絶食系男子、全てを受け入れる
「私と別れてください」
僕は、一瞬その言葉の意味を理解出来なかった。
しかし、渡井さんの決意と痛みを孕んだ瞳と目が合った瞬間、その言葉の意味がはっきりと脳に浸透した。
「な──」
驚き、混乱、焦り。様々な感情が脳内で爆発し、衝動的に渡井さんを問い詰めようとした────その瞬間。
『倉瀬君には冷静にあの子の話を聞いて欲しい』
昼に仲澤さんが言った言葉が、脳裏を過った。
「──っ!!」
飛び出し掛けた言葉をぐっと呑み込み、一度大きく深呼吸をする。
「倉瀬君……あのね──」
何かを話そうとした渡井さんの前に立てた右手を突き出し、言葉を遮る。
「ごめん。ちゃんと聞くから、ちょっと落ち着くまで待ってもらえるかな」
「あ……うん」
「ごめんね」
そう断りを入れると、僕は近くにあったベンチに座って靴を脱ぎ、結跏趺坐を組んだ。
そんな僕を、渡井さんは一瞬にして淡色になった目で見ながら言った。
「……長くなるならテロップ入れようか?」
「お願い」
~~ 般若心経を唱えています。少々お待ちください ~~
「……ふぅ」
「……落ち着いた?」
「ふぅぅーー……」
「倉瀬君?」
「……やっぱり、般若心経は最高だぜ……」
「ごめん。1人で余韻に浸るのやめてくれる?」
「今の『無無明 亦無無明尽』は特によかった……」
「細かすぎて伝わらない部分で満足感を覚えないでくれる!? 今はシリアスのお時間なんだけど!?」
「どうしてそんなに興奮してるんだい? 般若心経が足りてないのかな?」
「ちっがぁーーう!! もう怒るよ!? 怒っちゃうよ!? うぅぅうがーーー!!」
「おぉ……明らかに怒り慣れてない渡井さんの怒声……尊い」
「うがぁぁーー!! うぅぅぅうにゃあぁーー!!」
「む、う……ちょっとやり過ぎたかな? あぁーー……うん、とりあえずテロップ」
~~ ヒロインを落ち着かせています。少々お待ちください ~~
~~ 空気を元に戻しています。もう少々お待ちください ~~
「落ち着いた?」
「おかしい……なんで私が落ち着かされる側になってるんだろう……」
「諸行無常だよね」
「物事は移ろいやすいって? 誰が上手いこと言えと」
空気を壊されてすっかりむくれてしまった渡井さんをなんとか落ち着かせ、今僕達は1つのベンチに並んで座っていた。
半分くらいは、渡井さんの気分を回復させるためにわざとやったことだが、どうやらやり過ぎたらしい。
いや、だって渡井さん、なんだか帰り道の間ずっと沈んだ表情をしてたし、さっきなんて今にも泣きそうな顔をしてたから……。
仲澤さんに言われたように2人でちゃんと話し合うには、お互いに心を落ち着かせる必要があるかなって思ったんだよ。興奮してる場合は勿論だけど、心が沈み切ってる場合でも正常な判断は出来ないだろうしね。
結果として、なんだか予想以上に怒らせてしまったわけだけど……そんなにおかしなことを言ったかな?
