第五話 秘境の部族
娘は弓こそ構えないが、じっと俺から視線を外さない。母を守る、その強い意志を感じる――しかし。
「アリサ、その方は恩人です。まず、お礼を申し上げなくては……痛っ……」
「っ……母様、動くのだめ! 危ない!」
娘がかばっていた母親が、ゆっくりと身体を起こす。転んで足をくじいてしまったようで、娘がすぐに身体を支えた。
「娘より言葉が滑らかだな。グリームワルトの公用語を学んだのか?」
「いえ……精霊魔法を習得すると、相手の精神に感応して、意志の疎通をすることができるようになりますので。この子はまだ習いたてですので、少したどたどしいですが」
「母様、よそものにそんなことは教えなくていい」
「助けていただいた方にお礼も言えないような娘に育てた覚えはありませんよ、アリサ」
「っ……で、でも、神域、入った……神様に捧げる果物、勝手に食べた」
元竜皇が、果実の木の辺りに人が入った気配があると言っていたのはそういうわけだったのか――俺に果実を渡した当の本人は、台地の上の森からまだ姿を見せず、こちらの様子をうかがっている。
「あ……シロガネ様! 鬼狗たくさん、ご無事だったですか!?」
白い狼がゆっくりこちらに歩いてくる。アリサと呼ばれた娘は、その姿を見ると恐縮して頭を下げる。
シロガネというのが、この狼の名前なのだろうか。そして他の灰色の狼たちは、シロガネの仲間ではなく敵であるらしい。
『縄張り争いでもしておるのかのう。弱肉強食の世じゃからな』
(この母娘は、白い狼を崇拝している。灰色の狼――というか狗たちとは敵対していると、そういうことなんだろうな。しかし、オニイヌか)
その名前からすると、『オニ』に飼われているということが想像できる。灰色の狗たちを支配している親玉がいるとするなら、それを叩かなければ、白い狼はまた狙われるということになる。
しかし、この人たちの信仰対象と知らずに白い狼を吹き飛ばした元竜皇は、とんでもないことをしてくれたことになるが――大事にならなくて良かった。噛まれるくらいの報復は、甘んじて受けてもらいたい。
考えているうちに、アリサが俺のことを怪訝そうに見ている。その視線は、俺の胸のあたりに注がれていた。
「……黒い服は、不吉。胸も、膨らんでない。おまえ、何かおかしい」
「ア、アリサ……申し訳ありません、娘が無礼を申し上げまして。この子はまだ村の外に出たことがないので、男性を見るのが初めてなのです」
「そうなのか……女しかいない村というのもあるというのは、ただの空想話じゃなかったんだな」
傭兵仲間が酒飲み話に、そんなことを言っていたことがある。「こんな話を知ってるか?」から始まる奇想天外な話はほとんどが作り話だと言われていたが、実は本当のことも含まれていたということになるのか。
美人しかいない、女だけの村。そこでは精霊が子を授けてくれて、男が生まれることがないのだという――そんな馬鹿なと笑ったものだが、男がいない村ということは、そういう可能性もありうる。いや、さすがに突飛な発想だとわかってはいるが。
「俺はまだここに来たばかりなんだ。できるなら、この台地の辺りで定住したいと思ってるんだが……君たちの村の神域だというなら、別の空いている場所を探すよ」
「い、いえ……神域というのは、このシロガネ様のお住まいという意味なのです。そのシロガネ様が、あなた様に最大の礼を尽くせと仰っておられる。お姿をお見かけするだけでも稀なことだというのに、あなた様には心を開かれているご様子。それは、鬼狗を退治してくださったからなのでしょうか……」
結果的にそうなったというだけで、母親のほうが恩義に感じすぎているように思うが、白い狼――シロガネが俺に近くにやってきて付き従うようにお座りをするので、ますます恐縮されてしまう。
アリサの方はシロガネを見て目を見開いている――こんなに懐くものなのか、とでも思っているのだろうか。しかし彼女たちからすると崇拝対象でも、俺には人懐っこい動物にしか見えない。
「つまりシロガネと一緒に暮らすなら、俺はここにいていいってことか?」
「は、はい、勿論でございます。神域の森の中には古いお社がございますが、そこは寝泊まりできるほど広くはございませんし、元は神狼様への供物を捧げる場所です。ですので、住んでいただくというのは……」
「祭礼に使う場所なら、雨風を凌ぐために使うのは礼を逸しているな。ありがとう、もし先にその社を見つけていたら、これ幸いと利用していたかもしれない」
台地はかなり広いので、俺たちが探索したのはごく一部のみだ。元竜皇が空から見た感じを報告してくれたが、人口千人程度の集落が余裕で収まりそうなくらいの広さがある。
