絶食系男子、言い聞かせる
「練習終わりに、教室に来て」
渡井さんにそう声を掛けられたのは、今日の練習の最後の休憩時間中のこと。
どこか苦しそうな表情で言われたその言葉に従い、僕は片付けの手伝いを終えると教室に向かった。
扉を開け、オレンジ色の夕日に照らされた教室内に入る。
窓から差し込む夕日は、昨日の観覧車を思い出させた。
「何が、悪かったのかな……」
自然、ぽつりと口から疑問がこぼれ落ちる。
昨日のデートは、帰り際までは極めて順調だった。
いろいろあったけど、なんだかんだ渡井さんは楽しんでいたように見えたし、本人もそう言ってくれた。
だが、遊園地を出るか出ないかといった辺りから、渡井さんが突然ひどく思い詰めた表情をするようになってしまったのだ。
ただでさえ白い肌を更に青白くし、心なしか足元もおぼつかない様子だった。
あまりの豹変っぷりに、最初は熱中症か何かかと思ったのだが、特にそういったわけでもないらしく。実際、気の流れを見てみても体調には異常はなかった。
なら僕が何かしてしまったのかと思ったのだが、直接尋ねても渡井さんは首を左右に振るばかりで何も言わず、むしろ追求しようとしたら一歩引かれるような有様だった。
その、どこか怯えすら感じさせる態度は、一夜明けても変わることはなく。
今日の練習中も、渡井さんはどこか他人行儀な態度で、全然目を合わせてくれなかった。
むしろ、僕が下手に近付くと表情が強張り、演技も精細さを欠くので、他の部員に心配を掛けないためにも、今日は僕の方から少し距離を取るようにしていた。
「難しいなぁ」
人の心は本当に難しい。
僕はただ、渡井さんに笑っていて欲しいだけなのに。たったそれだけのことが、こんなにも難しい。
彼女の笑顔を守るためなら、どんなことだって出来ると思うのに。実際に今、渡井さんの笑顔を曇らせているのは……恐らく、僕自身だ。
ガラガラッ
その時、教室後方の扉が開いて、制服に着替えた渡井さんが入ってきた。
「遅くなってごめん」
「ううん、大丈夫」
俯きがちにこちらに近付いてきた渡井さんと、正面から向き合う。
その瞬間、僕の頭の中に半年前の光景がフラッシュバックした。
僕達が仮初の恋人関係となったあの日。あの時は、僕が渡井さんを呼び出した。そして今は、渡井さんが僕を呼び出している。
その瞬間、僕はこれから起こることを予感した。
そして、その予感はすぐに肯定された。
「倉瀬君」
「はい」
ずっと暗い表情で視線を伏せていた渡井さんが、そこではっきりと僕の顔を直視した。
そして、そのままゆっくりと頭を下げる。
「ごめんなさい。私と別れてください」
それは、数日前にも告げられた言葉。
でも、あの時と今ではその重みが違う。
あの時はまだ、話し合う余地があった。でも今は、その話し合いを経た上で、尚も別れて欲しいと言っているのだ。
僕の想いを、全部聞いた上で。僕の……好きになってくれなくてもいいから、側にいたい。その想いを、聞いた上で。
ならば……ならば、もう僕に止めることは出来ないのだろう。
もう言葉は十分に尽くした。その上で、渡井さんが決めたことなのだ。
ここで下手に食い下がっても、渡井さんを困らせるだけだ。
……そう、思うのに。
「理由を……聞いてもいいかな?」
気付けば僕は、その問いを口にしていた。
言って、すぐに後悔する。
既にフラれた身で、何を聞いているのか。女々しいことこの上ない。
だが、僕が質問を取り下げる前に、頭を下げたままの渡井さんが答えを返した。
「好きな人が……出来たんです」
その告白は、僕に少なからず衝撃を与えた。
同時に、納得する。そうか、あれは……昨日から見せている渡井さんのどこか思い詰めたような、心苦しそうな態度は、そのためだったのかと。
昨日のどこかのタイミングで、渡井さんは本当の恋に気付いた。そして、どうあっても僕を本物の恋人だとは思えないことを悟って、仮初の恋人関係を続けることに罪悪感を覚えたのだ。
(やっぱり、渡井さんは優しいな)
昨日、僕が思ったことはやっぱり間違っていなかった。
いつか、渡井さんに本当に好きな人が出来て、この関係が終わる時。渡井さんは、きっと僕のことを気に掛けて苦しむと。今の渡井さんが、まさにそれだ。
なら……僕がやるべきことは、1つだ。
笑えばいい。
笑って、お別れをすればいい。その背中を押してあげればいい。
昨日自らに立てた誓いを果たす時が来たのだ。さあ気合入れろ倉瀬聡。笑え。笑え!!
「……そっか」
うん、大丈夫。声は震えてない。
僕の声に、ビクッと体を震えさせた渡井さんが、ゆっくりと顔を上げる。
大丈夫。僕は笑えている。だから……
「今までありがとう、渡井さん。渡井さんの恋が上手くいくことを、陰ながら祈っているよ」
だから……渡井さんにも笑って欲しい。
笑って、気持ちよくお別れしたい。のに……なんで、
なんで、そんなに泣きそうな顔をするの?
「ぁ……?」
そこでようやく、僕は何かが頬を伝う感触に気付いた。
慌てて袖で顔を拭うも、一度流れたものは誤魔化せない。
「倉──」
「あ、いや……ははっ、ずっと新体操一筋だった渡井さんに、好きな人が出来たかと思うと……お兄さんちょっと、嬉し涙が」
ああぁもう何を言ってるんだ。くそっ、自分の表情もコントロール出来ないなんて未熟が過ぎるぞ!
ダメだ。頭の中がぐちゃぐちゃだ。もう、上手くしゃべれる気がしない。
「じゃあ……頑張ってね、いろいろと」
結局、僕はもごもごとそう言うと、顔を伏せたまま逃げるようにその場を後にした。
足早に教室を出て、玄関で靴を履き替え、振り返ることなく早足で校門を出る。
そして、1つ目の角を曲がったところでようやく歩調を緩めた。
胸に満ちるのは、強烈な自己嫌悪と後悔。
なんだあれは。みっともないにもほどがある。
涙を流すなんて最悪だ。あれじゃあ、渡井さんが気にせず前に進めないじゃないか。
「はあ……最低だな、僕」
彼女の幸せだけを願うイイ男の振りをしていながら、結局僕は自分で彼女を幸せにしたかったのだ。どんな手を使ってでも、彼女の隣にいたかったのだ。
人の本性は追い詰められた時に明らかになると言うが、本当にその通りだ。
結局僕は、我欲を捨てられないただの男だったんじゃないか。
「……修行が足りない」
こんなんじゃ、せっかく修行を付けてくれたじいちゃんにも申し訳が立たない。
ああでも、もう修行する必要なんてないのか。だって、僕はもう渡井さんの側にはいられないんだから。
今更、何をやっても……
「ダメだ、自棄になってる」
落ち着け倉瀬聡。
大丈夫だ。考え方と感じ方を少し変えるだけで、どんな苦しみも乗り越えられることを僕は知っている。
だから、大丈夫。こんなに苦しいのは今だけだから。
渡井さんとの思い出があふれて止まらないのも、その一つひとつに胸を締め付けられるのも、今だけだから。きっと、すぐに大切な思い出になるから。
「うん……大丈夫」
その日、半年間続いた僕と渡井さんの関係は終わった。




