恋母
人にいじわるする心を、まりあは許せなかった。
母親からの正義感と、父親からの人の良さを受け継いだまりあは、人が嫌な気持ちになる行為ができないでいた。
どうしてこんなことをするのかと、ぼんやり考えながらゴミ箱の中を覗き込んだ。
長い髪を清楚に二つに分け、制服をきちんと着たまりあは、いかにも真面目な生徒だった。
そんな真面目なまりあだったが、もうすぐ始まる授業を気にかけながらも、その場を離れるわけにはいかなかった。
まりあは自分と同じように探し物をしている女生徒を置いてはいけなかった。
その女生徒は上履きをはいていなかった。白い靴下のままでぺたぺたと冷たい廊下の上で動いている。
「……教室に来るな、ってことなのかな」
女生徒は力なく言った。
その表情は暗く、今にも泣きそうだ。
灰色の廊下にはちらちらと外からの日差しが僅かに入り込む。淀んだ光が廊下で泳いでいるようだった。
「……」
まりあは何の返事もしなかった。必要がないと思った。
しかし今の沈黙に重さを感じると、そうか、と思い至り、
「そんなことないよ」
と、取ってつけたように返した。
女生徒はその言葉を待っていたかのように、安心した顔で微笑んだ。
まりあはその顔に満足した。大きな黒目を細めて、微笑み返す。
二人がいる廊下は一階のため、日が差し込みにくく、不気味なほの暗さを残している。そろそろ四時間目が始まる時間だ。生徒たちは既に教室に戻っているため、二人の足音だけが響く静かな場所となっている。
教室に戻るべきか、まりあは悩んだ。
次の授業は国語だった。国語の先生は厳しい先生で、授業中に眠そうにしていることも、意欲的でないことも、目につくような人だ。授業に遅れるなんてことはもってのほかだ。
まりあは一階の窓から、自分の教室がある二階を見上げた。
中庭を挟んだ向こう側に自分の教室が見える。
ふと、そこに誰かがこちらを見ているのが視界に入った。
まりあは小さな頭をこてん、と少しかしげる。
橋本綾。
まりあはその人物を知っていた。クラスメイトだ。誰に対しても反抗的な態度の女生徒で、クラスの問題児でもある。
小首を傾げたまま、まりあは橋本綾を見上げていた。
そして、視界の端で国語の先生がまりあの教室へ進んでいるのが見えた。
(あぁ、間に合わないなあ)
まりあはのんびりと思った。
橋本綾は先生の存在に気付き、教室へ戻ったようだ。視線を戻すと彼女の姿はなかった。
まりあは目前に広がる中庭を眺める。
ついでに中庭に目的のものが捨てられていないか確認する。しかし、既に見つける気力を失い、雑に中庭を一瞥した。
「もう教室に戻ろう?」
後ろで声がして、振り返る。
小柄なまりあは目に涙をためた女生徒を見上げ、うん、と無表情で頷いた。
「ごめんね、授業遅れちゃうね」
「いいよ、気にしないで」
また取ってつけたように返した。
すると、また女生徒は安心したように微笑んだ。
まりあは人が傷付く事ができなかった。人を助ける勇気を持っている自分と、優しい言葉が吐ける自分が立派だと思っていた。
(なんて卑しいんだろう)
心の片隅で思った。
静まり返った廊下を見る。
冷たい廊下を眺め、二人は自分達の教室へ向かった。
教室に戻ると既に授業は始まっていた。
感情の無い、冷ややかな先生の声が廊下に響いている。
二人は教室の扉の前で立ち止まっていた。
二人には静かに授業を受ける生徒たちの前に出ていく勇気がなかった。
委縮する気持ちを感じながらも、まりあは自分の正義感を信じた。
まりあは一度目をつむり、深く息を吸い込んだ。
扉を開けた。
先生の声が途切れ、クラスメイトの視線がまりあ達に集中した。
心臓がずきり、と痛むのをまりあは感じた。
鋭利な刃物でつつかれているような痛みだと思った。
先生が二人を冷酷な目で見た。
「遅れてすみません」
まりあは謝って、自分の席へと戻った。
続くように女子生徒も自分の席がある一番前の列へ戻った。
女子生徒が戻っていくのを、数名の生徒がにやにやしながら見ていたのを、まりあは確認した。
「今の二人、立ちなさい」
二人が座った瞬間、先生が冷淡な口調で言い放った。
まりあは重い体を持ち上げるようにゆっくりと立った。
女子生徒もその場で立ち上がる。
「私の授業に遅れるとは、どういうことですか」
強い調子で先生は言った。
「……」
二人は黙っていた。
後ろの席のまりあから、立っている女子生徒が上履きを履いていないことが確認できた。
それは、ほかの生徒も見えたはずだった。
しかしほかの生徒は知らぬ顔で、先生の静かな怒りに怯えて口をつぐんでいた。
ずるい、とまりあは思った。
上履きが無いことに先生が気付いているとは思えなかった。
(みんな、ずるい)
ひっそりと思った。
今ここにいるクラスメイトも先生も薄情者だと思った。
気付いている人間も、気付かないでいる人間でさえも、まりあには許せなかった。
「授業を受けなくても良いんですよ」
先生は冷ややかに言い放った。
まりあにとって先生の言葉は馬鹿らしいものにしか聞こえなかった。
「すみません」
しかし、まりあはとても申し訳なさそうに小さく謝った。
(こう言って欲しいんでしょ)
意地悪な心でまりあは謝っていた。
女子生徒も倣って小さく謝った。
それからしばらくは、先生も何も言わなかった。
二人が教室から出ていくのを待っているようだった。
まりあ達が動かないのを見ると、大袈裟に大きなため息をついて、
「座りなさい」
と言った。
大袈裟にため息をつきたいのはこっちの方だ、とまりあは思った。
口を強く結び、まりあは静かに座った。
隣の席の女の子がまりあに目配せした。
上履きの無い女子生徒を指さして、同意を求めるように迷惑そうな顔をしていた。
まりあは周囲の友達から甘やかされていると自覚があった。優しく可愛らしい顔立ちの彼女は、黙っていても周りの目をひいた。まりあもそれに気付いていた。さらには謙虚でよく言う事を聞くまりあを悪く思う人は少なかった。
だから、まりあは多少意に反したことをしても、上履きを隠される立場にはならないと、確信があった。
まりあは隣の席に苦笑を向けた。
(こいつも、クラスのみんなも、先生も、みんな薄情者だ)
そんな外面ばかり良いまりあの心は、底から煮えたぎっていた。
(こんなことに付き合わなきゃよかった)
あの子のせいで、とまりあは思った。
そして、友情ではなく、ただの正義感だけで助けようと思った自分を非常に愚かだと思った。
ほかの人とは違うことができるんだ、と胸を張っていた先ほどまでの自分を嘲笑した。
(自分はなんて卑しいんだろう)
渦巻くたくさんの感情に、うんざりとした。
自分の愚かさに呆れた。
先生が何もなかったかのように授業をはじめた。
結局女子生徒の上履きが見つからなかった。
そもそも、女子生徒は次の授業に姿は現さなかった。
早退をしたらしく、それさえもまりあの気に障った。
(薄情者)
ただ一言、まりあの心にはその怒りだけが存在していた。
翌日、まりあはいつもの時間に登校した。
昨日の事は未だに許せていなかった。
教室に入ると、前方の席にあの女子生徒がいた。
上履きを履いてはいなかったが、代わりに来客用のスリッパを履いている。
その姿を見て、まりあは彼女を哀れに思い、今の気持ちが多少すっきりするのを感じた。
(私の心は卑しい)
刺すように心の中で呟いた。
女子生徒に挨拶をすることもせず、彼女の姿を確認しただけで、まりあは自分の席へと着いた。
朝の読書の支度をしようと机の上に置いた鞄を開き、本を取り出した。
すると、乱暴に扉が開かれた音がした。
クラスの数名がその音に吃驚して、教室の扉の方へ視線を向けている。
まりあも、朝から大きな音を立てている事に勘が障り、迷惑ながらも無表情のまま扉を見た。
そこには橋本綾がいた。
校則違反の化粧をした橋本綾は、他のクラスメイトよりも大人びた印象がある。
何にも流されないような、一人で何でもやってしまうような彼女はクラスからも孤立していた。しかしそれはあの女子生徒とは違った、気にならない孤立の仕方だった。
綾は化粧品で書かれた眉をきつく寄せ、明らかに怒っているような表情をしている。
その綾の視線はただ一点を見ていた。
大股でそちらへ近づき、キュッと音が出そうな勢いでそれの前で止まった。
目前に現れた憤怒の表情の綾に、上履きのない女子生徒は怯えていた。
綾は女子生徒の机の前で立ち止まり、彼女を見下ろしていた。
「……」
女子生徒は小さく委縮して俯いていた。
まりあはそれを不思議な気持ちで眺めていた。
女子生徒と綾との間で何かあったとは考えられなかった。そもそも、綾はほかのクラスメイトのことなど無関心のはずだ。女子生徒に朝から絡むほど、彼女が他人に関心を持つことなどあるのだろうか。
考えながら、二人のやり取りをどきどきしながら見つめていた。
「あのさあ」
隠すことのない怒気を含んだ声で、綾が言った。
それだけで女子生徒は肩をびくりと震わせた。
「あんた、何であの後逃げたわけ?」
「え……」
あまりクラスメイトとも会話をしない彼女が、教室に響くような強い口調で吐き捨てる。
女子生徒は状況が理解できずに混乱している。
「昨日の事だよ。落合さんに謝ったわけ?」
「……」
まりあは自分のことを話題に出され、どきりとした。
痛いところを突かれたように、女子生徒は顔を歪ませた。
多少気にしてはくれていたことを知り、まりあの心は静かになった。というより、関心を削がれていった。
最早まりあにとってどうでもいいことのように思えてきた。
昨日の出来事が酷くつまらないことだったような気がして、まりあは視線を手前の本に向けた。
(でも、どうして橋本さんがあんなに怒っているんだろう)
あの時に見ていたからだろうか? 本当のことを知っているからだろうか?
まりあは考えた。
しかし、話のいきさつを知っているといっても、わざわざクラスメイトの前でわめき散らすことはない。いつものように、昨日のことなど無かったかのように振る舞うのが普通だ。
(みんな、薄情者だから)
まりあはまた吐き捨てるように思った。
「あんたのそういう所がいじめられる原因なんじゃないの?」
綾は容赦なく言った。
流石にその言葉に引っかかったまりあは立ち上がった。これ以上言われて、逆恨みのように女生徒が自分を嫌ってしまうと思ったのだ。まりあ自身が女生徒のことが嫌いだとしても、女生徒には嫌われたくなかった。とにかく、まりあは誰からも好かれたかった。
まりあが立ち上がったのと、二人のやり取りを見ていた他の女子が笑っているのとは同時だった。
綾はその笑い声に勘が障ったのか、今度はその女子のグループを睨みつけた。
まりあは止めるタイミングを失って、その場に立ち尽くした。
「何笑ってんだよ、ブス」
辛辣な言葉を吐く。
その言葉に傷付くよりも、怒ったような顔をして一人の女子が綾を睨み返した。
「別に? 面白いから笑ってるだけじゃん」
「そもそもお前らが下らない遊びしてるからこうなってんだろ」
綾の矛先は完全にいじめている彼女らに向かっていた。
「はあ? 橋本さんには関係ないじゃん」
瞬間、綾が女子の頬をはたいた。
その音に教室が静まり返る。
無関心だったクラスメイトも、息を呑んで綾の方へ振り向いた。
女子は平手打ちを食らった頬を片手で抑え、綾を凶悪な顔で睨んだ。
「最悪!」
女子が立ち上がると、綾は短いスカートに構わず足を上げ、目の前にある机を蹴り上げた。
机はけたたましい音を立てて倒れた。
流石に、物怖じしないまりあも目を丸くした。
綾の攻撃は止まらない。
綾は女子の胸ぐらを掴んで教室の壁へと押し付けた。
先程まで強気だった女子も、恐怖のあまり目に涙を貯めていた。
「今度はこれで殴ってやろうか?」
綾は女子の眼前に拳を見せた。
最早何に怒っているのかさえ分からなくなっている様子だった。
(今、ここで割って入れば)
正義感がまりあを支配した。
とうとう見かねたまりあが、割って入ろうとすると、
「お前ら、何やってる!」
隣のクラスの男性教師が怒鳴り声をあげた。
まりあは、はっと立ち止まった。
教師が綾を引き剥がし、泣きじゃくる女子生徒を宥めた。
綾はひどく無感情な顔でそれを眺めていた。
「橋本、職員室に来なさい」
先生は静かに、しかし怒りを込めた口調で綾に言い放った。
綾は返事をしなかった。
それがまた教師の機嫌を損ねたのか、
「聞いてるのか!」
と今度は冷静さを欠いて怒鳴った。
「はーい」
綾は反省した様子をかけらも見せずに間延びした返事をした。
まりあはそのやり取りをただ立ち尽くしてみていた。
痛いほど胸がドキドキしていた。感じたことのない非日常と、理解できない綾の不気味な怒りがまりあの心臓をつついていた。
(橋本…橋本綾)
教師の後をふらふらと付いていく綾の後ろ姿を眺める。
まりあの心は彼女でいっぱいになっていた。
放課後、靴箱で綾が立ち尽くしているのを見かけた。
まりあは自分の靴箱から靴を取り出し、上靴をしまった。
今日は午後から雨が降り始め、湿った空気が玄関先にも広がっている。
日が落ちるのも早くなったこの時期では、今の時間でもじゅんぶん外は暗かった。
綾は職員室に連れ出されたあと、二時間目から授業に参加していたが、ずっと机に突っ伏したままだった。
