絶食系男子、ヨゴレ系女子から電話を受ける
ブゥゥゥン ブゥゥゥン
スマホが繰り返し振動する音に、僕は顔を上げた。
ふと周囲を見回すと、部屋の中は大量の写経で足の踏み場もない状態になっていた。
昨日、渡井さんにフラれて以来、文字通り寝食を惜しんで写経を続けた結果、気付けば優に百巻を超える量を書いていたらしい。
「っと」
ある種壮観な光景にしばしぼんやりとしてから、慌ててスマホを手に取る。
「はい、もしもし」
『あ、倉瀬君? 今大丈夫?』
電話の相手は仲澤さんだった。時間からすると、部活の練習が終わって家に帰ったところだろうか。
「うん、大丈夫。どうしたの?」
『どうしたのって……まずこれだけは確認しておきたいんだけど、愛佳と別れたって本当?』
「うん」
『いや、うんって……はあ、本当だったんだ』
「渡井さんが言ったの?」
『うん……今日、倉瀬君が来てないから、愛佳に「何か知ってる?」って訊いたら「昨日別れた」って……部員全員ビックリして大騒ぎになったわよ。……その、軽々しく訊いちゃいけないんだろうけど、大丈夫なの?』
大丈夫かと問われれば、あまり大丈夫とは言えない。
だが、心配してくれている友人に電話口で強がりが言える程度には持ち直した。
「まあ、だいぶ落ち着いてきたところかな」
『そっか……あたしでよかったら、いつでも話聞くから』
「うん、ありがとう」
そこで、少し間があった。
何かを言おうとして躊躇っているような、そんな沈黙が数秒間続き……やがて、意を決したように、仲澤さんが固い声で話し始めた。
『あの、さ……倉瀬君にこれを訊くのは違うかもしれないんだけど……愛佳の様子がおかしいの。なんか、心当たりない?』
「渡井さんの?」
『うん……なんか、ずっと怖い顔してるっていうか、鬼気迫る感じというか……とにかく、すごいピリピリしてるの。今日なんて、練習始まってすぐにコーチに技の難易度を上げたいとか言い出すし……』
「え? 技を? 今から?」
あまりにも予想外な言葉に、思わず目を丸くする。
なにしろ、全国大会は来週頭。あと一週間しかないのだ。
どの選手も本番に向けて最終調整に入るこの段階で、技の変更をするなど普通では考えられない。なにより、渡井さんらしくもない。
『うん。それも1つじゃなくて……いや、どれも愛佳の実力的には十分可能って言われてた技なんだけど、知っての通り愛佳って堅実派じゃん? こんなの全然愛佳らしくないっていうか……でも、本人に何か言える雰囲気でもなくて……倉瀬君、何か心当たりない?』
「いや……」
考えてみるが、本当に思い当たることはない。
渡井さんは、自分に無理のないレベルの技をとにかく正確無比にこなす選手だ。
手具を落としたり、一歩進んでキャッチしたりといったミスを完全に無くし、構成点よりも実施点で点数を稼ぐ。
派手な大技に走らず、自身の技の正確性をとことん突き詰めたその演技には、ある種の完成された美しさがあった。
その精密機械のようなスタイルと無表情さのせいで、一部の人間に“オートマトン”などと揶揄されることもあったが……渡井さんは、自身の演技に誇りを持っていたはずだった。
そんな彼女が、自らの信条を曲げた? なんで?
いくら考えても、答えは分からなかった。
「ごめん、ちょっと分からない」
『そっか……ううん、こっちこそごめん。あまりにも愛佳の様子が尋常じゃないから、どうしても気になっちゃって』
「……そんなに?」
『うん……あのね、倉瀬君』
「なに?」
『あたしも愛佳が何を考えてるのかはよく分からないけど……たぶん、今愛佳があそこまで本気になってるのは、倉瀬君のためだと思うの』
「え……?」
予想だにしない言葉に、思わず頭が真っ白になる。
ただ呆然とする僕に、仲澤さんはどこか必死さの滲む声で続ける。
『来週の全国大会、愛佳は何も言わないけど……きっと、倉瀬君に見て欲しいって思ってる。だから、お願い。来週、あの子の演技を見に来てあげて』
「……」
仲澤さんの言葉、全てに納得したわけではなかった。フラれた自分が、これ以上彼女の周りに下手に近付かない方がいいんじゃないかという思いもある。
でも……もし渡井さんが、演技を通して僕に何かを伝えたがっているのなら。
僕は、それを受け止めなければならない。いや、受け止めてあげたい。だから……
「うん、分かった」
僕は、仲澤さんにはっきりとそう告げた。
そして、一週間後。遂に、新体操の全日本学生選手権大会が幕を開けた──
【って、いやサブタイ!?】【私、チワワさん。一度言ったことは実行する女なの】