「はあ……私を気遣ってのことだったんだろうけど、もうちょっとマシなやり方はなかったの?」
まるで心を読んだかのように隣に座る渡井さんにジト目を向けられて、少し驚く。
それと同時に、渡井さんのジト目というレアな表情に性懲りもなく心が浮き立つ。
しかし、ここでそれを表に出したら本格的に怒られる気がしたので、ぐっと堪えて頭を下げた。
「ごめん、悪気はなかったんだ。『般若心経が足りてない』は、サトラー相手ならまず外すことがない微笑ネタだって聞いたんだけど……」
「私サトラーじゃないし……。それに、微笑ネタ? そこは爆笑ネタじゃないの?」
「高位のサトラーになると、口を開けて笑うことはまずないから……」
「……あっそう」
疲れ切った様子で溜息交じりにそう呟く渡井さんを見て、流石に申し訳ない気持ちになる。
やっぱり、怒声を上げる渡井さんに「尊い」はマズかったかもしれない。
でも、紛れもない本心だったのだから仕方がない。
「怒るよ」とわざわざ宣言した後で、どう怒りを表現すべきか一瞬迷って、視線を泳がせてからの若干躊躇い気味の「うがーーー!!」。
うん、あまりの可愛らしさに思わず拝んでしまってもしょうがないと思うんだ。
そして、拝まれてからの「うにゃあぁーー!!」なんて、あまりの尊さに一瞬涅槃が見え掛けた。
怒られているのが当の自分でなかったら、我を忘れて涙を流しながら五体投地していたかもしれない。
なんとか堪えた自分自身の理性を内心褒めつつ、僕は気を取り直すように一回咳払いをすると、改めて渡井さんに尋ねた。
「それで……どうして突然別れ話を? 僕が何かしてしまったかな? それとも……他に好きな人が出来たとか?」
僕に何か落ち度があったのなら改めるつもりだが、他に好きな人が出来たのならどうしようもない。
先程は思わず取り乱してしまったが、もう大丈夫だ。
たとえ渡井さんの言葉が僕の望むものではなかったとしても、静かに笑って受け入れるだけの覚悟は出来ている。
しかし、そんな僕の覚悟に反して、渡井さんは弾かれたように顔を上げると、激しく首を左右に振った。
「違う! 違うの! 倉瀬君は、何も悪くなくて……わた、し……私、が、悪いの……私が、倉瀬君に相応しくないの…………」
そしてグッと下唇を噛み締めると、また悄然と俯いてしまう。
その言葉に、反射的に「そんなことはない!」と反論し掛けたが、すんでのところで堪える。
今僕がすべきは、渡井さんの言い分を最後までちゃんと聞くことだ。反論をするのはそれからでいい。
「落ち着いて。ちゃんと聞くから。ゆっくりでいいから、なんでそう思ったのかを聞かせてくれる?」
僕は宥めるようにそっと渡井さんの肩に手を触れると、なるべく優しくそう囁きかけた。
すると、渡井さんは俯いたまま、ぽつりぽつりと話し始めた。
男に言い寄られることにうんざりし、その八つ当たりと男除けを兼ねて僕と付き合ったこと。
「キスもそれ以上のことも結婚するまで一切ナシ」という約束で、僕を牽制すると同時にその誠意を試したこと。
仮にも付き合っていながら、僕の献身を一方的に甘受するばかりで何も返そうとしなかったこと。
そんな状況を僕がどう思っているのか、思い遣ることもなかったこと。
そして……仲澤さんに指摘されるまで、それらのことに一切気付かずにいたこと。
まるで感情を押し殺したかのように飽くまで淡々とそこまで語ると、渡井さんは覚悟を決めたようにスッと顔を上げた。
真っ直ぐこちらを見詰めるその瞳には、溢れんばかりの謝意と自責の念が満ちていた。
「私は、倉瀬君にたくさんたくさん酷いことをしてきました。そして……それでもまだ、私には恋愛というものが分かりません。倉瀬君の気持ちに……応えてあげることが、出来ません。こんな私が一緒にいると、また倉瀬君を傷付けてしまうと思うから……」
そして、渡井さんはベンチから立ち上がり、僕の正面に回ると、深々と頭を下げた。
「ごめんなさい。私と別れてください」
再び告げられた、別れの言葉。
僕は……別にショックを受けてはいなかった。
それよりも、自責の念に苛まれる渡井さんの心を晴れさせるにはどうすればいいのかを考えていた。
どうすれば、沈み切ったその顔に笑顔を取り戻せるのか……どうすれば、その固く握り締められた手を解くことが出来るのか……考えて、考え抜いた末に……笑い飛ばすことにした。
「なぁ~んだ、そんなことか」
「──ぇ」
虚を突かれた表情で頭を上げた渡井さんに、僕は努めて笑顔を浮かべ、軽い口調で言った。
「そんなこと、気にしなくていいのに」
「そんなこと、って……」
「だって、知ってたからね」
僕は立ち上がると、渡井さんを真っ直ぐ見詰めながら肩を竦めてみせた。