三年生のこの時期にそんな態度をとっているのは綾ぐらいである。
先生達もなんとかして綾に意欲を促すが、綾は全く相手にしなかった。
まりあはそんな綾が少しかっこいいと思っていた。
他人の顔色を伺って、自分の言いたい事が言えないまりあにとって、綾はとても強い女の子に見えた。
綾は相変わらずぼーっと外を眺めているだけで、帰る気配がない。
まりあの片手には傘があるが、綾は何も持っていないことに気付いた。
「あの」
まりあはおそるおそる声をかけていた。
いつもなら、友達でもない生徒が困っていても気付かないふりをして通り過ぎるが、綾に興味があった。
綾は気だるそうにまりあの方へ振り返る。
「傘、あるから、一緒に」
なんと言おうか全く考えていなかったので、曖昧にしか言葉が出なかった。
綾はそれを非常にめんどくさそうな顔で聞いていた。
「あんたさ」
今朝のような鋭い口調で綾は言った。
「あんなことして、誰を助けたつもりなの?」
綾は昨日のことを言っているらしかった。
それは、まりあにとって非常に冷たい言葉だった。
「え…」
言葉に詰まった。
あんな結末にはなってしまったが、少なからず正義感と達成感があった。孤独な彼女を助けてやったぞ、と、誇らしげに思う自分もあった。
それは、本当にあの子のことを心配しての行動ではなかったことも、まりあには充分わかっていた。
ただ、あの時無視していたら、母に顔向けできないと思ったのだ。
まりあの母は非常に正義感の強い真面目な女性で、いつもまりあに厳しく言った。母は、物事の失敗は全て自分の責任である、とまりあに教えて育てた。
まりあはどうしてか、母に反抗することができなかった。それ以上に、母の言う事は世界の真実だと思えるほど、まりあは母親に異常な信仰心を持っていた。
母親の正義感を受け継いだまりあは、出来うる限りのすべてを救ってやりたいといつも思っていた。それが出来ないのは自分の努力が足りないからだと思い込んでいた。
一緒に上履きを探して、少しでも彼女の心が救えたなら、まりあは母に誇らしげに語ってやれると思っていたのだ。
それが今、綾に手厳しく指摘され、その正義感や優しさは、わざとらしく作られたものだと気付いた。
(私も薄情者の一人だったのかも知れない)
まりあはふと思った。
そして、それを見破った綾から目が離せなくなった。
「じゃあ、橋本さんはどうして今朝、あんなに怒ってくれたの?」
まりあははしゃぐ好奇心を押し殺して、怯えたようなふりをして聞いた。
綾はそれさえも見抜いたかのように、気にくわないような顔をして返す。
「嫌なことがあっただけ」
酷く自己中心的な答えだった。
その答えに、さらにまりあは惹かれた。
「親も呼び出されたしさ、ほんと馬鹿だよね」
しおらしい綾を、まりあは意外に思った。先生に叱られたことも、今朝のことも、まったく気にしていないのかと思っていたからだ。
「あんな馬鹿な女にとやかく言われるなんて、ほんとに馬鹿げてる」
彼女は呟いた。
「先生のこと?」
「馬鹿な女」という乱暴な例えに合点がいかず、まりあは聞き返した。しかし、綾を呼びつけたのはあの男性教師ではなかったか、と首を傾げた。
「母親のことだよ」
綾はいらだった様子で答えた。
まりあにはそれが衝撃だった。
自分の母親をそんな風に呼ぶなど、考えもしなかった。
想像してみると、そう呼んだ途端、自分は母の娘ではなくなってしまうような気がした。
それを平気で言ってのける目の前の少女が恐ろしく思えた。
「親を馬鹿だなんて、言うべきじゃないよ」
まりあはそんな綾に怯えながらも、おずおずと忠告した。
すると綾はとても無関心な瞳でまりあを見つめた。
「親ってそんなにすごいものなの」
綾に言われ、まりあは押し黙った。
自分を産んで育ててくれた人なのだから、すごいのは当たり前だ。そう言いたかったが、口には出せなかった。
言葉にできるほどの自信が無いことに自分でも気付いたように、否定することができなかった。
その問いかけに対して、新しい世界を見たようにまりあは思えた。
今まで、異常な信仰心のままに母親を崇拝してきた彼女にとって、その言葉は一生考えることのない問いかけだった。
知らぬうちに、まりあの心はドキドキと早鐘を打つ。
「言いたいことがあるなら言えばいいのに」
綾はあざ笑うかのように吐き捨てて、玄関先へと歩き出した。
ちくりと心臓が痛むのを感じて、綾はその背中を呼び止めようとした。
まりあはもっと綾と話がしたかった。
自分を甘やかし、まりあを自分の人形のように扱う友達とは全く違った接し方をする綾に、まりあは興味があった。
不思議な期待を抱える心を抑えて、片手に持った傘を差しだした。
「ねえ、一緒に」
口にした途端、綾は暗い空の下を駆けていった。
その声は雨の音にかき消されて、綾が振り返ることはなかった。
後に残った化粧品の匂いが鼻をつく。それは決して不快な匂いではなかった。
まりあはただ嬉しかった。
(橋本さんは、私を知る唯一の人間かもしれない)
今まで上手く隠してきた心を覗かれて、知らない心地良さがあった。
化粧をする子なんて嫌いだ。けれど、彼女の匂いは許してやれる。
まりあはすっかり綾を好きになっていた。
なんとも言えない甘美な喜びも、まりあにとっては新鮮なものだった。
綾のいた場所を見つめる。
頬が熱くなっているのを感じた。
まりあはその頬をそっと片手で包む。
出会ったことのない感情と、心地よい恐怖心に、まりあはじっと目を細めて微笑んだ。
まりあは翌日、体がどうにも怠かった。
放課後までなんとか過ごしてはいたが、帰る気力もなく、保健室へと向かった。
保健室は職員室を通り過ぎたその先にある。
学校の隅に追いやられたような保健室の廊下は暗い。
遠目に見ながら、何気なく痛みを感じる頭を抱えながら歩く。
背後で、職員室の扉が開く音がした。
その音でさえも今のまりあにとって耳障りに聞こえた。
「お前、ほんとにいい加減にしてよね」
乱暴な女性の声がした。
その声の主は教師ではないと思い、まりあは不審に思って振り返った。
職員室から出てきたのは保護者のようだった。派手な髪の色をした若い女性だ。
その後ろをついているのは橋本綾だった。
彼女は非常に機嫌の悪そうな顔をしている。
「問題を起こすのはいいけどさ、私まで呼び出しなんて、面倒くさい」
まりあは立ち止まって橋本親子のやり取りを見ていた。
そして、あまりにも乱暴な母親の態度にはらはらしていた。
作り物の正義感がまた顔を出すのを感じる。
「……」
綾は何も返さなかった。
ただ不貞腐れたように唇をきゅっと結んだままだ。
返事がないのが勘に障り、女性は振り返る。
「親に迷惑かけて、謝りの一つもないの?」
馬鹿にしたような口調で言い放った。
綾は母親の顔を見ようともしない。
母親はそこで、綾の顔をじっと見つめた。
「あんた、化粧してんの?」
「……今更気付いたの?」
やっと母親を見たかと思うと、皮肉そうな顔で綾は笑った。
その態度に遂に母親の怒りは抑えられなくなったのか、眉をきつく怒らせた。
「勝手に人の使って? 下手な化粧しやがって」
「橋本さん」
母親が綾を睨みつけて、手を伸ばした瞬間、まりあは声をかけていた。
母親が反射的にその手を引っ込めて、まりあの方を向いた。
綾はそれに反してゆっくりと声の主の方を向く。
まりあはそのあとの言葉は何も思いつかなかった。しかし、声をかけるだけで十分だとも気付いていた。
綾としっかりと目が合った。
綾は先ほどの笑みとは違う、優しく穏やかな微笑を浮かべて、
「ありがと」
と小さく言ったようだった。
小さな声だったので、離れたまりあにはよく聞こえなかった。
けれど、そう言ったのだと思った。
母親は話の腰を折られて、煮え切らない態度で視線を外した。
綾は顔をそらした母親の表情を見つめ、口を開いた。
「人を叩くのって面白いね」
それは、まりあの耳にもはっきりと聞こえた。
母親の表情は凍り付いたように動かなくなった。
まりあは二人のやり取りに首を傾げた。
綾は一人満足げに鼻で笑い、まりあが来た廊下へと向かった。
母親も静かに歩き出した。
静まり返った廊下を見つめながら、まりあの頭は再びずきずきと痛みを訴える。
踵を返して保健室へと向かう。
先ほど抱えていた怠さは少し和らぎ、心地よい鼓動が体の中で鳴っている。
(これも作り物の正義感)
けれど、綾を助けてやれたことにまりあは誇りを感じずにはいられなかった。
翌日、まりあは病院にいた。
熱を出して寝込んでしまい、母に連れられて来たのだ。
まりあはあまり体が丈夫ではなかった。
特にこういった季節の変わり目は必ず風邪をひいていた。
迷惑そうに顔をしかめる母が受付を済ませ、問診票に向かうまりあ。
またいつものように母に仕事を休ませてしまったことに罪悪感を感じていた。
そのことがさらに頭を痛くさせたように思えた。
やがて診察室に呼ばれ、まりあと母親はそちらへ向かった。
医師の前に座ったまりあだったが、質問に答えたのは殆ど母親であった。
まりあは人と話すのが苦手だった。相手から聞かれたことに対して答えるのに、少しの間が必ずあった。
その間に、母親が耐えられないのか、いつも母親が先に口を開く。そうして、まりあの言葉は口の中で転がったままで、外に出てゆくことは無かった。
母の答えに対して、まりあは小さくうなずく。
例えそれが違う答えであっても、まりあは否定することさえしなかった。
否定した途端、母の機嫌が悪くなるからだ。母親のしかめ面を見ると、どうしていいかわからなくなった。
診察室から出る際、看護師の一人がまりあに言った。
「もう中学生なんだから、自分で言わないとね」
柔らかく言ったようだが、まりあの心はズキリと痛んだ。
(そんなこと分かってる)
思いながらも、それに対して苦笑で返した。
途端に、この病院が嫌いになった。理由をはっきり言えない自分にも嫌気がさした。
更に体調が悪くなったような気がして、まりあは暗い顔をした。
「もう、本当にあんたはどうしようもないんだから」
待合室で、母が追い討ちをかけるようにそんな言葉をこぼす。
「もう手が掛かる子供じゃないと思ってたのに。大きな子供はお父さんだけでじゅうぶん」
仕事を休んだ母親に、罪悪感が募る。
母は文句を言いながらも、仕事の融通を利かせてまりあの看病にあたってくれていた。
(私はお母さんに迷惑をかけてばかりだ)
いつも思うことを、いつものように思った。
母は大きくため息をついた。
「いつも私ばっかり。まりあには悪いけど、私、きっと家を出ていくからね」
まりあは何も反応しなかった。何か嫌なことがあるといつも母はそんな話をしていたからだ。
(離婚する気なんて無いくせに)
構ってほしいだけなんだろう、と分かっていたまりあだったが、根本的な原因は自分にあるのだろうかと思い、何も返すことが出来なかった。
(この人は、本当に幸せになろうとしていない)
まりあは一人、心の中で毒づいた。
待合室には午前中の柔らかな日差しが入り込んでいる。他にも病院に訪れた人たちは、平日なためか、高齢の人が多かった。腰を曲げて、ぼんやりしながらテレビを見ている。
穏やかな部屋の中、まりあは一人寂しい気持ちになった。
(橋本さんは今日は学校に来ているだろうか)
まりあは、あの勇ましい姿の彼女を思い出した。
机を蹴り上げたときのけたたましい音や、女子生徒を壁に押し付けたときの反響を思い出す。
(あんな風に、自分の思うことを全部ぶちまけられたら)
そう思いを馳せながら、しかしこの体はただの臆病で不甲斐ない自分でしかなかった。
その事実にうんざりしながら、まりあは陽だまりを見つめていた。
秋風が窓を揺らしていた。
まりあは保健室の窓から外の枯葉が舞うさまをぼんやりと見ていた。
一時間目の授業がはじまり、校内はすっかり静まり返っていた。
保健室で大人しくしていると、保健の先生が困ったように眉を下げた。
「本当に体が弱いのね」
柔らかくまりあに言った。
椅子に座ったまりあはその言葉に苦笑で返すだけだった。
保健の先生とは中学に入学したころからお世話になっている。体の弱いまりあは保健室によく通う生徒だった。それは授業をさぼって、といった理由ではなく、本当に保健室を利用していただけなので、先生もそんなまりあを心配していた。
体が弱い、と言われると、優越感のようなものをまりあは常々感じていた。
可愛らしい顔に小柄な彼女は自分の外見に自信があった。友達に猫かわいがりされていることも分かり切っていた。嫌な女だとは思うが、そういった素振りも全く見せず、常に謙虚でいた。
そんなまりあには好感と、儚げな印象がもたれた。
事実、まりあは体が弱かった。
しかしまりあは疑問に思っていた。
(私は、体が弱い女の子、ということを他人に望まれているような気がする)
一種のパフォーマンスのようにまりあには思えた。
この体の弱さも、他人がそうであってほしい、と望むから、自分は弱いままでいるのではないか、と思った。
(私はみんなを騙している)
まりあは他人と関わるほどに、その考えがまとわりついていた。
だからこそ、橋本綾という存在はまりあにとって特別だった。
綾はまりあに騙されない。
あのときの自身の心を、綾はしっかりと見てくれた。
(綾ちゃんからは、私は一体どういう風に見えているんだろう?)
