情熱系女子、彼を想って舞う
その会場は、ある種異様な雰囲気に包まれていた。
フロアの各所では、何人かの選手が同時に演技を披露しているが、拍手も歓声も一切起こらない。
今この瞬間、会場中の視線は優勝候補と目されるたった1人の選手に集中していた。
それは解説席も例外ではなく、この道に何年も携わっているプロ達が、まるで会場の雰囲気に呑まれたかのように沈黙していた。
「い、いやぁ、渡井選手。素晴らしい演技ですねぇ大山さん?」
ようやく我を取り戻した実況の男性が、隣に座る女子新体操元日本代表の女性に話を振る。
彼女は、去年愛佳の演技を見て「演技に熱を感じない」と酷評した女性だった。
しかし、今彼女が愛佳を見詰めるその視線には、純粋な驚きと僅かばかりの畏怖が宿っていた。
「ええ……既に最終種目。肉体的にも精神的にも疲労はピークに達しているはずなのに、演技はますますキレを増している……凄まじい集中力です」
「本当ですね……しかし、今日の渡井選手はなんというか、えらく情熱的というか……去年とは全く違った雰囲気を感じさせるのですが、何か心境の変化があったのでしょうか?」
「そうですね。まさか彼女にこんな一面があったとは……去年の彼女からは全く想像できません」
会場中の視線を独り占めにしながら、マットの上で激しく舞い踊る愛佳。
その演技は、繊細さを感じさせる普段の彼女とは打って変わって、どこか荒々しさすら感じさせるものだった。
決して、技の正確性が損なわれたわけではない。ただ、その大きく振られる手が、鋭くマットを踏みしめる足が、その一挙一動が彼女の内に宿る熱情を反映しているかのように見えた。
誰もが息を呑んでその演技に見入る中、しかし当の愛佳の意識は、会場にいるたった1人に向けられていた……
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
倉瀬君が、見てる。
実際に確認したわけじゃない。会場に入ってからというもの、意識を乱さないためにも、私はあえて観客席には視線を向けないようにしていた。
でも、感じる。倉瀬君の視線を。
分かる。今、倉瀬君が私を見てくれているのだと。
それだけで、疲れた体に活力が蘇ってくる。
種目はリボン、クラブ、ボールを経て、最終種目のフープまで来ている。大舞台での慣れない大技の連発で、既に集中力は限界に達しているが、そんなことは関係ない。
倉瀬君の前で、みっともない演技は出来ない。
見せないといけない。今の私の全力を。競技者、渡井愛佳の全てを。
見て。私を見て。そして、どうかもう一度好きになって。
私を求めて。お願い、そしたら全部あげるから。
ねぇ、倉瀬君。私、頑張ったよ。
あなたの手を借りなくても大丈夫だって、そう伝えるために。ホントに頑張ったんだよ。
だから、もしこれで勝てたら……信じてくれる? 私が欲しいのは、マネージャーとしてのあなたじゃなくて、恋人としてのあなたなんだって。
私が好きなのは、ただ1人の男の子としての倉瀬聡君なんだって、信じてくれるかな?
見ててね。私、勝つから。
勝って、証明するから。
私の想いも、私があなたと対等な人間だってことも。全部証明するから。
だから──
「ぁ──」
その、瞬間。
上空に蹴り上げたフープが、微かに踵に引っ掛かった。
(う、そ……っ)
軌道がぶれたフープは、本来投げるべき場所よりも、更に前に飛んでしまった。その先は……
(場、外……!? マズいマズい! 場外は減点1。しかもこのままじゃ曲終わりに間に合わずタイムオーバーになる!)
不安定な揺れ方をしながら空を舞うフープを、愕然と見上げる。
そんな、まさか、こんな最後の最後で……
「っ!」
その瞬間、見上げた視線の先に……私は、倉瀬君を見付けた。
(倉瀬、君……)
優しい目。優しく、強く……私のことを、見守ってくれている。いつだって、あの視線に支えられてきた。
そうだ。私は1人じゃない。
倉瀬君の手を借りずに勝つなんて、なにを己惚れていたのか。今も、私はこうして倉瀬君に支えられているじゃないか。
そのことを意識した瞬間、私の中で使命感が燃え上がった。
ここで諦めるわけにはいかない。絶対に。
自分に誇れる自分でいるために? 倉瀬君にこの想いを届かせるために? どちらも正しい。でも、それよりなにより……倉瀬君の思いに報いるために、私は全力を尽くさなければ。
(大丈夫、まだ間に合う。ステップの歩幅を広くして、ラインギリギリでキャッチすれば……)
私は即座に意識を立て直すと、予定通りのダンスを、しかし予定より少しダイナミックに踊った。
そうすることで、着地地点をラインギリギリまで寄せる。だが、これでもまだ足りない。このままフープを待っていては、どちらにせよ場外になる。
(な、ら!!)
私は最後のステップを踏むと、一気に床を踏み切った。
脚の筋肉が悲鳴を上げるのも無視して、ラインの外へと落ちそうになるフープに全力で手を伸ばす。
(届、け……っ!!)
その時、私自身の心の声に重なるようにして、もう1つの声が聞こえた気がした。
同じタイミング。同じ言葉で、私の中に響いた祈り。あの、声は……
(倉瀬君……?)
そんな思考が、脳裏を過った直後。私の指先に、フープが引っ掛かった。
「っ!!」
即座にフープを引き寄せ、手の中で回転させる。
そして着地と同時に振り返り、センターに向かってステップを踏むと、なんとか曲終わりと同時に決めポーズを取った。
一拍置いて、万雷のような拍手と歓声が降り注ぐ。
「はあっ、はあっ」
私は荒々しく息をしながら立ち上がると、観客に一礼する。
そして、どこか晴れ晴れとした気分で壁際で待つ仲間の元へと向かった。
この一週間、絶えずこの身を苛んでいた焦燥と勝利への妄執は、いつの間にか消え去っていた。
それは、気付いたから。心と体が離れていようと、倉瀬君が私の演技の根幹にあることが分かったから。
たとえここで勝利することが出来なくとも、私の想いが倉瀬君に届かなくとも、倉瀬君の存在が私の支えとなる。倉瀬君への想いが、私の原動力となる。
仮に倉瀬君が振り向いてくれなかったとしても、私は倉瀬君を振り向かせるために舞い続けるだろう。
いつまでも。何度でも。この想いがすり切れ、燃え尽きてしまうまで。
この想いがある限り、競技者としての渡井愛佳が死ぬことはない。
それが分かったから、もう大丈夫。
たとえ、どんな結果になろうとも……私は、あなたに想いを告げる。