俺が社に住んだりしないと言ったからか、アリサが警戒を緩めてくれる。瞳は鋭いままだが、敵意はずいぶんと和らいだ。
「……そう。シロガネ様のお社、供物をお捧げする以外、誰も入れない。でも鬼狗、関係なく入ってくる。だから村の戦士たち、退治する」
「そういうことなら、鬼狗については俺が対策を考えよう。見ての通り、戦闘になってもまず危険はない」
「異国の方は、とても強い魔法を使われるのですね……私たちは生活に使う火や、飲料水を浄化する魔法などしか使えません。光の魔法は、失われた精霊のみわざと言われているのに、あなた様はどうやってお使いに……?」
雷の魔法は、よく光の魔法と間違われる――全く違うものなのだが。
俺は生まれながらに、雷精霊の力を借りることができた。雷精霊の力を引き出す呪文については、傭兵ギルドの教官が貴重な古文書を探してきてまで、俺に教えてくれた。優秀な傭兵となり、傭兵ギルドに貢献するための教育の一環ではあったが。
教官に挨拶はしていないが、会えばおそらく俺は叱られることになるので、怒り過ぎで寿命を縮めないためにも会わないほうが賢明だろう。
「ほとんど戦闘にしか使えない魔法だ。むしろ、生活に使う魔法を今から学びたいと思っているくらいでな」
そう言うと、母娘は意外そうな顔をする。生活という言葉が俺の口から出てきて、心底意外に思っているようだ。
「それだけお強い方が、なぜこのような場所に来られたのですか……?」
「戦うだけじゃなく、別の生き方を探してみたくなってな。作物を自分で育てたり、罠で狩りをしたりなんかもしてみたいと思っている」
「……戦士は、戦うこと、仕事。強いのに、畑仕事をしたりするのは変」
「そうかもしれないな。だが、戦いはもう十分に経験した。ずっと戦いに身を置いていると、違うこともやりたくなるんだ」
それでもアリサは納得がいかないという様子だった。彼女の年齢は見た目からすると十代の前半といったところだが、戦士としての精神性はすでにしっかりと形成されている。
「君はアリサといったか。強くなりたいという目をしてるな」
「私は、村の戦士だから。シロガネ様と、村のみんなを守る。だから、強くなる」
「まだ、鬼狗と戦うのは早いと言っているのですが……親の贔屓目かもしれませんが、この子は弓の才能では、村の子供達の中でも飛び抜けています。早く一人前になりたいという思いが強いのでしょう」
「私、もう一人前。もっと戦って、みんな安心して暮らす。だから頑張る」
戦士として最も重要な資質、それは勇気だ。アリサはすでに、戦士たりうる勇敢さを持っている。
しかし今のままでは、先ほどのように複数の鬼狗に囲まれたとき、弓だけでは応戦しきれずに大怪我をするかもしれない。
母親もそれを心配している様子だった。ならば、村で畑の作り方などを教わる代わりに、俺には支払うことのできる代価がある。
「ええと……アリサのお母さん、まだ名前を聞いていなかったな」
「っ……し、失礼いたしました。私はリシェルと申します。あなた様のお名前は……」
「俺はクロード・ベオルクスという。リシェル、一つ頼みたいことがある。村長の許可が降りたらでいい、俺を君たちの村に連れていってくれないか」
「はい、勿論でございます。シロガネ様に選ばれた護人の方に対して恐れ多いことと思いましたが、村長にクロード様のことをお話すれば、きっと村を挙げての歓待を……」
「い、いや……そこまではしなくていい。ただ、挨拶をしたいだけなんだ。友好的にやっていきたいと思っているんでな」
目を輝かせるリシェルは、アリサの母親といっても二十代半ばに見える容姿で、俺からすると若い娘であることに変わりはない――向こうからは、俺のことも年より若く見えるのだろうが。
アリサがふう、と息をついている。それは呆れたわけではなく、緊張が解けたからということのようだった。
シロガネが歩いていき、アリサの顔を見上げると、アリサは一歩後ろに後ずさり、何かを我慢するようにしている――やはりもふもふとした獣は、神聖な存在でも触りたくなるものなのだろうか。
『わらわのことを忘れるでないぞ。留守番をしておくかわりに、ちゃんと美味しそうなものを持って帰ってくるのじゃぞ』
(ああ、分かった。長居をするつもりはないが、シロガネと待っててくれ)
『獣にだけ名前があるというのも、何か負けた気分になる。おぬし、何か名前を考えておいてくれぬか。わらわでは、人の耳になじむ名前を思いつかぬ』
思わぬ宿題を与えられる。名付け親になったことなどないので、急に言われても全く思い浮かばない。
リシェルたちの村で命名占いでもできないだろうかと思いつつ、俺は留守番を元竜皇とシロガネに頼んで、台地を離れ、麓の森を抜けた先にある、川沿いの村に向かうこととなった。