保健の先生の瞳を見ながら、まりあは思った。
「熱があるみたいね。一人で帰れそうにないなら、お母さんに連絡するけど……」
そういわれたものの、昨日の母親の迷惑そうな顔を思い出して、素直に頷くことはできなかった。
黙っているまりあに先生は優しく微笑んで、
「最近は、不審者の話が多いから、一人で帰すのは心配だけど……まあ、もう少し休んでいて」
と付け足した。
まりあは帰りの会で担任が言っていた話を思い出す。冬場になると暗くなるのが早いので、そういった話は必ず出た。
しかしまりあは不審者のことは大きく捉えず、またいつもの苦笑で返し、大人しく座っていることにした。
「少し先生は席を空けるから」
先生も忙しいのか、そう言ってすぐに保健室を出ていった。
一人になったまりあは、また窓から外を眺めた。
風が強く吹いている。
この街では暮れにはもっと強い風が吹く。
冬が明けたらまりあはこの学校を卒業する。
まりあには卒業する自分の姿が未だ想像できずにいた。
なんとなく、まりあは来年生きている自分を想像できなかった。
(こんな体で……こんな心で、私はまだ生きるんだろうか)
熱に浮かされた頭で考えた。
後ろ暗い気持ちだった。
みんなを騙して生きていることがどうしても許せずにいた。それは、母から譲り受けた正義感から来ているのかもしれない。
(自分はとても臆病で、薄情者だ)
綾に責め立てられていたあの女子生徒を思い出す。
自分も結局彼女と一緒なのかもしれない、と思った。
「あれ、落合さんじゃん」
まりあが考えにふけっていると、扉の方で親しんだ声が聞こえてきた。
顔を上げると、そこには綾の姿があった。
その瞬間、まりあは自然と顔がほころんだのを感じた。
先ほど考えていたことなど無かったかのように、綾を見つめてどきどきした。
「なに、体調悪いの?」
綾は平然と話しかけてきた。心配してくれる彼女の姿に、少し驚いた。
「あ、うん……」
心は踊っているが、まりあはいつものように、まるで謙虚で大人しい人間のように振舞った。
その姿を見抜いたのかどうかは分からなかったが、綾はへえ、と言ったあとは何も言わなかった。
(綾ちゃんは怒っているのかもしれない)
まりあは胸がチクリと痛んだ。俯いて自分の手を見つめた。
「風邪?」
綾は小首をかしげる。
「うん、そうみたい。喉も、まだ痛くて」
「昨日休んでたもんね」
まりあはその言葉に嬉しくなった。他人に興味がなさそうな彼女が、自分がいないことに気付いていてくれたのだ。不思議な優越感だった。
綾はしばらくまりあを見つめていたが、何も反応を返さないまりあに興味をなくし、背後にあるベッドに座った。
「綾ちゃんはどうしたの?」
座ったまま振り返り、綾に尋ねる。
綾はぼんやりと窓を見つめていた。とても眠たげだ。
「だるいから」
投げやりに言って、白い枕を膝に置いた。
「ねむい」
「保健の先生が来たら怒られちゃうよ」
綾ののんびりとした態度に、まりあの方がはらはらとしていた。
「怒られたっていいし」
「よくないよ……」
「痛くないから、べつに」
綾はそう言って、枕を乱暴にベッドに投げつけた。投げ出された枕にそのまま突っ伏す。
怒った様な様子の綾に、まりあは気を悪くして、それ以上説教じみたことは言えなくなった。
なんと言おうか、口を閉じた。自分の上履きを見つめながら、視界の端に映る彼女を気にする。
「……痛くないって」
まりあは口を開いた。
その時、異常なまでに自分の鼓動が速いのを感じていた。
あの教室での喧嘩の様子や、母親とのやり取りの時に感じていた違和感が、どうしても気になっていた。
触れてもいいものかと思った。
まりあは、触れたいと思っていた。
触れることが怖いと思ったが、今、そうしたいと思った。
正義感からかもしれなかったが、そんなことはどうでもよかった。
自分がそうしたいから、まりあは言葉の続きを口にする。
「綾ちゃんは」
「喉、痛いんでしょ」
まりあの言葉を綾は遮った。
彼女の声色はとても冷たく、鋭くまりあに刺さった。
「黙れば」
吐き捨てるように綾は言った。
まりあは口を閉じた。
俯いてまた自分の上履きを見つめる。
綾はのろのろとシーツに手をかけ、そのまま引き被ってしまった。
悔しいような気持ちがまりあの中にはあった。
(臆病者)
動かない唇を憎らしく思った。痛む心臓でさえもまりあには憎かった。
(臆病者)
こんな正義感では駄目なのだと、まりあは知った。
(お母さんの正義感じゃ、だめだ)
しかし、何があればこの体が動くのかがまりあには分からなかった。
(こんな心で、こんな体で、私はまだ生きていくのか)
たまらなく憎かった。悔しくもあったが、まりあの表情は、ただ少しだけ悲しげに映るだけだった。
枯葉が窓にぶつかり、ささやかな音を立てて落ちていく。
風が強さを増している。
冷たい風が、この部屋にも吹き込んでいるかのようだった。
灰色の薄雲がかかっていて、中庭の草木が湿気にじっとりと重みがあるようだった。
結局一日授業を受けることにしたまりあは、昼休み、まだ痛みの残る頭と喉を気にしながら、外履きに履き替えた。教室の中のまとわりつくような湿りのある空気がどうにも気持ち悪くて、まりあは外の空気を吸いに中庭に向かう。
昼休みになるが、雨も降りそうなためか、中庭に生徒は少なかった。
ベンチに知った顔の生徒が座っていることに気付いて、まりあは思わず足を止めた。
まりあは声をかけようかと思った。しかし、何か話をしたいという気持ちではない。
ただ、一人で座っている綾のことが気になった。
まりあがじっと立ったままでいると、それを不審に思った綾がまりあを見た。
「なに」
明らかに不機嫌そうな声音で、綾はまりあを睨んでいた。
「あ、いえ……」
まりあは咄嗟に視線をそらした。
しばらくの沈黙だった。陰鬱な空気がまりあの頭にのしかかり、また頭が痛くなってきたように思えた。
「風邪、だいじょぶなの」
綾が口を開いた。
まりあはその言葉に驚いて、顔をあげた。
「う、うん」
精いっぱい答えながら、まりあは綾の元へと近付いた。
それを気に留めた様子もなく、綾は目の前の西棟を眺めた。
少し古めかしい雰囲気のある鉄筋コンクリート造りの校舎が佇んでいる。その窓に反射する灰色の雲がひきずるように流れていく。
「あの時、あそこからあんたたちを見てたの」
「え……」
まりあは首をかしげたが、何のことを言っているのかすぐに合点がいき、頷いた。
「うん、気付いてた」
「馬鹿だなあって見てたの」
「……」
「あんたって馬鹿だよね」
綾は軽蔑するような目でまりあを見据えた。
その目に気圧されて、まりあは一歩後ずさった。いつもならそのまま苦笑で終わらせるまりあだったが、綾の前では許されないと思った。
まりあは、彼女に本当の言葉を伝えたいと強く思った。
「……あんなことをしなければよかった、って思ってる」
震えそうな声でまりあは言ったはずだった。
その心とは裏腹に、綾の耳にはひどくはっきりとそれは聞こえた。
「けど、あの時はああしたかったの」
綾は目を丸くした。
目の前に立っている子が、今、はじめて会った人間のように思えた。
まりあも内心驚いていた。連日煮えたぎっていた心だったが、今口にした穏やかな発言に自身が一番驚いていた。
綾はまりあの毅然とした態度に、思わず笑みがこぼれた。
それは純真さとはかけ離れた、ぎらぎらとした、悪戯な心が垣間見える笑みだった。
「あんたって、自分じゃ何も決められない奴かと思ってた」
ベンチから身を乗り出して、綾はまりあの顔を下から覗き込む。
「顔がかわいいだけのつまんない奴かと思ってたのに」
にやりと笑う。
まりあはもう微動だにしなかった。それどころか、つられて同じように、悪戯っぽく笑っていた。
「私がかわいいことは知ってる」
そうまりあが返すと、綾は目を丸くし、ついにこらえきれずに吹き出した。綾は声をあげて笑う。中学生の少女らしい、転がすような声色だった。
「あんたってすげえわ」
まりあもなんだかおかしく思えてきて、またつられて笑った。まりあは学校で、はじめて目を細めて、口を大きく開いて笑った。湿った空気は、まだ痛む喉を通って体中を心地よく混ぜるようだった。
自分の笑い方がこんな風だったのか、と、まりあははじめて知った。
「私、ずるい人たちが許せないの。あの時、黙っているみんなが本当に許せなかった」
「ほんと、マジむかつくよね」
「自分はペンギンなのだと思った」
まりあは常々考えていたことを口にした。こんなこと、人に言うのははじめてだった。
綾は突拍子のない例えに目を丸くした。
「ペンギン?」
「氷の上で、みんなぎゅうぎゅうに互いを押しあっているの。海に誰かが落ちるのを待ちながら。海には外敵がいるから……海に最初に落ちるのは誰か。みんな自分じゃなければいいと思ってる」
「おっそろしい話」
「一年生の時に国語の授業でやったのよ」
「そうだっけ」
綾はその頃からもまともに授業を受けていないようだった。
「不幸な誰かが落ちてくれるのを待っているの。みんな、ずるい」
「あんたは自分から落ちていったんだと思うけどね」
そういわれて、まりあの心は傷付いた。
「うん……自分で選んだこと。でも、それで良かったと思ってる」
その心の痛みさえも、今のまりあには愛おしいものに思えた。それは、こうして綾と話が出来ているからだ。
「じゃ、あのクラスの外敵って一体何なんだろうね」
綾が不意に疑問に思う。
まりあはしばらく空を仰いで考え、
「今は綾ちゃんが一番怖いんじゃないかな」
と、素直に述べた。
すると綾は、はあ? と腹の底から湧き出る不服の声をあげた後、けろっと表情を変えて笑い出した。
まりあもつられて、同じように笑いだす。
渡り廊下を歩いている生徒が怪訝そうな顔で二人を見て通り過ぎる。
二人の笑い声は中庭にきらきらと響き渡った。
放課後、再びまりあは保健室へと向かっていた。
(先生に言って、お母さんに迎えに来てもらおう)
母親の不機嫌そうな顔を思い浮かべる。
けれど、今の状態で帰れる自信がなかった。綾と昼休みに話をして、それから午後の授業から再び頭痛が悪化した。それと、熱もあがってきたのか、母に甘えてしまいたいような幼い気持ちが少なからずあった。
まりあの家は学校から徒歩三十分ほどの場所にある。
普段ならそれほど気にならない距離だが、今考えると果てしなく長い道のりのように思えた。雨はあがり、外には晴れ間が見える。けれど、濡れた地面を思うだけでもまりあにとっては気が重い道のりだった。
重い保健室の扉を開く。
部屋の中を見回すと、先生の姿がなかった。
その代わりに、綾がベッドに腰かけていた。
窓を通して外の景色を眺めているようだった。
口をつぐんで、ぼんやりと眺めるその横顔を透き通るような陽の光が照らしている。
茶色じみた髪の毛先が金色に煌めいて見えた。
「なに」
不意に不機嫌そうな低い声が飛んできた。
驚いたまりあは肩を震わせた。
綾は窓から視線を外し、鋭い目つきでまりあを見ていた。
「あ、あの……」
まりあは綾の機嫌を損ねてしまったことが気になって戸惑った。
「そんなお芝居しなくてもいいのに」
綾はあざ笑うかのように言った。
その言葉に、まりあも冷静さを取り戻して、薄く微笑んだ。
「お芝居じゃないよ」
「嘘ばっか」
「本当に綾ちゃんの目が怖いの」
「はあ?」
綾は怒ったように眉を吊り上げた。
その表情に、まりあはくすりと笑う。
「ほら、怖い」
「ふん」
すっかり拗ねてしまった綾はそっぽを向いた。
「ごめんね」
まりあは軽く謝った。
体調のことなどすっかり忘れたまりあは、軽い足取りで綾の傍へ寄った。
「帰らないの?」
まりあは首を傾げた。
長い髪が肩を流れて揺れる。まりあの清らかな黒い髪にも、綾と同じように柔らかく光が差している。
「帰らない」
綾はきっぱりと言い切った。
その様子に、まりあは目を丸くした。
そんな反応をしながら、まりあにはなんとなく予感がしていた。
寂しそうに微笑んで、傍らに立ったまま、窓の外を眺める。
窓にはいくつか水滴が残っている。その水滴は光を反射させて虹色にきらめくようだった。柔らかな優しい日差しが校庭を照らしている。下校する生徒たちが水たまりを踏みしめて、はしゃぐような水しぶきがまぶしかった。
「教養のない女のひと」
まりあは言った。
「嫌な気持ちになったとき、そんな風に思ったことがあるの」
「……母親のこと?」
「馬鹿だとか、毒だとかは思ったことないよ。ただ、教養のない女のひと、って思ったの」
「それも十分ひどい言葉だと思うけどね」
「ほんとね」
まりあは肩をすくめて笑った。
初めて口にした暴言だった。
けれど、口にしてみると甘やかに溶けていくような柔らかさだった。
綾の発する言葉よりも鋭いものにはならなかった。まだ誰かの人形であるような気がしてなからなかった。まりあには、未だに誰かに言わされているような気がしてならなかった。
「特別厳しいわけでもない。とても理不尽なわけでもない。病気になったら看病をしてくれるし、早退するときは迎えに来てくれるの」
自分がこんなに長くしゃべったことがあっただろうかと、まりあは心の隅で思った。
これは言ってはいけない言葉なのではないかと思ったが、自分の口が止まることはなかった。
「お母さんは私の神さまみたいな人なの。お母さんの言う事が絶対に正しいし、それが真実なんだと思ってる。私の幸福よりも、お母さんが幸せな方が良いの」
胸の痛みを感じた。
そう口にしていて、自分の心が引き裂かれるような気がしていた。
(私はお母さんに作られた人形だ)
まりあは冷たく思った。
(母親から与えられた体で、母親から押し付けられた正義感で息をしている人形だ)
悲鳴を上げてしまいそうな心を抱えていてもなお、まりあの表情は少し寂しそうなままだった。
綾は黙っていた。
「私の世界はね」
まりあは綾の目の前に立ち、後ろのベッドに投げやりに座った。
綾は真っ直ぐにまりあを見つめていた。
「お母さんに犯された、とても美しい世界なのよ」
その声色は恐ろしく静かで冷たく、氷のように綺麗な穢れのないものだった。
綾はまりあを見つめる。まりあの瞳には真っ暗な闇が見えるようだった。
綾は唾を飲み込んだ。綾の心の中には恐怖心と、好奇心とがあった。
言い得ぬ希望のようなものが綾には見えていた。まりあの瞳の闇は、綾にとっての希望だった。
「ねえ、まりあ」
綾は俯き、自分のセーラー服の裾に手をかける。早くなる鼓動を感じて手が震えた。しかし強く息を止めて、そのまま服を脱ぎ、下着だけになる。
まりあの表情は凍り付いたように動かなかった。
けれど、綾が想像していたよりもその驚きは小さいようだった。
「そうなの」
まりあは予感していたかのように納得した。
