を添えた。
(うおおぉぉ~~柔らかい! い、いや、落ち着け! 動揺するな! 下心を悟られたらフラれるぞ!!)
そう必死に言い聞かせ、荒くなりそうな呼吸を落ち着かせる。
この柔軟の手伝いは、僕のお手伝いの中でも天国であると同時に地獄でもある時間なのだ。
本来は部員同士でやるのだが、そこは……まあ、僕達の仲を知る他の部員達が気を遣った結果、渡井さんの柔軟は僕が手伝うことになった。
しかしまあこれが、普段手を繋ぐくらいのボディタッチしか許されていない身としては、かなり辛いものがある。
こうしている間も、シニョンで髪をまとめたことによって露わになっているうなじとか、汗をかいたことで際立っている渡井さんの体臭とか、薄いレオタード越しに感じられる肌の柔らかさとか、もう色々な刺激があらゆる感覚を直撃して、なかなか辛抱堪らんものがある。
だが、ここで下心を出してはいけない。
間違っても、そのレオタードに浮かび上がる優美なボディラインに不躾な視線を這わしたり、興奮に息を荒げたりしてはいけない。
僕は意識を逸らすために昨日見たドラマの内容を思い出しながら、慎重に渡井さんの背中を押して行った。
そして、渡井さんの上体がペタンと床に着いた。
すると、床に押し付けられてむにゅりと形を変える渡井さんのむ――うおおおぉぉぉーーー!!! 素数!! 素数を数えるんだ!! 2、3、5、7、11、13……
「あっ、倉瀬君。ちょっと脚を開いてくれる?」
ごっっじゅうさん!! こ、ここでまさかの追撃だとぅ!!?
おおおおちつけぃ!! あ、脚を開く……つ、つまりその剥き出しのふ、ふとももももっ――ふうっ、太腿に、触るということかぁ!!?
「倉瀬君?」
「あっ、うん! いいよ!」
いかん! 反応が遅れて怪訝に思われている!
もはや一刻の猶予もない! よ、よぉぉーーっし、触るぞおおぉぉうおおおおおぉぉぉぉぉぉーーーー!!!
むにゅん
Oh…………
その時僕は、あまりにも甘美な衝撃にトリップしそうな意識の片隅で、「女の子の体ってどこを触っても柔らかいんだなぁ」なんてことを考えていた。
* * * * * * *
それから2週間後、1学期の終業式を5日前に終えたばかりの7月の末に、僕は父方の祖父の元を訪ねていた。
僕の父方の実家はお寺で、祖父はそこの住職をしている。
祖父の後は伯父が継ぐそうなので、僕はもちろん、父さんもお坊さんという訳ではない。
しかし今日、僕はここに修行をしに来ていた。
理由は1つ。自分の中にある色欲を抑え込むためだ。
それというのも、夏休みに突入して以降、女子新体操部は8月の全国大会に向け、連日朝から晩まで練習を繰り返していた。
当然僕もお手伝いとして参加し、毎日何時間も生殺し地獄を味わい続け……その結果、僕はとうとう限界を迎えてしまったのだ。
お手伝いとして触れることは出来ても、恋人として触れることは出来ないというジレンマ。
完全なる理性と欲望の板挟み。
こんな状況がこれ以上続いたら、確実に下心を隠せなくなる。
そして、そうなったら待っているのは破局だ。それだけはどうしても我慢できなかった。
だから、僕は久しぶりに部活のお手伝いを休むと、1人で祖父の寺を訪ねた。
彼女が結婚するまではキスもそれ以上も禁止だと言っている。
半年は我慢したが、そろそろ辛い。だから、色欲を抑える修業を付けて欲しい。
そう伝えると、祖父は「ほう、今の時代には珍しくしっかりとした貞操観念を持ったお嬢さんじゃな」と感心した様子だった。
……流石に、自分が手を出した途端にフラれる彼氏(仮)という身分であることは伝えなかった。
いくら祖父が相手でも、そんな情けない事情までは明かしたくなかったのだ。
全てを聞き終えた祖父はゆっくりと頷くと、静かに声を発した。
「なるほど、身持ちが固い彼女を傷付けたくない。だから、色欲を絶つ修行がしたい、と」
「うん」
「そうか……聡、お前は優しい子じゃな」
そう噛み締めるように言うと、祖父は凪いだ水面のように透き通った目で僕を見た。
「五欲の1つである色欲自体を完全に絶つことは難しい……しかし、彼女に欲望を向けないようにすることは可能じゃ」
「ど、どうすればいいの!?」
「方法はただ1つ……お前の彼女への恋情を、愛情へと昇華させるのじゃ」
「恋を……愛へ?」
「左様」
そして、祖父は右手をそっと自身の胸に添えて続けた。
「恋とは相手に求めるもの。『好かれたい』『触れたい』『交わりたい』それら全ては恋情から生まれる衝動じゃ。一方、愛は違う。愛とは与えるもの。その全ては『相手を幸せにしたい』その一点に尽きる」
「じゃあ、恋を愛に変えれば……渡井さんに邪な感情を向けずに済むようになるの?」
「そうなる。しかし、それには厳しい修行が必要じゃ。お前はそれに耐えられるかの?」
そう言って、祖父は僕に力強い視線を向けた。
その目には、僕の意志の強さを試すような厳しい輝きと共に、どこか慈しむような優しさがあって――――僕はその視線に真っ向から向き合うと、深々と頭を垂れた。
「よろしく、お願いします!!」
そして、僕の1週間に渡る修業が始まった。
厳しい修行の中、僕は自分の中にある渡井さんへの想いと真摯に向き合い、その想いを再確認し、昇華させていった。
そして、1週間の修業を経て、僕は遂に――――悟りを開いた。