「渡井さんが僕に恋愛感情を持っていないことなんて、最初から知ってたよ」
嘘だ。
僕がそのことに気付いたのは、付き合い始めてから2カ月くらい経ってからだった。
でも、それを言ったら渡井さんが傷付くと分かっていた。
だから、僕はあっけらかんとした口調で嘘を吐いた。
「だから、お互い様だよ」
「え……?」
「渡井さんは僕の感情を利用したって言うけど、僕だって渡井さんが追い詰められているっていう状況を利用した。渡井さんが精神的に追い詰められていることも、僕に恋愛感情を持っていないことも知っていて、その上で知らん顔して渡井さんの恋人に収まったんだ。だから、お互い様」
「……」
これで少しは罪悪感が薄れるかと思ったのだが……渡井さんは、どこか悔恨の滲む表情で唇を噛み締めるだけだった。
「それに……部活のお手伝いだって、僕が好きでやっていることだからさ。自分でやりたいと思って、頼まれもしないのに勝手にやってることだから。だから、渡井さんが気に病む必要なんてどこにもないんだよ」
「……どうして?」
「ん?」
「どうして……手伝ってくれるの?」
そう問い掛ける渡井さんの瞳には、一切の誤魔化しを許さないという強い光が宿っていた。
だから、僕も居住まいを正し、紛うことなき本音で答えることにした。
「……渡井さんに、夢を叶えて欲しいから」
「……夢?」
「うん、全国大会優勝。渡井さんの夢なんでしょ?」
それは、渡井さんがずっと言っていることだった。
毎年8月に行われる新体操の全国大会で、個人優勝を果たす。
それこそが、渡井さんの目標であり、夢なのだ。
「僕は、渡井さんに夢を叶えて欲しい。その助けになるなら、手伝いくらい、いくらでもやるよ。いや、やりたいんだ」
「……」
「だから、さ……仮に別れることになっても、僕はこれからもお手伝いに行くよ。今度は友人としてね。……まっ、渡井さんがもう僕の顔なんて見たくないって言うんなら、それは流石に諦めるけどね」
茶目っ気たっぷりにそう言い切った後で、僕はスッと表情を改め、はっきりと自分の意志を伝えた。
「僕としては、これからも渡井さんとお付き合いを続けたいと思う。別に渡井さんが恋愛感情を持っていなくたっていい。なんならただの男避けって考えてくれてもいいよ。……僕は、渡井さんの側にいたい。渡井さんの側で、渡井さんが夢を叶える姿を見たい。そして、出来ればその助けがしたいと思ってる。……どう、かな?」
「好きだから」とは言わなかった。
今その言葉を伝えたら、きっと渡井さんの負担になってしまうと思ったから。
でも、「夢を叶える手伝いをしたい」というのも、紛れもない僕の本心だ。
渡井さんの夢は、僕の夢。渡井さんの幸せが、僕の幸せなのだから。
僕の問い掛けに、渡井さんは僕の視線から逃げるように目を逸らし、俯いてしまった。
そのまま、2人の間に沈黙が落ちる。
僕は、静かに渡井さんが結論を出すのを待っていた。
僕の意志は伝えた。その上で渡井さんが決めたことなら、僕は黙って受け入れるだけだ。
やがて、公園内にちらほらといた人影が完全に姿を消した頃、渡井さんが小さく呟いた。
「本当に……いいの?」
そしてゆっくりと顔を上げると、僕の目を真っ直ぐ見詰めながら、静かに言った。
「本当に……こんな私でいいの?」
僕の答えは、決まっていた。
「いいよ。ううん、渡井さんがいいんだ」
「……そっ、か」
そう呟くと、渡井さんは少し視線を彷徨わせてから、おずおずと右手を差し出してきた。
「それじゃあ……その、改めて、これからもよろしくお願いします……」
その言葉に、僕は心からの笑みを浮かべ、しっかりとその手を握り返した。
「こちらこそ、これからもよろしく」
別れずに済んだことに、内心で安堵の息を零す。
やっぱり、なんだかんだ言っても僕は渡井さんが好きなのだ。
渡井さんが幸せなら、僕も幸せ。その気持ちに偽りはない。
でも、出来ることなら、僕の手で渡井さんを幸せにしたい。そう思う気持ちもまた、偽らざる僕の本心だった。
だから、別れずに済んだことは本当に嬉しかった。
ただ……そう、
僕の手を握り返しながら、ほんの一瞬。
ほんの一瞬だけ渡井さんが浮かべた泣き笑いのような表情が、ずっと心に引っ掛かっていた。
諸行無常:仏教用語で、この世の神羅万象は常に変化し続け、永遠に変わらないものなどないという意味。
涅槃:仏教用語で、元々の意味は悟りの境地。あるいは肉体の死を意味する。また、最近ではあの世という意味で使われることも。
五体投地:仏教において最高の敬意を示す礼拝方法。文字通り五体(両膝、両肘、額)を地に着け、両手は頭の上で合掌したり、指同士を触れ合わせたりする。
……真面目に解説したのに、なんで不満そうな顔をしてるし。