綾の白い体には青いあざが点々としていた。下着の間からもその不気味な模様は見え隠れしている。
「まりあ」
綾は甘えるような声色でまりあに微笑んだ。
「二人でお母さんを殺そうよ」
とても自然に、綾の口からはそんな言葉が出てきた。
まりあはその甘やかな言葉をただ静かに聞いていた。
二人はひどく穏やかな心であることに戸惑いもなかった。
「でも」
しかしまりあには勇気がなかった。
まりあはこの世界から出ていくことがひどく恐ろしく思えた。
母親が与えた優しく冷たい世界にいる方が心地よいと知っていたからだ。
綾は首を振ろうとするまりあの両手を、細い腕をのばして握りしめた。白い腕には叩きつけられたように痛々しいあざが見える。他人に触れられることをきらうまりあは、酷い嫌悪感をおぼえる。しかし、その手を振り払うことはできなかった。
「あたしたちはこのままじゃ幸せになれない」
綾は強く訴えた。
まりあはあざから目が離せなかった。
「二人でお母さんを殺すの」
「どうやって」
「どうやって殺すかじゃない、どうすれば幸せになれるか考えてよ。どうすればわたしたちで生きられるのか、考えるの!」
はっとして、まりあは綾を見た。
まりあと綾の目が合った。
綾の瞳の中にはあの水滴の虹色が見える。柔らかな日差しが綾の瞳をうつくしく輝かせた。
まりあは心臓の拍動を感じた。今まで知らなかった自分の鼓動を痛いほどに感じる。手から伝わる綾の熱い体温が、じんわりと広がっていく。
まりあは応えるようにぎゅっと綾の手を握り返した。
それは、母親からの命令でもなく、はじめて自分で決意したことだった。
ただの肉の塊だったまりあが、はじめて意思を以てしたことだった。
(綾ちゃんが私に血を与えてくれた)
綾の手から伝わる体温はまりあの全身の血脈を撫でるように駆け巡る。
(私は生きている)
まりあはただそう思った。
その実感にたまらないほどの恋しさと希望を見た。
部屋には静かに光が降り注いでいる。白いシーツの上にさえも、うっすらと水滴の影がぽつりぽつりと落ちていた。雨上がりの爽やかなきらめきが目にまぶしい。
まりあと綾は、約束を確かめるように優しく手を握っていた。
そこに、シャッター音が響いた。
二人は驚いてお互いに目を丸くした。
まりあが咄嗟に振り返ると、窓際の向こう側に学ランの男子生徒が立っているのが見えた。
その男子生徒は一眼レフカメラを覗き込んでいた。ゆっくりとカメラから顔を離したとき、まりあと目が合った。
男子生徒の唇ははっきりと赤く、白い肌とその頬には柔らかく桃色の血色が見える。学ランを着ていなければ女の子にも見間違えるほどの可愛らしさがあった。
瞬間、男子生徒は大きな瞳をさらに大きく開き、すぐさま身を翻して走り出した。
「ちょっと!」
まりあは思わず窓の傍へ駆け寄るが、男の子の背中は遠く、その声は届かなかった。
「……」
二人はサッと血の気が引いた。
「今の……聞いてたのかもしれない」
「写真まで撮られた」
まりあは振り返り、あの子、どこかで見たような、と記憶を辿った。
「あの子、確か同じクラスの子だよ」
「あんなやつあたし知らない」
「保健室登校してたの。たまにここで会ったことがある」
保健室をよく利用するまりあは、彼に見覚えがあった。
「どうしよう……」
綾が困り果てた表情でまりあを見つめた。
その表情を見て、まりあはぐっと拳に力を込めた。
「本当に聞かれたかは分からない……写真も、私たちを撮ったのかどうか……でも、探ってみる、ってできると思う」
「どうやって?」
焦ってきつい口調になる綾に対し、まりあは冷静に答えた。
「本人に聞くの」
「まりあってすごい馬鹿なのか、ただ大胆なだけなのか、ビミョーだよね」
「遠回しに探っていたら、いつバラされるか分からないでしょ。聞いていなかったら、それだけの話だし」
軽く軽蔑したような綾の発言が少し癇に障り、まりあは鋭く反撃した。
二人は翌日、教室で男子生徒の姿を探したが、彼は今日も学校に来ていないようだった。
まりあの記憶の限り、その生徒の名前は三浦悠人と言った。彼とは三年生で同じクラスになった。五月頃までは毎日みんなと同じように登校していたが、それから休むことが多くなり、今では教室で姿を見ることは全くなくなった。保健室で会ったことがある、といっても、まりあが訪れると逃げるように保健室を出ていくので、すれ違う程度だった。
しかし、彼の容姿はよく覚えていた。まりあも自分自身が見た目で他の人よりも優れていると自負しているが、彼もまた目につくほどの綺麗さを持った少年だった。
すれ違ったときに目を奪われるほどのうつくしさだったことを、まりあは覚えている。
そんな彼の姿を探して、放課後に二人は保健室へと向かった。
担任の先生に彼のことを聞くことはしなかった。怪しまれることは極力避けようと、まりあが提案したのだ。
保健室登校とだけ分かっているので、二人はどきどきしながらその扉を開けた。
が、保健の先生がいるだけで、生徒の姿はなかった。
「また体調が悪いの?」
まりあを見た瞬間、先生は困った顔で微笑んだ。
すぐさま首を振るまりあ。
「あ、いえ……あの、三浦悠人くん、いませんか」
いつもの調子で大人しそうに振る舞いながら、まりあはすかさず質問した。
綾は驚いた顔をして先生に見えないようにまりあの背中に手を置く。
まりあはそれすらも気にせず、先生の返事を待った。
「三浦さん? さっき帰っちゃったけど」
先生は疑いもなくそう言った。
「そうなんですか…」
まりあは残念そうな顔をした。
その様子に、先生はほっとしたように微笑んだ。
「三浦さんと仲が良いの?」
「ちょっと前、ここで会って……同じクラスなので……」
まりあはうつむき加減に言いながら、少し恥ずかしそうにする。
隣で綾は内心、まりあの変貌ぶりに恐ろしささえ感じていた。
先生は今まで通り、すっかり騙されたままだ。
「そうなの。これからも仲良くしてあげてね」
まりあは小さく頷いて、軽く会釈をして保健室から離れた。
綾もまりあの横をぴったりくっついて来る。
「小悪魔」
「ずっとこうしてきたの」
綾の小さな悪態に、まりあは怖気づいた様子もなく返す。
「追いつけるかな」
「わかんない」
二人は校舎を出る。すると、校門のところで悠人の横顔を見た。
「いた!」
綾は思わず指をさして、すぐさま走り出した。
まりあは周りからの注目されることを恐れて、早足で静かに綾の背中を追いかける。
校門の角を曲がると、二人の姿が見当たらなかった。
(悠人くん、綾ちゃんに気付いて逃げたのかな)
まりあは綾が向かったであろう先を目指して歩を進めていく。
(まあ、綾ちゃんみたいな子に追いかけられたら逃げるよね)
心の中で妙に納得する。
通学路である坂道をくだっていく途中で、綾の声が響いてきた。坂道から逸れた道に、綾の姿を見つけて駆け寄る。
「てめえ、なんで逃げたんだよ!」
「ごめんなさい!」
綾は男子生徒の後ろ首を掴んでいる。
綾と同じくらいの背丈の男の子は苦しそうに首元に手をかけて逃げようとしている。だが、綾の力が強いのか、男の子の力が弱いのか、しっかりと捕まえられたままだ。
「綾ちゃん、乱暴なことはダメだよ」
まりあが仲介に入る。
綾はむすっとした顔でまりあを見つめた。
「こいつ、知ってるから逃げたんだよ」
「だから、その、ごめんなさいって」
「謝って済むことじゃねえから!」
今度は男子生徒を睨みつける。
「綾ちゃん、苦しそうだよ」
「こんぐらいじゃ死なないって」
「綾ちゃん」
まりあは静かに綾を諭した。綾の身体に纏わりついたあのあざのことを思い出して胸が痛んだ。
綾は乱暴に男子生徒を突き放した。
「悠人くん、大丈夫?」
まりあは悠人のそばにより、彼の様子をうかがう。
悠人は長いまつげを伏せて泣きそうになっていた。
小さな唇はわずかに震えている。
「あの」
「どうしたんですか」
まりあがなんと言おうか迷っていると、不意に声が飛んできた。
それは大人の男性の声で、まりあと綾の身体が凍り付いたように動かなくなる。
「悠人くんのおともだちですか?」
声の主は初老の男性だった。筋肉も脂肪もついていないようなすらっとした体型をしていた。優し気な雰囲気を漂わせて、庭先から出てきた様子だった。その骨ばった手には一眼レフカメラが握られていた。
カメラに気付き、まりあと綾は目を合わせる。
「同じクラスの女の子」
悠人は困り果てたように眉を下げて力なく答えた。すっかり怯えてしまい、両手を忙しなくさすっている。
「しかしどうしたんですか、喧嘩なんて……」
「そのカメラ」
綾が男性の持つカメラを見た。
男性は柔らかく微笑んだ。
「あぁ、悠人くんのですよ。いつも預かっているんです」
「カメラが趣味なの?」
「……」
悠人はどう返すべきかわからず、黙っていた。綾とまりあの顔色をうかがい、最後に男性を見る。
男性は悠人に優しく微笑みながら首をかしげる。
意思がうまく伝わらないことにもどかしさを感じながら、悠人はぎゅっと目をつむる。そして、意を決したように綾の方を見た。
「あの、ごめんなさい! 盗撮したわけじゃないんです!」
突然勢いよく謝られ、綾は面食らって目を丸くした。
「ただ窓についてた水が綺麗だったから撮っただけで、まさか橋本さんが脱いでるなんて思わなくて」
口を挟む隙もなく悠人は一息に言った。綾は驚いた顔のあとにすぐさま顔を真っ赤にして悠人の胸倉をつかんでいた。
「てめえ、人が脱いでるとか平然と……!」
「ご、ごめんなさい!」
とんでもないことを口にしていたことに気付いて、悠人も顔を赤くさせた。
そのやり取りを、ぎょっとしながら見ていた男性は、やがて声をあげて笑った。
「それで昨日からなんだかそわそわしていたんですね」
合点がいったように頷き、男性はそっと綾の手をほどく。綾は反抗することもなく、むすっとした表情のまま悠人から離れた。優しく大きな手で悠人の頭を撫で、そっとカメラを悠人の首にかける。
「この子はとても純な子です。決して悪気があってしたことではないでしょう」
男性は落ち着いた口調で悠人をかばった。
悠人は恥ずかしそうにまだ顔を赤くして、男性の横で大人しくしている。自分の手元にかけられたカメラを見ている。
まりあはずっと黙って悠人の様子を観察していた。恥ずかしそうに目を伏せている悠人の表情をうかがう。
(あの会話は聞いていないのだろうか?)
まりあは疑心暗鬼になっていた。
「もちろん、その写真は消したんだろうな?」
乱暴に問いかける綾。
「も、もちろん!」
間髪入れずに、必死に返す悠人。
二人の様子を見て、男性が朗らかに微笑んでいる。
「あの、悠人くんの知り合いなんですか?」
まりあがさりげなく口をはさんだ。
まりあの質問に、悠人は答えなかった。何故か、まりあには人見知りをしているような様子を見せて黙っていた。
「地域の写真クラブの一員なんですよ。悠人くんも、一緒に活動をしています」
「そんなもんあるんだ」
「メンバーはみんな、わたしのように高齢が多いですが。悠人くんは珍しい学生さんです。とても良い子なので、みんなに可愛がられていますよ」
我が子自慢をするような口ぶりに、悠人が照れたようにまた顔を伏せた。
「ぼくの、写真の、先生なんです」
悠人は振り絞るように言った。
綾はふーんと薄く返事をした。
「そんなにきれいだったなら、消す前に見せてもらえたらよかったな」
まりあは不意にそう言った。
その一言に綾はまた顔を赤くさせてまりあを睨んだ。
悠人も飛び跳ねる勢いで驚き、ぶんぶんと首を振った。
「先生にも見せてない! すぐに消したから!」
顔を真っ赤にさせてそう弁解した。
「そうなの」
まりあは残念そうに言いながら、張り詰めていた疑心を消した。
(これ以上のことは知らなさそう)
内心ほっと胸をなでおろす。
綾はそのことに気付いているのかいないのか、すっかりカメラの方に気をとられていた。
「でかいカメラだね。ちょっと触らせてよ」
などと悠人に絡んでいた。
「橋本さん、乱暴そうだからやだ」
「はぁ? いいじゃん、見せてよ」
「……やだ」
低く言って、悠人は先生に助けを求めた。
先生は困ったように笑うだけだった。
「つーか、よくあたしの名前知ってんね。会ったことないでしょ」
「あるよ。同じクラスなんだもん」
「クラスっつったって、あんた学校来ないじゃん」
「最初の頃は来てたもん」
「今は?」
「……」
綾のデリカシーのない発言に、悠人はすっかり黙ってしまった。
「悠人くん、今は保健室に来てるんだよね」
まりあが前向きに会話を進めようと介入したが、彼女が入ってきた途端、悠人はまた大人しくなる。
綾はそのくるくる変わる態度がひっかかり、悠人の顔を無理やり覗き込む。
「こいつ、まりあに話しかけられて照れてる」
「……照れてない」
「女子と話した事ないんでしょ」
「それを言ったら綾ちゃん、女子として認識されてないってことだよ」
まりあが鋭い突っ込みをすると、綾はしばらく考えて、やがていつもの調子で目を吊り上げて悠人へ掴みかかった。
そんな様子を、先生は穏やかな表情で眺めていた。
強い風が吹いていた。
丘の上にあるまりあたちの学校では、授業中でも休み時間でも、ごうごうとうなるような風が窓の外から聞こえてくる。
まりあと綾は二人並んで下校していた。
風に体を押されて、綾は身を縮ませた。
「うー、さみー」
「そんなにスカート短いからだよ」
ちらちらと見える綾の太ももは、同性のまりあでも目のやり場に困った。綾は説教をするまりあを非常に迷惑そうな顔であしらった。
「スカートは関係ないし。つーか、まりあはそんな長くて歩きにくくないの?」
短くスカートを揺らしながら、綾は横目でまりあの姿を見る。
「……歩きにくいよ」
まりあは素直に答えた。
「でも、暖かいから」
と、付け足した。
綾はふーん、とつまらなそうに言って、
「うー、さみー」
と先ほどと同じように身を縮ませた。
それに見かねたまりあはちょっと待って、と立ち止まった。綾もそれにならって足を止めた。
まりあは自分の首に巻かれているマフラーに手をかけた。しかし、一瞬どうしようかと迷って手を止めた。このマフラーはまりあにとって少し苦い思いがあった。
暗い紫色をしたマフラーは母親がくれたものだった。今朝、家を出る際に母親に呼び止められた。
「それじゃあ寒いでしょ」
まりあの母は度々防寒には口を出すような人だった。それは、母自身寒がりなこともあっただろう。呼び止めた母親は手に持ったマフラーをまりあの首にかけた。
「あげるから、これで行きなさい」
その強引さにまりあはうんざりとした。まりあは母親から与えられるものがとても卑しいもののように思えていた。それは、綾と約束を交わしたあの日からそう思うようになった。
