平凡で少しだけ特別な一時
授業が終わり、自分たちの本分を終えた学生たちは各々自分の日常へと帰っていく。部活へ向かうもの、早々に帰宅するもの、どこかへ遊びに出かけるもの。その在り方は様々だ。
そして、彼女、糸井渚も自らの日常へと戻っていく。向かうのは文学部の部室。授業を終えた校内は独特の静けさに包まれおり、遠くから吹奏楽部の練習する音色だけが聴こえる。廊下を歩く渚の足取りも、その音色に引かれてか。軽やかなものとなっている。
「後輩くーん、今週も来たよ! 」
渚は勢いよく扉を開けながら、部屋の中へ声をかける。
「お疲れ様です先輩。相変わらず元気ですね」
声のした方に目をやると部室の中央に置かれた大きめのテーブルの奥側に彼は座っていた。笑顔で出迎えてくれた彼に、渚もまた屈託のない笑顔をむける。そして、いつも通り彼の斜め前に腰を下ろす。
「紅茶淹れますね」
「ありがと」
これもいつも通り。彼は読んでいた文庫本を置き、お茶の用意を始める。渚もお礼を言いつつ、お茶菓子の用意をする。
「どうぞ」
「わー、良い香り」
「今日はそこそこ奮発しましたからね」
「そうなんだ、何かあったの?」
「そうですね、お祝いって感じです」
「お祝い? 」
「ええ、先輩がこの部屋に来るようになって今日で丁度半年経つので」
「あ......」
渚の口からは、わずかに驚きの声がもれた。言葉を発した当の本人である彼はそんな渚の様子には気付いていないようで、さっさと手元の文庫本へと視線を戻してしまう。渚もそれ以上深く追求することはない。しかし、その口元が僅かに嬉しそうに緩んだいたのはきっと気のせいではないだろう。
それから二人は、特に言葉を交わすこともなく。お互いに読書をしたり、今日出された課題をやっつけたり、携帯で動画を見たりしながら過ごしていた。特別なことなどない。ありふれた時間。壁掛け時計が時間を刻む音だけが部屋に響く─
「......ん」
そんな、落ち着いた空間であったせいだろうか。渚はいつの間にか眠ってしまったいた。
「起きてください、先輩。もう外も暗くなってるのでそろそろ帰りましょう」
「むー、あとこふーん」
「それは、永眠する場所ですよ。寝ぼけてないで。ほら」
彼に促され、気怠げに上体を起こす。大きな欠伸をひとつして、背筋を伸ばす。その様は、寝起きの猫そっくりだ。動きに合わせて、渚の肩からはブランケットが落ちる。
「あれ? 後輩くんが掛けてくれたの? 」
「先輩に風邪を引かれたら困るので」
「ふふ、嬉しいこと言ってくれるじゃん」
「僕も、この時間は好きですから」
部屋の戸締りをしながら、至極フラットに話す彼。そんな、彼をみやりながら。渚はブランケットを拾い上げ、ぎゅっと抱きしめていた。
部室に鍵をかけ、学校を出る頃には辺りはほとんど闇に覆われていた。さすがに、12月にもなると日が沈むのは早い。渚も彼も底冷えすような寒さに身を縮ませながら、ゆっくりと歩を進めていく。
「うわ〜。さっぶいね〜」
「もう、完全に冬ですね」
「冬だねー。あっ、今度さあの部屋で鍋でもしない? 」
「嫌ですよ。そんことして部室使えなくなったらどうするんですか」
「確かにそれは困るねー」
しばらく他愛のない会話が続き、やがて二人が別れる交差点に近づいてくる。徐々に渚の言葉数が少なくなっていく。交差点に差し掛かった頃には会話は完全になくなっており。少しの間、沈黙が生まれる。お互いの吐く白い息が冬の空気に軌跡を残す。その白さが闇に溶けていくのと同じタイミングで渚も口を開く。
「じゃあ、また来週ね」
「あっ、ちょっと待ってください」
「どうしたの」
「これ、どうぞ」
「え! これってさっきの? 」
「少ないですけどお祝いに」
彼が差し出した紙袋の中には、先ほど出された茶葉が入っていた。
「ありがと。味わって飲むね」
「はい。じゃ今度こそ」
「うん。またね」
それ以上は特に言葉を交わすこともなく。お互いに背を向けて、それぞれの日常へと戻っていく。彼と別れてしばらく歩いてから、不意に渚は空を見上げた。そこには太陽の面影は完全に消失しており、星座たちが煌めいていた。冬の日暮れは本当に早い─。