手を後ろに組み力強く握りながら、まりあは大人しく母親に従った。そうしないと、母の機嫌が悪くなると思ったからだ。
そんなマフラーに手をかけて、少し考えたが、それを外して綾の首にかけた。
「貸してあげる」
あの時の母親のような強引さでまりあは綾にマフラーを押し付けた。それを悟られないようにするためか、優しくふわりと綾の首に巻いていく。綾は驚いた顔をしつつ、気恥ずかしそうに大人しく巻かれていた。
「……ありがと」
照れくさそうに短く言う。
まりあはそれに対して少し申し訳なさそうに微笑んでこたえた。そして、また二人は歩き出す。
マフラーに顔をうずめながら、綾は呟いた。
「三浦のやつ、普通に話せるのに、なんで学校来ないんだろ」
「さあ……いじめられてるって感じでもなかったはずだし」
不意にまりあの脳裏に上靴を隠された女子生徒の顔が浮かんだ。今はいじめられているような様子も見られなかった。あの時の綾の暴れっぷりを見て、クラスどころか三年生が怯えているような状態だった。
「写真クラブなんて、老後やるもんじゃないの。あの何考えてるか分かんない大人と一緒にいて何が楽しいんだか」
「落ち着いてて優しい人だったじゃない」
まりあがそう弁解すると、綾は心底嫌そうな顔をした。
綾はああいった優しい人間が苦手だった。
まりあを最初に見たときと同じような感覚だ、と思い出す。良く知らない相手にさえも優しく振る舞えるまりあを気持ち悪いと思っていたのだ。
(本当は心の底は何かに対して煮えくり返ってるに違いない)
綾はそう踏んでいた。
(実際まりあは全然優しくなんかないし)
隣で穏やかに微笑むまりあを横目で見る。
大きく丸い瞳は真っ直ぐに前に向いている。柔らかな夕暮れが黒い髪を照らしていた。
まりあはやがて立ち止まった。
綾もそれに気が付いて足を止めた。
二人が止まったのは悠人のいう『先生』の家へ続く道の前だった。
「悠人くん、先生の所にならいるのかな」
「もう関係ないでしょ」
「……本当に、聞いてなかったと思う?」
まりあは不安げに綾を見た。
あの時は本当に聞いていないと確信したまりあだったが、時間がたつにつれて、また疑心は大きくなっていくばかりだった。
綾は返答に困った。
「あの先生と口裏を合わせているのかもしれないのよ」
「これ以上確認のしようがないでしょ」
「そうだけど……」
まりあはそれでも気になっている様子だった。
綾は暗い顔をしてまりあの顔を覗き込んだ。
「ねえ、まりあ」
夕暮れがまりあの顔を照らしていた。
「本当に約束してくれるの?」
試すような言葉だった。
陽が沈む瞬間。突き刺さるようなまばゆい光が二人を包んでいる。目が眩むほどのオレンジ色だった。
まりあは一瞬目を丸くしたが、すぐにいつもの優しそうな顔をして、
「うん、約束だよ」
と言った。
綾の頬にもまりあにも、同じ夕暮れの色がさす。長く黒々とのびた影。綾の影だけがぐらりと揺れる。
あまりにもまりあが平然と言うので、綾は腑に落ちない顔で、しかし頷いた。
「そう……」
そういって俯くと、かしゃり、と軽い機械音が聞こえてきた。
二人は同時に音の方へ振り返る。
視線の先には、カメラで顔を隠した悠人の姿があった。
綾はあからさまに大きなため息を吐いた。綾の態度に気付くこともなく、悠人はいたずらっぽくカメラの横から顔を出した。
「お前さ、盗撮が趣味なの?」
「ち、ちがうよ!」
あきれ顔で言う綾に、悠人は即座に否定した。
「人を撮ってみるのも面白いですよ、って、先生が言うから……」
「だからって勝手に撮るのはちょっと……」
まりあが困った様な顔をして目を伏せた。
その様子に、悠人は慌てて謝った。
「ご、ごめんなさい」
「今日さ、お前学校来た?」
綾の遠慮のない発言に、悠人はぐっと口を閉じてしまった。
「……」
「なんで学校来ないの?」
更に追い打ちをかける。まりあは綾の図々しさにはらはらとした。
「……」
「べつに体が悪いわけじゃないんでしょ」
風は強く吹いている。悠人の細い髪を乱暴に撫でていた。
「そうだけど……」
悠人は俯いて、どうにか言葉を探していた。
カメラを小さくいじりながら、その映すものから何かが見つかるかのように、液晶を眺めていた。
「いじめられてんの?」
「ちがうよ」
「じゃあ、なんなのさ」
陽が落ちかかっている。まばゆい光が差し込んで、悠人の髪も学ランも赤く染まっている。二人はまぶしさに目を細めた。
悠人はゆっくりと二人を見て、優しい声色で答えた。
「……近くに人間がいるの、って、気持ち悪い、から」
綾は怪訝そうな顔で悠人を見た。
悠人は真っ直ぐに二人を見据えた。黒い瞳が二人を映して離さなかった。その様子に、まりあも綾も、一瞬息をのんだ。
「でも、先生には懐いてるじゃん」
綾は恐る恐る言った。
悠人はその言葉に、またいつもの可愛らしい顔で照れた。
「先生は特別なの」
「ふーん」
悠人はカメラを愛しそうに眺めた。
それ以上綾は何も言わなかった。悠人の返答はそれ以上綾を満足させるものになるとは思えなかった。
興味を失せたように綾はそっぽを向いた。
「ねえ、今の写真見せてくれる?」
まりあが場を和まそうと弾んだ声で言った。
悠人は目を丸くして照れたような顔をしたが、いいよ、と小さく返事をして二人に駆け寄ってきた。
「こんな感じで撮れてるよ」
「へえ、すごく綺麗!」
まりあが覗き込んだ液晶には、夕暮れに照らされた二人の姿が映っていた。向かい合って話をしているようだった。
さきほどの約束のことを思い出し、まりあの心が揺らいだ。
「うん、とってもきれい」
悠人は自分で頷いた。
「でも、もっとうまく撮れないかなあ……」
カメラを自分の手元に戻して悠人は真剣に悩む。
そんな横顔を覗きながら、まりあは首を傾げた。
「悠人くんは風景の写真をよく撮るの?」
「うん、撮りたい写真があって」
「撮りたい写真?」
悠人は自分が思わぬ言葉を発したことに驚いて、目を丸くした。
「えっと」
掴んで離さないようなまりあの視線に悠人は口ごもった。
「えっと、なんというか、撮りたい、景色があって」
とても曖昧な答えだったため、まりあはどう返事をすればいいか困惑した。
悠人も所在なさげにカメラを触ってごまかそうとしている様子だった。
「先生と見た景色だったんだ」
俯いて悠人は小さく言った。まりあからはその表情を読むことはできなかった。
「……そうなの」
「ね、その写真、現像できんの?」
まりあと悠人の間に割って入るように綾がカメラを覗き込んだ。
「えっ」
「現像できんでしょ? その写真ちょうだいよ」
「えっと……」
「写ってんのうちらだし。ていうか、勝手に撮ったんでしょ」
「うーん……」
「いいじゃん、その写真、あたし気に入ったんだから」
渋る悠人を責め立てるように綾は迫っていく。悠人は後ずさりしながら、こくりと頷いた。
「じゃあ、今度、現像してくる……」
負けたように小さく呟いた。
「よろしく」
綾はにっこりと笑って念を押した。
「綾ちゃん」
まりあは綾に注意するように語気を強めて名前を呼んだ。綾はそれに対して拗ねたように再びそっぽを向いた。
自分のすぐ横を、ライトをつけた車が通りすぎてゆく。その風に体を震わせながら、綾は鉄橋を歩いていた。冬の夜の鉄橋では風がごうごうと音を立てて体にぶつかってくる。
その風に思わず目をつむりながらも、綾は足を止めなかった。
(ここ最近機嫌が悪い)
卑しい自分の母親を頭に思い浮かべた。
ずきずきと痛む肩を気にかけながら、綾は近付いては遠のき、また近づいては遠のいていく車を眺めた。次々と現れるライトが目をくらませる。
鉄橋の中腹辺りで立ち止まり、綾は下に流れる川を眺めた。
そうして、自分がこの川へ落ちていく想像をした。
泥のように黒々として、重く流れていく川は絶えず蠢く何かの生き物のようにも見える。街灯が反射していて、それがその生き物の目のようにも思えた。
(今、落ちたら)
綾は思った。
覗き込みながら、真っ逆さまに落ちていく様を思い描く。
そんな想像に心が空っぽになったように綾は無感情に川を見つめる。
(先生もあの女も自分も、みんな馬鹿ばっかりだ)
まりあの言っていたペンギンの話を思い出す。
(みんな待ってる。不幸な誰かが、落ちるのを)
その時、ふっと背中を押されたように綾は前のめりになった。
首に巻いたマフラーがほどけていく。
それに気付いて、綾はすかさずマフラーを掴んで、自身も欄干から身を引いた。
(約束がある)
いつの間にか早くなっている鼓動を感じながら、綾は思った。
(まりあとの、約束が!)
胸が熱くなるのを感じた。
マフラーを強く握りしめる。
綾は近付いては遠のき、また近づいては遠のいていく車を睨んだ。
そして、意を決したように来た道を戻った。
まりあは一人で下校していた。
綾との約束の日から、何気なく一緒に居ることは多くなったが、決して常に隣にいるような関係ではなかった。帰る時も、たまたまタイミングが同じで、だとか、靴箱で会ったから、だとか、そんな偶然があると、一緒に帰っていただけだった。
一緒に帰ろう、という言葉は交わさずに、ただいつの間にか隣に並んでいるのだ。
そんな関係が、まりあには心地よかった。
一人でも軽やかな足取りで、まりあは坂道を下った。
右手に見える街の景色を眺める。風がまりあの髪をいたずらに撫でた。朗らかな太陽の光が心地よく頬を照らしていて、まりあはくすぐったそうに目を細めた。
すると、
「ちょっと」
男性に呼び止められた。
まりあはどきりとして、足を止めた。
振り返ると、そこには猫背の男性がいた。細身で、そのためか身長が高く見えた。無表情にまりあを見下ろしていた。背後の太陽がその男の顔を暗くさせた。
その奇妙な威圧感に、まりあは怯えていた。
「一人?」
「……」
まりあは声が出ずに頷いただけで返答した。
(こういうとき、一体どうしたら)
まりあは完全に混乱していた。
以前教室で話されていた不審者なのだろうか、とまりあは思ったが、けれど、自分の目の前にいる男性がそれであるとは確信が無かった。
「家まで送っていこうか」
男性は言った。
まりあは首を振ることも頷くこともできなかった。金縛りにあったかのように体が一つも動かなかった。
(綾ちゃん)
まりあは心の中で叫んだ。
(綾ちゃん)
けれどまりあの口からは何も出てこなかった。
なんとか一歩後ずさる。
すると男性がこちらに手を伸ばしてきた。
恐怖のあまり、息をのんで、まりあは目をつむった。
「あ、ああ、あああの!」
緊張しきった声が飛んできた。
まりあも手を伸ばしかけた男性も、声の主の方を振り返った。
そこには悠人が立っていた。
白い肌に真っ赤にさせた頬をこわばらせながら、悠人は坂の上からまりあを見ていた。
「い、一緒に帰ろう!」
悠人はずんずんと、まりあのすぐ隣までかけてきた。
手を伸ばしかけていた男性は、悠人の首にかけられたカメラを見てすぐに手を引っ込めた。そして、何も言わずに静かに坂をあがっていった。
「良かったあ」
男性が去ったのを確認して、悠人は大きくため息をついた。
「あ、ありがとう」
悠人の勇敢さに驚きながら、まりあは素直にお礼を言った。
「いやあ、こわかったね」
悠人は眉を下げて和ませるように微笑んだ。日の光が悠人の黒い髪を透かせている。カメラを大事そうに抱えていて、悠人自身も自分を落ち着かせようとしているように見えた。
「うん……」
まりあは未だ早鐘を打つ鼓動を感じながら、小さくうなずいた。
帰ろうか、と悠人は優しく言って、まりあがゆっくりと歩き出すのを確認してそれにならった。
「橋本さんは今日は一緒じゃないんだね」
「うん、いつも、約束しているわけじゃないの」
「そうなんだ。女の子って、いつも決まったメンバーで帰るから。不思議だね」
「そう……不思議ね」
まりあはぼんやりと答えた。
(そうか、私は怖かったんだ)
先ほどの今まで感じたこともない感情を思いかえす。悠人に言われて、まりあは少しずつ実感した。
(怖かったんだ……)
まりあはその事実をおかしい、という風に心の中で嘲笑した。
(投げやりに生きているような自分でも、こんな風に身の危険を感じたときに限って、恐怖心を感じるなんて。馬鹿げている)
隣で悠人が何かを話している。その話をどこか遠くで聞いているような感覚で、まりあは曖昧に頷いていた。
悠人はまりあの家まで一緒についてきてくれた。悠人の家はもう通り過ぎてしまったようだったが、本人は気にしないで、と手を振って帰っていった。
ありがとう、ともう一度言って、まりあも手を振り返した。
家の駐車場に母の車があった。今日は仕事を休んだのだろうか、とまりあは考えた。
まだざわついている心をなんとかしたくて、まりあは家に入り母の姿を探した。
母は台所で夕食の支度をしていた。
「今日仕事休んじゃった。どうも体が怠くて」
「……」
まりあが帰ってきたことに気付くと、母はそう言った。
まりあはなんて切り出そうかもじもじとした。
「手を洗いなさいね」
母に促されて、何も言えないまま洗面台に向かった。
手を洗い終え、台所に立つ母の細い背中を見つめる。
「あのね、お母さん」
「なあに」
「さっきね、知らない人に話しかけられたの」
「そうなの」
母の背中に話しかける。
まりあは焦ったように早口に言った。
「知らない人に声をかけられてね、それで」
先ほどの恐怖をどの言葉を使えば伝えられるのか、と思ったが、母の背中を見ていてまりあは空しくなった。本当は、こんなことは何でもない事なのかもしれない、とまりあは思い始めていた。
「それで、クラスの男の子が来てね……」
まりあの声はだんだんと小さくなる。
母は人参の皮むきをしていた。
「それで、助けてくれたんだ」
「そう、良かったじゃない」
母は言った。
まりあに背中を向けたまま、皮むきを終えた人参をまな板の上に置いた。
「うん……」
まりあはこくりと頷いた。しかし、まりあの納得できる返答ではなかった。
(よかった…何がよかったと言うんだろう)
母の背中を見ていて、話す勇気がなくなってしまった。あの恐怖心は確かに本物だったのだが、それだけのことだったようにも思えた。
(あの時、悠人くんがいなかったら、私はそのままでもよかったんだろうか)
あの男と並んで歩く自分を想像した。
「それより見て!」
水道で手を洗い、タオルで手をふきながら母親は振り返った。まりあは母の嬉々とした姿をぼんやり眺めた。
「これ、新しいマフラー!」
母親が椅子に置いたバックから赤いチェックのマフラーを取り出した。
まりあは自分の首元を触ったが、そこにまりあが想像していたものはなかった。
(そうだ、綾ちゃんに渡したんだ)
「あんたが私の取っちゃうから、新しく買ったのよ」
(え?)
まりあは面食らって言葉に詰まった。
強引にまりあに押し付けたはずなのに、母の中ではそういうことになっているらしかった。寂しい気持ちがまりあを襲った。
そもそも、母はまりあがそのマフラーをしていないことにも気づいていないようだった。
母はマフラーをまたバックにしまって、再び背を向け料理を再開した。
まりあはまた空しい水の流れる音を聞いた。
一人、ただ寂しい気持ちに耐えていた。
次の日、まりあは登校することさえ怖がっていることに気付いた。もう外に出ることも怖いと思っていた。
まりあが登校を渋っていると、母親がため息をついた。
「じゃあ、学校にはその不審者のこと伝えておくから」
と一言だけだった。
(そういうことじゃない)
まりあはもっと別の言葉が欲しかった。しかし、自身もそれが一体どういった言葉なのかは分からなかった。
まりあはきつく口を結んだ。
「……行ってきます」
冷たい首元を晒しながら、まりあは学校へと向かった。
家を出た時、空はひどく曇っていた。
体がどんどん冷えていくのを感じながら、まりあは学校への道を歩いていた。
少しずつ高くなっていく景色も、今は不安定な浮遊感でしかない。
なんとか無事に学校についたまりあは、自分の席へと向かった。
座った瞬間、やっと一息つけた気がした。
すると、それと同時に教室のドアが乱暴に開けられた。
それは、あの時の朝のように。
「まりあ!」
ドアが開け放たれ、自分を呼ぶ声がした。
振り返ると、血の気が引いたように顔を青くした綾がいた。肩で息をしていて、走ってきたように見える。
「まりあ、大丈夫!?」
駆け寄ってきた綾の気迫に圧され、まりあは何のことだがわからずに困惑した。
「昨日変なやつに話しかけられてたって! 悠人が!」
悠人が綾に昨日の出来事を言ったらしかった。
まりあは綾の心の底から心配しているような顔を見て、その反面、安堵した自分がいることに気づいた。
「大丈夫だよ」
「昨日はごめん、一緒じゃなくて」
「だから、大丈夫だって」
「よかった……」
取り繕うまりあの言葉を遮って、綾はまりあの手を取った。あの約束の時のことを、まりあは一瞬思い出した。
「あなたが無事でよかった」
潤んだ瞳で綾は言った。
そう言われて、まりあははっとした。
(私が無事でよかった)
綾の言葉を反芻する。
それは優しく甘やかに溶けていくようだった。そして心に染み渡り、じんわりとまりあの胸は熱くなった。
(私が無事でよかった)
まりあは思った。自分の心でそう思った。
母に蔑ろにされた心が救われたのを感じた。
「……心配してくれてありがとう」
短い言葉だったが、確かにまりあは綾にそう伝えた。
その日は今年最後の登校日だった。
冬休みに入った生徒たちが、いそいそと帰路についていた。
知らない男に話しかけられた日から、帰りは綾がぴったりとくっついてきた。
陽が落ちるのも早く、寒さを増していく坂道を二人は足並みを揃えて歩いていた。
「うぅ、さみぃ」
綾がいつものように身を小さくさせた。
まりあはその姿に何も言わずに微笑んだ。
ふと綾の首元を見ると、マフラーをしていないことに気付く。
「あれ、綾ちゃん、朝はマフラーしてなかったっけ」
まりあは今朝の綾の姿を思いかえしながら尋ねた。
綾はそう問われた途端、立ち止まり、首元に手を置いた。そこには想像しているものがないことに気付いて、顔を青くさせた。
「学校に忘れたかも」
そう気付いた瞬間、綾は振り返ってすぐさま学校へ向かった。
「もう完全下校も過ぎてるよ?」
止めようとするまりあの言葉は耳に届いたが、綾が足を止めることは無かった。
「まだ先生もいるでしょ」
「暗くなっちゃうよ?」
まりあは不安げな顔をして言ったが、綾はどんどん離れていく。
綾のことが心配で、まりあもついていくことにした。
学校に着くと、すっかり日は落ち、空にはちらちらと星が見えた。
ひっそりと静かな校庭を見て、二人は意識せず立ち止まっていた。
外から見ると、職員室には明かりがついていた。
「入れるかな」
「怒られるよ」
「怒られてもいいよ」
「うーん……」
まりあは先生に悪い印象を与えるのが嫌だった。真面目で優等生のような印象に傷がついてしまうのが許せなかった。
「まりあから貰ったものなんだもの」
「……」
まりあはその言葉に口をつぐんだ。
もともと母が押し付けてきたもので、あまり良い思い出のないものだった。それを大事にしてくれている綾に、どこかしら後ろめたさがあった。
「行くよ」
綾は決まりの悪そうなまりあを気にせず、職員室へと向かった。
まりあは寂しそうな心を感じながらも、綾に黙ってついていった。
職員室について担任の先生を見つけると、綾は先生、とぶっきらぼうに声をかけた。
担任の男性教師は手元のプリントから目を離し、振り返り二人の姿を確認すると驚いたように目を丸めた。
「どうしたんですか、二人で」
学校ではほとんど話をしないまりあと綾の二人が、こうして揃って現れたことが意外だったようだ。
「忘れ物しました」
まりあの前だと少女らしく朗らかに笑う綾だったが、先生の前だと随分豹変するようだった。
「教室に取りに行きたいんですけど……」
綾の助け舟を出そうと、まりあも申し訳なさそうに補足した。
まりあの言葉を聞いて、先生はうーん、とうなって、やがて困ったように頷いた。
「取ってきなさい。今度からは気を付けてくださいね」
「はーい」
綾はそういわれた途端、一転してにやりと笑った。
「もう、綾ちゃん」
まりあがつい注意すると、先生は二人の様子を見て穏やかに微笑んだ。
「ほら、行こう。夜の学校ってテンション上がる」
「いたずらしないように、見ててくださいね、落合さん」
先生は綾の背中を見ながら、まりあにいたずらっぽく言った。
まりあはそれを真剣に受け止めたように頷いて、綾を追った。
月の光が差した廊下は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。足音が響きそうなほど静かな廊下を、二人はおずおずと進んでいた。
二人はただ黙って歩いていた。
先ほどはわくわくしていた綾だったが、いざ人気のない廊下を目の当たりにして、恐怖心がのぞいているようだった。
まりあも、さほど臆病な性格ではないが、夜の学校という異質さに怖気づいていた。
二人の教室につき、扉から一番近い場所にある綾の席にたどりつく。
綾が机の中を見ると、そこにはまりあが譲ったマフラーがあった。
いつも慣れ親しんでいる教室には青い光がさし、ぬらぬらと机を照らしていた。凍えるような綾の息遣いをまりあは感じた。
丘の上にある学校は風が強く吹く。外の針葉樹が唸るように木の葉を揺らしている。風の音が遠くでごうごうと鳴っている。
二人は無意識に呼吸を浅くして、その様子を窓から眺めた。
不気味に揺れる木々を見ていて、まりあは不安な気持ちに駆られた。
「ねえ、帰ろう」
長い間立ち止まっていることに気付いて、まりあは綾に急かすように振り返った。
月の光に照らされた綾の表情はこわばっていた。
「うん」
恐怖心を感じていた綾も、素直に頷いた。
二人は何故かひっそりと音を立てずに教室を出た。
廊下に再び出ると、先ほどより暗さは増しているように思えた。
見えない廊下の先が気になって仕方がなかった。
まりあは今まで感じたことない恐怖心があることに気付いた。振り返ることはしてはいけない、と本能的に悟った。
二人でしばらく静かに歩いていたが、不意に背後から小さな物音がした。
綾もまりあもその物音に気付き、反射的に歩みを止めてしまった。
目の前には暗闇がある。
振り返っても暗闇があることは想像できた。しかし、実際振り返ってみて、本当に暗闇だけなのか、という確信が二人にはなかった。
まりあは綾を見た。綾もまりあを見ていた。
目が合った途端、二人はたまらなくなって走り出した。
階段を下りて職員室の前まで夢中で走った。
職員室の扉からは人工的な明かりが漏れている。その中からは先生たちの話し声が聞こえてきた。
その声を聴いたとたん、二人の緊張がすっとほぐれた。重くのしかかっていた恐怖心が背中から離れていくのを感じた。
気付けば、二人は手を繋いでいた。
綾のもう片方の手にはマフラーが力強く握られている。
繋いだ綾の手は冷たくひえびえとしていた。まりあの手も、凍えるように冷たい。
その繋いだ手を見て、二人は不意に笑いがこみ上げてきた。そうして、ただ思うままに笑った。
笑い声は職員室の中にまで届き、近場にいた先生に早く帰りなさい、と注意された。
それでも不思議なおかしさの収まらない二人は、反省した様子もなく、ただ上機嫌に学校から出ていった。
以前悠人と約束をした写真を取りに、二人は坂道をのぼっていた。
綾だけが約束していたことだが、一人じゃ嫌だと駄々をこねるので、まりあも同行することになった。
綾は悠人のことが苦手らしく、まりあがいないとうまく話せないのだという。悠人も悠人で、未だに綾に対して怯えたような様子もあるので、まりあが仲介役にでもなろうかと思っていた。
「悠人くんの家を知ってるの?」
まりあは急な斜面をゆっくり歩きながら聞いた。
左手には小さく点々とした家々が広がっている。青い空には雲ひとつない。向こう側に座る山は青く、その中で一番大きな山の頂上には雪が降り積もっている。太陽の光が頬を撫でて心地よい。風の強さを正面から受けながら、まりあはなびく髪をおさえた。
「ううん。でも、ほとんど先生の家にいるって」
「先生も迷惑じゃないのかな」
「ああいうやつは嫌な顔一つしないのがすごいよね」
綾は自分がその立場になったら、と想像してひどく迷惑そうな顔をした。
「実際嫌じゃないんじゃないかな」
まりあはなんとなくそう思った。
あの朗らかに笑う先生の顔を思い出す。まりあたち二人のことも優しく迎え入れてくれた人だ。悠人にはいっそう強い特別な優しさがあるように思えた。
「大人って信用できないよ」
「そうかなあ」
「特に、ああいうやつは」
綾は先生のことも毛嫌いしているらしかった。
まりあは先生のことを優しい人だと思っていたから、綾のそういった態度に少し気持ちが陰った。しかし、綾の大人を嫌う理由もなんとなくわかっていたので、注意することはせず黙って聞いた。
それからは二人、何を話すでもなく黙々と歩いた。
先生の家につくと、庭に悠人の姿があった。
学ランを着ていない彼の私服姿は、もともと女の子らしい容姿に拍車をかけていた。
「ほんとうにいっつも居るんだね」
綾が嫌味ったらしく悠人に話しかけた。その声に気付いた悠人はカメラを覗くのをやめ、二人に顔を向けた。
やけに嬉しそうに笑顔を向けるので、綾は怪訝そうな顔をして返した。
「にやにやして、気持ち悪い」
「学校が無い日に友達に会うのが嬉しくて」
悠人は素直に自分の気持ちを打ち明けた。
その言葉にさらに綾は機嫌を損ねたようにむっとした。
「学校来ないくせに」
きつい返しをしたが、それが綾の照れ隠しであることにまりあは気付いて苦笑した。
悠人もそれになんとなく気付いているようで、嬉しそうな顔は崩れなかった。
「はい、これが写真だよ」
悠人がポケットから写真を取り出し、綾に差し出した。
綾は未だ口をへの字に曲げたまま、静かに写真を受け取った。
まりあが横から写真を覗く。
写真に写る二人はオレンジ色の光に包まれていた。写っているのが自分たちであるとは思えないほど神秘的な光景だった。夕陽に背を押されている綾の顔には影が差し、まりあの顔が明るく照らされている。
「綺麗に撮れてるね」
あの時の会話を思い出し、ぼんやりした様子でまりあが呟いた。
悠人は照れたように笑うだけだった。
綾も、考え込むように俯いて何も言わなかった。
「おや、こんにちは」
「先生、橋本さんと落合さんだよ」
「先日はどうも」
庭の様子を見に来た先生が綾とまりあに気付き、軽い会釈をした。
まりあも丁寧にそれを返した。
「お父さん、いつから教室なんて開いたの?」
見知らぬ女性の声がして、まりあと悠人は目を丸くした。
先生の背後から二十代後半くらいの女性がひょっこりと現れた。ゆるやかな長い髪を一つにまとめて、腕には穏やかに眠る赤ん坊を抱いていた。
綾は優しく抱かれた赤ん坊を見て、ぱっと表情を明るくさせた。
「彼にカメラを教えていますけど、二人のお嬢さんは彼の友達なんですよ」
「どうも、こんにちは」
女性は優しい微笑を浮かべて三人に挨拶をした。
「こんにちは」
人見知りなまりあは緊張しながらもなんとか返し、
「こんにちは、赤ちゃん可愛い!」
綾は赤ん坊に興味を示していた。
悠人はまりあ以上に人見知りらしく、そわそわと目をそらして何も返さなかった。
「悠人くん、お茶を入れるのを手伝ってくれますか」
先生がさりげなく悠人を誘った。悠人は小さく頷いて、二人は家の中へと入っていった。
「お姉ちゃんにこんにちは、って」
女性は赤ん坊に優しく言った。
その声に赤ん坊は目をぱっちりと開け、不思議そうに女性の顔を覗き込んだ。
「まだおしゃべりできないねえ」
女性は愛しそうに赤ん坊を見つめ返した。
赤ん坊は答えるように笑い声をあげた。
「抱っこしてみる?」
「いいの?」
女性の提案に、綾はすぐさま食いついた。
「うん。この子、全然人見知りしないから」
女性は言って、我が子を綾にそっと預けた。
赤ん坊の持ち方を指導されながら、綾はやわらかく赤ん坊を抱きあげた。赤ん坊は全く気にせず、興味深げにあたりをみまわしている。
かわいい、と綾は思わずこぼす。
女性は嬉しそうに綾と自分の子とを見守っていた。
暖かな陽気が赤ん坊のふっくらした肌を照らしている。庭にある山茶花に雀がとまる。冬毛で丸くなった姿でちゅんちゅんと鳴いていた。
まりあはその赤ん坊を奇妙だと思った。
(自分もこんな風だったのだろうか)
赤ん坊を優しく抱く綾と、それを見つめる女性がいるその光景は、一つの絵画のようにうつくしく思えた。まりあはその絵画の中にはいなかった。
線をひかれたような気分がして、まりあは寂しくなった。
(自分もこんな風に、周りに守られながら……祝福されながら育ってきたんだろうか?)
確かにここまで生きてこれてはいる。しかし、まりあにはこの赤ん坊のような優しさを受けている自信がなかった。
「あなたも、抱っこしてみる?」
不意に、女性に声をかけられて、まりあははっと我に返った。
「えっと」
子供が苦手なまりあはどう答えればいいか分からずに言いよどんだ。
それに構わず、ほらかわいいよ、と綾が赤ん坊を寄越してきた。
「優しく抱いてあげてね」
綾から強引に赤ん坊を渡され、その重みにまりあはすっかり固まってしまった。
体の芯が強張ったように動かなくなり、首だけを動かして女性に戸惑った顔を見せた。
「かわいい女の子に抱っこしてもらえて、よかったねえ」
なんて、女性はまりあの困惑を知らずにのんびりと我が子を撫でた。
赤ん坊はまりあの腕の中でも大人しかった。もぞもぞと小さく動いている。不思議な重みと熱いくらいの赤ん坊の体温に、まりあは張り詰めたように緊張していた。
首をゆっくりと動かし下を向くと、赤ん坊と目が合った。黒々としたつぶらな瞳を動かして、青さの混じる白目の部分をちらちらと覗かせている。時折、う、う、と言葉を発した。
「……」
重い、とまりあは思った。
実際のこの赤ん坊の体重よりずっと重いと思った。
(こんな、こんな風に、私は生きてきたんだろうか)
まりあはまた、ふっと寂しくなった。
「みなさん、お茶が入りましたよ。庭は寒いので、そろそろ」
先生の声が縁側から聞こえてきた。
女性ははーい、と返事をした。咄嗟に、まりあは女性に赤ん坊を渡した。赤ん坊を渡したとき、女性からは心地よい、とても良い匂いがした。にっこりほほ笑んで、女性は赤ん坊を抱いて家に入っていった。
「母親ってすごいね」
綾が言った。
まりあはふと綾の方を見た。
その言葉に一体どんな感情が込められていたのか、まりあには分からなかった。そして、自分の中でも、母親というものが、どういうものなのか分からないことに気付いた。
(そういえば、お母さんの顔、どんなだったかしら)
まりあは母親の顔が思い出せなかった。
(お母さんも、あの人みたいに優しく、自分を見つめてくれていたのだろうか?)
まりあが思い出せたのは、知らない人に話しかけられたあの日の、母の細い背中だけだった。
(お母さん、母親、私を産んだひと)
その時、まりあの心がぐっと切なくなった。
自分の母親ではなく、母親というあいまいな存在自体が恋しく思えた。
あの女性が見せたような、慈しみに溢れた優しいまなざしが恋しかった。
「ねえ、まりあ」
その感情から逃げるように、まりあも家に向かおうとして、綾に呼び止められた。
まりあは立ち止まり、綾を振り返った。
「これ、まりあにあげる」
綾は写真をまりあに差し出した。
まりあは黙ってその写真を受け取った。それは、さきほど悠人から貰った二人の写真だった。
「まりあに持っていてもらいたいの」
綾は言った。
まりあの目には、そのときの綾の表情が寂しく、暗く映った。
「ねえ、綾ちゃん。約束の事、覚えてるよね?」
まりあはどこか嫌な予感がして、思わず綾に聞いた。
寂し気な顔をしている目の前の少女は、すぐに頷きはしなかった。
「うん、覚えているよ」
まりあは写真を強く握った。
写真の中の夕暮れは、あの時よりも暗く二人を包んでいた。
まりあが自宅に帰ってくると、母の姿が無かった。何より、家の中に陰鬱な空気が漂っていることにまりあは気付いた。一緒に暮らしている父方の祖母と祖父は、寂しげな顔をしておかえり、とまりあを迎え入れた。
父の部屋へ行くと、衣装ケースから黒のスーツを取り出している父を見つけた。
「お父さん、お母さんは?」
まりあが尋ねると、父はゆっくりとまりあの方を向いた。少し思案した後、父は手に持っていたスーツを再び衣装ケースに戻して、きちんとまりあの方を向いた。
いつも物静かで生真面目な父だったが、その時はさらに深刻さが垣間見えた。
しかし、父が口を開いて出てきたその言葉は、不思議な穏やかさがあった。
「おばあちゃんが亡くなったよ」
そこには優しさも含まれていた。
まだ中学生のまりあを驚かせないように、父はいつも以上に平静を保ってそう伝えた。
まりあはその言葉を聞いて表情が一瞬で固まった。
母方の祖母が亡くなったということだった。母の実家は遠方にあった。
「……」
まりあは何も返せなかった。
「お母さんは先に実家に向かった。お父さんとまりあは、これから葬儀に向かうから」
父は、非常に冷静に、淡々とまりあに必要なことを伝えた。
父の平静な態度を見て、少しずつまりあは落ち着きを取り戻した。
実際、まりあは未だ、人が死ぬということがどういうことなのか、分からないでいた。祖母が死んだという事実も、今、父から聞かされただけで、現実味のないことのように聞こえていた。
「私は」
まりあはやっとのことで言葉を発した。言葉が詰まるようだった。
「私は、制服で、いいのかな」
まりあが聞くと、父は何も言わずに頷いた。
父が運転をし、まりあは助手席に座っていた。母の実家は遠方にあるため、深夜に出発をし、朝方には向こうに着く予定だった。
深夜の高速道路では、車の通りは少なかった。
まりあはその間、祖母のことを思い出していた。
毎年夏休みに家族三人で里帰りをしていた。山奥にある祖母の家では、祖母がおいしい果物をたくさん振る舞ってくれた思い出がある。
孫のまりあをよくかわいがってくれていた、優しい祖母だった。
まりあの中では、里帰りをするような気分でもあった。しかし、今あの家に行ったとしても、果物は出てはこないし、甘やかしてくれる祖母がもういないことに、まりあははっと気づいた。
(そういえば、里帰りをして、二人の時に、おばあちゃんが私に言ったっけ)
まりあは二年前の夏を思い出す。
祖母は台所で桃を食べているまりあの元に来て、
「あんたの母さんには苦労をかけたよ」
と言った。
小学生のまりあはその言葉が全く見当つかず、静かに桃を食べ続けた。
「ほんとうにね、あの子は、かわいそうな子だから」
(おかあさんが、かわいそうな子)
桃の甘さが口に広がっていく。しかし、どこからか錆びた味もあったように思えた。
祖母と母の間に何があったのか、まりあは今でも知らない。ただ、その時の言葉を、母を見るとたまに思い出すのだった。
「……葬儀は二回目なんだよね」
まりあは不意に呟いた。
曾祖母の葬儀に、まりあはまだほんの小さい時に出席していた。その時のことは殆ど覚えていないが、何故か周りの人たちが泣いていたことと、縁側にさす穏やかな陽だまりが、やけに明るかったことは覚えている。
「その時、まりあは天国で見守っていてね、って言ったんだ」
「言わされたんじゃなかったっけ」
父が思い出したことを口にした。まりあはぼんやりとそのときのことを返した。
「死んだら神様のところに行くんだよね」
まりあは神様という存在を信じてはいなかった。絶対的な存在というのなら、今のまりあには母親がいた。
(今、私は神様の元へ向かっている)
先に実家に戻った母親のことを思う。
「お父さんはね」
真っ直ぐに前を見ながら、父が口を開いた。
その先には朝日がのぼりかけていた。
まぶしさに、まりあは目を細めた。
「小さい頃、神様にどうしても叶えて欲しいことがあって、神様にお願いしたことがあったんだ。でも、結局それは叶わなくて……だから、その時から神様は信じていないんだよ」
父の言葉はとても優しく、冷たく透き通るような声色だった。
まりあは何も返さなかった。
(どうしても叶えて欲しいことって?)
そう聞こうと思ったが、何故か聞くのが怖くて、何も言わずにじっと朝日を見ていた。
祖母の家に着くときには、日はすっかりのぼりきっていた。
既に黒い服の人が十数人、家を出入りしているようだった。
数か月ぶりに来たこの家が、はじめて訪れる場所のようにまりあには思えた。
家に入ると、居間には黒い服の人たちがいて、お互い挨拶をしたり、思い出話をしているようだった。
その奥に、布団が敷かれているのを見つけて、そのとき、ぐっと息が詰まるのをまりあは感じた。ふわっと体が浮いたように思えた。おぼつかない様子で、布団の傍らに置かれた座布団に父と並んで座った。その布団には誰かが寝ている。顔には白い布がかぶせられていて、表情が見えなかった。
「遠いところ、お疲れさま」
優しく、いたわるような声がした。
横を振り向くと、そこには母親の姿があった。
真っ黒な服に身を包み、背筋をまっすぐに伸ばして母は座っていた。その母の姿を見て、まりあは息をのんだ。
痩せこけたような首筋と、目元が赤くはれていた。しかし母は、まりあと父を見て優しく微笑んでいる。
まりあはその時、やっと母の顔をきちんと見た気がした。
(神様)
まりあは思った。
(私の、神様)
細く吹けば飛びそうな彼女の姿に、まりあは戸惑っていた。
「おばあちゃんにも挨拶してあげて」
震えた声で母が言った。それでも母は微笑んでいた。
まりあは気持ちの整理がつかないまま、ただ促されるまま布団へ寄った。先に、父が白い布をとった。
祖母の顔があった。
瞬間、まりあの肩に何かが重くのしかかってきたのを感じた。
祖母は目を閉じている。じっと動かないで眠っていた。
父がまりあに横に来るように示した。まりあは指示されるまま、父の傍らに座った。
「……」
祖母を目の前にしたとき、まりあは全身の血がさっとひいていくのを感じた。体中の血の巡りが止まり、体温がなくなっていくような気がした。
それからしばらくして葬儀が始まった。
葬儀のあいだ、まりあはふわふわした感覚のままぼんやりとしていた。母の泣いている姿を、ただ遠くで見ているような心地だった。
(神様)
まりあは思った。
(神様はいないんだ)
母の止まらない涙を眺めて思った。
(あの子は、かわいそうな子だから)
祖母の言っていた言葉を思い出す。
縁側から光がさしている。
外はきちんと晴れていて、祖母の足元に陽だまりを残している。その光は、やけに明るく感じた。しかし、この部屋だけ、やけに冷たく、重々しいと思った。
まりあの身体は未だ血が止まったままで、凍ったように冷たいと思った。この部屋にいる黒い服の人たちの体温も、ずっしりと足元に沈んでしまったような心地だった。
葬儀は滞りなく進んでいき、やがて穏やかに終わっていった。
たくさんの人が泣いていた。曾祖母の時と同じだった。
祖母の火葬が終わり、家に戻ってきた人々は、どこか気持ちが軽くなったように穏やかに微笑んで帰っていく。祖母が骨になって帰ってきたとき、すっと、参列者たちの気持ちが軽くなったのをまりあは感じた。
形が変わると、重みも違うのだろうか。
まりあは思った。
あのとき、まりあは人の死というものを知らなかった。ここにきて、人の死というものがわからなくなった。
(私、綾ちゃんと約束しているんだ)
あの時の約束を思い出す。けれど、最早それがどれほど現実味のないものなのか、まりあには痛いほど分かっていた。
祖母の顔を思いかえす。それと同時に、誰かの死に顔が重なった。
母親ではなかった。それは、確かに綾の顔だった。
制服の胸ポケットを確かめる。そこには昨日もらった二人の写真がある。
(綾ちゃんは、もっと別で、何か隠していることがある)
写真を渡されたときの綾の表情が、どうしてもまりあには引っかかっていた。
(綾ちゃんは、私に隠していることがある)
写真の中の夕暮れは暗く、綾の顔に影を落としている。その写真からは綾の表情は読めなかった。
祖母の葬儀から帰ってきたまりあは、もやもやとした気持ちを抱えていた。
綾の寂し気な表情が脳裏に焼き付いて離れない。それは、祖母のあの顔と重なるように思えた。
まりあは何となく、坂道をのぼって先生の家へ目指していた。
先生の家に着くと、悠人の姿は見つからなかった。しかし、先生に会いに来たまりあには好都合だった。
「おや、こんにちは」
庭先にいた先生はまりあを見つけて穏やかな微笑を浮かべた。
まりあは軽く会釈をしてその場に立ち尽くしていた。
ここにきたところで、何を話すべきなのかまりあは分からなかった。自分で足を向けたというのに、先生に何かを言いたい気持ちがあるのに、それが何なのか分からなかった。
「悠人くんは、今日は……」
「悠人くんじゃなくて」
先生の言葉を遮って、まりあは首を振った。
まりあの様子を不思議そうに見つめて、やがて先生は庭に咲いている山茶花を指さした。
「下の方ばっかり咲いていたんですけど、少しずつ上にも咲いてきてくれて。きれいでしょう」
まりあはその言葉につられて庭に出た。
山茶花は赤いような紫のような色味の花びらをふんわりと咲かせて、点々としている。濃い緑の葉が力強く光を浴びている。
「先日、祖母が亡くなったんです」
まりあは言った。
先生ははっと口を閉じて、驚いた顔をした。
「それは、たいへんでしたね」
けれど、先生の口からは落ち着いた言葉が返ってきた。
その言葉に、まりあは安心感を感じた。
「人が死ぬと言う事を、知ってはいたんですけど……その、本当に、人は死ぬんだと、現実なのだと、思いました」
まりあはこんなことを言いたいんじゃないと思いながら、慎重に言葉を選んでいた。
「生きるということは、たいへんなことです」
「先生は、そこまで生きてて、それでもたいへんだと思うんですか」
「わたしは生き残ってしまったんですよ。だからこそ、たいへんなんですよ」
まりあはわかったような、わからないような曖昧な気持ちだった。
「悠人くんや、まりあさんや綾さんを見ていると、生きていてよかったと思います。まぶしいような貴方たちの生き方を見ていると、生きることがすばらしいことだと思えてくるんです」
「私は、そんな」
「まりあさんも、綾さんも、そして何より、悠人さんが、上手に生きていってくれることを願います」
まりあは途端に突き放されたかのような気分になった。
「上手に、って……それができないから、こうして辛いんです」
まりあは感情的になって返した。
先生は真面目そうな、冷たいような表情でまりあを見た。祖母の死を告げた父のような、容赦のない瞳だった。
「先生は本当に悠人くんを助けようとしていない。悠人くんは、先生に助けて欲しいのに」
綾があの時、自分の手を握ったことを思い出す。綾にとっては、その手は誰でもよかったのかも知れない。
そのことに気付いて、まりあは腹が立っていた。
「わたしは悠人くんを助けられる人間じゃありません」
先生は冷たく言い放った。
「わたしは、ただ悠人くんを孫のように思っているだけですよ」
山茶花の花が風に優しく揺れている。先生の足元のパンジーが笑うように風に遊ばれている。
まりあはその無責任な言葉に腹が立った。助けようとしない先生に、そして何より、助かろうとしていない綾のことを思って腹を立てた。
幸せになるためにと綾は言った。その言葉がどれほど力強く自分の背中を押してくれたか、綾は分かっていなかったのだ。まりあはただその言葉に背中を押された。
「橋本さん、こんにちは」
玄関先から悠人の声が飛んできた。
「こんにちは」
「ねえ先生、向こうの方にクレマチスを見つけたよ」
「あぁ、あのお宅はいつも庭がきれいですね」
「写真を撮りたいんだけど……」
おずおずと悠人はカメラを胸元まで持ち上げた。
「……」
先生は少し思案して、まりあの方を向いて言った。
「橋本さんと行ってきてみては? わたしは今日は家から離れられないので」
「えっ……うーん」
悠人はまりあを見つめ、困ったように黙ってしまった。
「おうちの人に許可を取るの?」
「うん……勝手に撮るのは失礼だから……」
「私も、知らない人に話しかけるのは……」
まりあもやんわりと断ろうとすると、先生はにっこりと笑って縁側から家にあがった。
「何事も練習ですよ」
と言って家の奥に行ってしまった。
残された二人は困ったように顔を見合わせた。
「橋本さん、交渉できる?」
「……」
悠人にそう頼られて、断るには惜しかった。正義感がまた顔を出していることに、まりあは嫌気がさした。
「できると思う」
気付けば、そう返事をしていた。
悠人はぱっと顔を明るくさせてじゃあ行こう、と早速来た道を戻った。
まりあは肩を落としてため息を吐いた。
「すぐに日が暮れちゃうし、咲いている花は少ないし、冬はあんまり好きじゃないなあ」
「風も強いし、私も冬は苦手」
歩いている途中、悠人がぼやき、長い髪がなびくのを抑えながら、まりあは同意した。
「今日は橋本さんは一緒じゃないんだね」
「だから、いつも一緒じゃないの」
「好きなら一緒にいればいいのに。楽しいよ」
素直な悠人の言葉にまりあは目を丸くした。
「好きとか、そういうのは……」
綾に対して不信感を抱いている今、まりあにはその響きが痛かった。
「そうだよね、橋本さん、なんだか落合さんにはよそよそしいところがあるもんね」
「……」
そういわれて、まりあはちくりと胸が痛んだ。
悠人にはそう映っていたらしかった。まりあは綾がすっかり心を許したのだと思っていた。
(……やっぱり、隠し事をされているんだ)
それでも大人しくまりあは引き下がれなかった。
腹立たしさが収まらないこともあった。思うとおりになっていないことが気に障ったこともあった。
その対抗心のようなものが、まりあの心には燃え上がり、彼女自身にさえも制御ができなくなっていた。
「私、綾ちゃんと約束しているのよ。一緒にお母さんを殺そう、って」
それを聞いた悠人は、ゆっくりと口を閉じて黙った。
しばらくして、まりあは自分が何を言ったのか、やっとのことで気付いた。
けれど、訂正しようとしたが、なぜか心はすっきりとしていた。
(言ってやった)
そんな気持ちがあった。その気持ちがとても卑しいものであると、まりあには分かっていた。
取り返しのつかないことをしてしまったと、まりあは思った。口をぎゅっと結んで、もう余計なことを言わないようにと我慢した。
悠人はあまりにもまりあが惨めな顔をするので、少し視線を落として、やがて顔をあげて辺りを見回した。
「見て、先生の庭にあったのとおんなじ。山茶花だよ。あれはシクラメンだね」
誰かの家の庭にある花を指さして悠人は言った。
「……よく、知ってるね」
まりあは恥ずかしさに耐えながら、低い声で言った。
「先生が教えてくれるの。先生に、たくさんの名前を教えてもらったんだ」
傾きかけた日が悠人の頬を照らした。
「先生がぼくをはじめて人間にしてくれたんだ。あのときの夕陽は、ずっと忘れない」
それは真っ直ぐな声だった。
「ぼくは先生のことが好き。この気持ちに名前があるのなら、きっと、好きって言葉なんだと思う」
「……」
悠人の素直で真っ直ぐな言葉に、まりあは何も返せず口を閉じた。
(悠人くんは、なんて強い子なんだろうか)
打ち明けられた悠人の秘密に、まりあは心を打たれた。
寂し気に照らされた悠人の横顔を見て、まりあは切なくなる。
それでもいつもの優しく穏やかな印象は残ったままだ。どこか諦めたようにも映った。長いまつげがオレンジ色に光り、白い頬には変わらずうつくしい赤みがある。その薄く真っ赤な唇はかすかに震えていた。
ぱしゃり、とカメラのシャッター音がした。
「きれいな夕焼けだね」
「うん」
まりあはやっとのことで頷いた。
「先生と見た夕焼けはもっときれいだったんだよ」
まりあは悠人の方を振り返って、悠人を正面に見た。
悠人の瞳は夕暮れに赤く染まりながら、その大きな瞳から、つーっと、一筋涙が流れた。
冬休みは何の約束もしていなかったから、まりあは綾に会わないものだと思っていた。
あの日悠人から教えられた花の名前を思い浮かべながら、花を見つけては近寄って、また遠くで花を見つけては近寄ってと、散歩をしていると、綾に似た後姿を見つけた。
ふらふらと亡霊のように歩くその姿は、綾のものであるとは信じたくないほどにはかなげだった。
しかし、ある使命感に突き動かされて、まりあはその背中を追った。
「綾ちゃん!」
声をかけると、その少女はゆっくりと振り返った。
振り返った綾の顔を見て、まりあは心臓を掴まれたように血の気がひいた。
綾は最後に会った時よりずっと痩せて見えた。化粧をして血色は変わらないように思えたが、瞳はぼんやりと虚ろだった。
「綾ちゃん、私……」
今の綾に、あの日のことを言うのははばかられた。しかし、卑怯なことが許せないまりあは意を決して口を開いた。
「綾ちゃん、私ね、悠人くんに約束のことを話してしまったの」
まりあは正直に告げた。
綾はその言葉に驚いた様子はなかった。どこか遠くのことのように聞いていた。
綾の淡白な反応に、まりあは更に焦った。
「ごめんなさい。私、つい、どうしても……」
言い訳をしようとしたが、それさえも綾はまともに聞いていないことに気付いて、まりあは気力をなくして口を閉じた。
「もういいの」
一言、綾は言った。
「もう、いいって……?」
ひどい罪悪感がまりあを襲った。諦められたような口ぶりに、まりあは眉を下げて困った顔をした。
そう言ったっきり、綾はもう何も言わず、再びふらふらと歩き出した。
まりあはその背中を見て、行かせてはならない、と強く思った。
「ねえ、綾ちゃん」
呼び止めると、綾が立ち止まった。ゆっくりと道路の方を眺める。
虚ろな瞳には往来する車が過ぎ去ってゆく。
「こんな速さじゃ死ねないね」
綾は嘲笑するように吐き捨てた。
その言葉に、まりあは体を強張らせた。
「死ぬんじゃない、殺すんでしょう」
まりあはまだあの約束に縋っていた。もう、あの約束は嘘であったことは、まりあ自身が最初に気付いたことだった。
「あの約束も、もう忘れて。変なことを言って、ごめん」
綾は言って、再び歩き出した。
まりあはその手を掴もうと思った。けれど、あの約束の日に見た、腕のあざを思い出して、はっと手をひっこめた。
綾は遠ざかっていく。
まりあの心は罪悪感と、今まで嘘をつかれていたのだと、決定的に思い知り、大きな喪失感に包まれていた。
それから冬休みが終わるまで、まりあは綾に会わなかった。
まりあは綾に、なんと声をかければいいのか分からなかった。あの時、綾を引き留める言葉が出てこなかったように。
冬休みが明けてはじめての学校が終わった。下校しようと靴箱に向かっている途中、まりあは悠人の姿を見かけた。悠人が学校にいるのをはじめてみたので、まりあはびっくりしてその背中を追いかけた。
「悠人くん」
まりあが呼び止めると、悠人は肩を強張らせて、やがてゆっくりと振り返った。
まりあの顔を確認すると、その緊張は一瞬でほぐれて、いつもの優しい笑顔に戻った。
「なあんだ、橋本さんかあ」
「学校で会うのははじめてだね」
「そうだったかなあ」
「学校に来れたんだね」
「うーん、といっても、先生と相談してただけだけど」
のんびりと悠人は答えた。
まりあは最後に見た悠人の涙がずっと引っかかっていた。目の前の彼はどうやら何も気にしていないような様子だったが、どうしても謝らなければ、まりあの気が済まなかった。
「あの時、私、なんだか悠人くんを傷つけてしまったような気がして……ずっと気がかりで。ごめんなさい」
まりあが素直に謝ると、悠人は変わらず穏やかな表情で、
「大丈夫。ぼくも分かっていたことだから」
と優しく返した。
まりあはその言葉にまた心を打たれた。
そして、何もできずにただ腹を立てたり、戸惑ったり、綾に対して手を伸ばせなかった自分がひどく弱く、愚かしく思えた。
「橋本さんと喧嘩したの?」
その心を覗いたかのように、悠人は突然俯いたまりあの顔を覗き込んだ。
「え?」
「なんだか、そんな気がして」
「……そもそも、そんなに仲が良かったわけでもなかったのかも」
まりあは寂しそうにつぶやいた。こんなことを言ってしまえる自分に呆れもした。
「不思議なつながりだよね。橋本さんといる時って、落合さん、普通の人間みたいに見えるよ」
悠人はそう言った後、すぐに口を抑えた。
「あ、あの、失礼だったのかも」
「大丈夫。私も分かっていたことだから」
慌てた様子の悠人をなだめるように、先ほどの悠人の口調まで真似てまりあは言った。
「先生と出会って、はじめて人間になれた、って言ってたよね」
「うん」
悠人は真剣なまなざしでまりあを見つめた。まりあも同じように、真剣なまなざしで悠人を見つめた。
「きっと、私もおんなじ」
「……」
悠人は視線を落として何かを考え込んだ。伏せたまつげがうつくしく煌めいている。
やがてゆっくりとまりあを見つめた。輝くような瞳がまりあを掴んで離さなかった。
「落合さんはきっと橋本さんと一緒にいられると思うよ。落合さんは、伝えられるんだから」
その瞳の中に、二人で見た夕暮れが映っているかのようだった。
まりあも、綾と二人で見た夕暮れを思い出す。写真は制服の胸ポケットに入っていた。しかし、この写真よりもずっとうつくしい景色がまりあの心には映っている。
その光景を思いかえし、まりあの心が熱くなった。
「伝えられるのかしら」
まりあは無意識に呟いていた。
悠人は優し気にまりあを見つめていた。
そうして、諦めの混ざった様な、困った様な、けれど力強く、悠人は頷いた。
その日は卒業式だった。
暖かい太陽の光が校庭に降り注いでいる。桜の木は今にも咲きそうな蕾を抱えて揺れていた。
校庭には卒業生たちが集まって各々記念撮影をしていた。
まりあもその輪の中に入っていた。
はしゃいでは、泣いては肩を抱き合う生徒たちを眺めながら、まりあの心はもっと遠くにあった。綾の姿を探したが、ここにはいないようだった。
ふと、あの時のように、自分の教室がある校舎を見上げた。
そこに、誰かがいた。
人影がちらちらと揺れている。まりあはそれを確認した瞬間、考える前に歩き出していた。
春の穏やかな日差しが廊下を照らしている。
階段をのぼると、遠くの空には黒い雲が見えた。
自分の教室に着いて、中を覗くと、そこには見知った女の子がいた。窓際に座って、校庭にいる卒業生たちをつまらなそうな顔で眺めていた。
「綾ちゃん」
声をかけたが、綾はずっと校庭を眺めている。
まりあは教室に入り、綾に近づいた。
外からは生徒たちの声が聞こえる。寂しさを含めたような、けれどこれからを思って希望を抱えたような、力強い声が聞こえてくる。
「高校、合格おめでとう」
まりあは何を言えばいいか分からなかったが、最初にそう言った。
「……まりあも、おめでとう」
綾は態度とは打って変わって、穏やかに返した。
まりあはあの日から、ずっと綾に対して腹が立っていた。嘘を吐かれていたのだと、わかったときから。
(もっと、もっと他に、言いたいことがある)
まりあは一歩、綾に近づいた。
「違う高校だけど……よかったね」
「まあ、ちゃんと通うかは、わかんないけどさ」
吐き捨てるように綾は言った。
その言葉に、まりあは足を止めて真っ直ぐに綾を見た。
綾の諦めたような、投げやりな姿を見て、まりあの心は哀しみのような、怒りのような炎が渦巻くのを感じた。
綾を見つめ、まりあは意を決して口を開いた。
「綾ちゃん、約束の事、覚えてる?」
「……」
綾は校庭を見ている。
「お母さんを殺そうだなんてほんとうは嘘。綾ちゃんは私に嘘を吐いたの。ほんとうは、もっと別のことが言いたかった」
詰まりそうになる言葉を、まりあは必死に吐いた。
綾がこちらを見ないことに苛々した。
黒い雲がこちらに近づいている。
まりあは、これからも綾と一緒にいられるのだと思いたかった。
「綾ちゃん、あの時言ってくれたよね。どうやったら幸せになるのか……幸せになるために、どうしたらいいのか……私も考えたの、どうすれば、もっときちんと生きられるのか」
まりあはまた一歩近づいた。
「生きていくって、もっとまっすぐなものだと思うの。死ぬことを感じながらじゃない。生きていくことだけを考えていくの。ねえ、綾ちゃん、私と一緒に生きて欲しいの」
詰まる思いを抱えながら、まりあは綾に迫った。
綾はゆっくりとまりあを見つめた。
その瞳はひどく冷たく、凍るようだった。
「じゃあ、まりあはあたしと一緒に死んではくれないんだね」
その言葉は異様にはっきりと、まりあの耳に届いた。
まりあはぐっと唇を結び、喉が熱くなるのを感じた。
そして、決して言ってはいけないことを、言ってしまった。
「綾ちゃん、私の言葉は、ちゃんと伝わってる?」
そう言った瞬間、もう二度と言葉が伝わらないのだと、まりあは思い知った。
綾がまりあを無関心な瞳で見ていた。
これ以上何を言っても無駄だと、まりあには分かった。
綾が教室を出ていこうとした。
もはや、それを止めることもしなかった。
「雨が降るから、帰らなきゃ」
綾は言った。
「傘がないから」
綾は言って、まりあを残して教室を出ていった。
残されたまりあは、窓から迫る黒い雲を見た。
まりあの心の中にはもう怒りも、悲しみもなかった。
母から譲り受けたうつくしい正義感が、あるだけだった。
その正義感は報われることはなかった。
(もういい)
まりあは思った。
(人形のまま、この飾り物の正義感のまま)
まりあは目を伏せて、雨が来るのを待っていた。
ぼんやりとした頭のまま、ゆっくりと瞼を持ち上げる。
長いまつげが視界に入る。心なしか、瞼は重たく感じた。
優しい掌が自分の頭を撫でている、とまりあは気付いた。
母親の甘やかな香りがする。
カーテンから白い光が穏やかにまりあと、母とを包んでいた。
母親に膝枕をしてもらいながら、まりあは心地よさそうに目を細めた。
何も言わずに泣いていたまりあを、母親は優し気な微笑を浮かべて抱きしめてくれた。
それだけで、まりあはいいと思った。
(私はずるい)
穏やかな心でまりあは毒づいた。
母親が頭を撫でてくれている。
カーテンから差し込む光は暖かく、春の訪れを告げている。雨は上がり、庭の芝生にはちらちらと水滴がきらめいている。
まりあはまた眠たくなって、少しずつ目を伏せた。
目をつむっても分かる、光の心地よさ。
瞼の奥で、きらきらとまわる赤いひかり。
まりあは幸せだった。
(私はずるいままだ)
それでも、まりあは幸せそうに微笑んだ。
すばる文学賞に応募した作品でした。