プロローグ・2
「……クロードおじさま、私のことが嫌いなのですか……?」
おじさまと言われて、俺は笑う。生きている年数なら確かにそう言われてもおかしくはない。
彼女は俺をまだ『人間』として見てくれている。自分の身体を差し出すことで、俺をより人間らしい方向へと引き戻そうとしてくれているのだ。
俺は彼女の手を取り、服の襟を閉じ、リボンを元通りに結ばせた。温かく柔らかい手に触れても、彼女を強く意識することはなかった。
「俺はただ仕事をして帰ってきただけだ。仕事を通じてのパートナーが、そこまで俺に尽くす道理はない。まして、セレスほどの美人なら、俺を選ばなくてももっといい男が見つかる」
「……おじさまは、私のことを子供のままだと思っているんです。私は、本当は、初めてお会いしたときからずっと……」
その気持ちに気づいて知らぬふりをしたのか、病的な鈍さで知らずにいたのか。今となっては、確固とした形で思い出すことすらできない。
「気持ちは嬉しい。だが、俺を労うためにそこまですることはないんだ」
「労うため……そうかもしれません。傭兵と、ギルドとの間を取り持つ担当官は、そういった関係を持つことが当たり前に行われています。でも、私は、クロード様だから……」
「ありがとう。そう思って貰えるだけで、十分だ」
セレスの瞳が揺れた。泣かせてしまうだろうかと思った――だが、彼女は何も言わずに、服を整え直した。
「……この流れで言うと、俺が傭兵稼業に嫌気がさしたように聞こえるかもしれないが。そろそろ、いつまでも後進のランカーの上に座り続けるわけにもいかない。ランキングから、俺の名前を消してもらってもいいか」
「っ……そ、そんな……世界一位の傭兵になってから、在位期間が今日で2572日目。引退まで、ずっと一位に居続けられると言われているのに、なぜ……」
「魔竜を二十体倒したくらいから、考えることはあった。この世界の人々は俺に頼りすぎている。本当なら、一人の人間がそこまで全世界から頼られる状況は正しくないだろう。傭兵に金さえ払えばいいと思って、自国の軍を強くしないことによる問題も出てきている。ずっと言ってるが、俺は金に興味がない。つまり、傭兵と依頼者の関係は、とうの昔に成り立たなくなってしまっているんだ」
興味があるとすれば、希少な魔法の力を持つ道具などか。しかしそういったものが都合よく報酬に選ばれることも多くはなく、宝石や、その国の貨幣で払われることもある。
貰った金を使いたいとは思わない。俺には何かが欲しいという強い執着がない――まず俺が、少しでも人間の価値観について興味を取り戻すためには、地位も名誉もなく、金も家も用意されていない段階から、すべてを再始動する必要があると思う。
人間らしく生きるとはどういうことか。それを思い出さなくては、俺はそのうち人間ではない何かになって、理由なく世界を滅ぼそうとするかもしれない。
「……ですが、2位より下の方々は……絶対に、クロード様の代わりをすることができません。また魔竜が現れたとき、傭兵ギルドに依頼が持ち込まれ、対応することができなかったら……」
地図から幾つかの国が消える。魔竜とはそれほどの厄災だ、俺もよく分かっている。
それでも、自分の考えを通してすべてを振り切ってギルドを去る――そうしたら俺は竜狩りの英雄ではなく、人類を見放した巨悪とみなされてしまうのだろう。
だが、それは俺以外の傭兵が、魔竜に全く手も足も出ないままでいていいということではない。
「……そうだ、この手があったか。このアマツガミの指輪は、この世界のどこにいても、アマツ笛の音色に反応するという話だ。もしギルドでどうにもならない事態が起きたら、そのときは笛で俺を呼んでくれ」
セレスはテーブルの上に置かれた笛を見やる。陶器か、何かの動物の角か――白くなめらかな素材でできた笛で、魔力を通す金属が組み込まれている。演奏することである種の魔法を発動させる、魔楽器というものだ。
俺は笛を手に取り、セレスに持たせる。彼女は頷き、その青い瞳を細めて微笑んだ。
俺の前で、こんなふうに笑ったのは初めてのように感じた。いつも静かな佇まいだが、どこか緊張していて――それこそ、傭兵と担当官の関係を厳格なものとして考えていたのは、今日までずっと彼女の方だったようにも思う。
「この、笛で……もしそうしていただけるのなら。ギルドの総裁には、私から、クロード様の引退についてお伝えさせていただきます」
「ああ、頼む。だが、繰り上げで1位になるっていうのも、2位のやつは良しとしないかもしれないな」
「はい、そう思います。ですから……クロード様は、『名誉一位』です。もし誰かがクロード様と同等の功績を上げたときには、現役一位を授与することになると思います。まず、ありえないことだと思いますが」
「……ギルドの人間が、そんなことを言っていいのか?」
セレスは楽しそうに笑う。彼女の自然な振る舞いを見ているうちに、俺は気がついてしまっていた。
人間らしさを取り戻すことは、さほど難しくない。
なぜなら俺は、こんなふうにセレスが笑うのなら、さきほどの誘いに乗っておきたかったと思ってしまっているからだ。
「……駄目ですよ、クロード様。一度拒まれてしまったら、次に勇気を出すまで、充電しないといけないんですから」
「そ、そうか……じゃあ俺の雷の魔法で……というのはあんまりな冗談か」
「ふふっ……クロード様の雷にでしたら、一度は打たれてみたいという思いはあります。変な人だと思われてしまうかもしれませんが」
愚にもつかない冗談をここまで無条件に受け入れられて、彼女にマイナスの印象を抱く男など、この地上に存在するのだろうか。
それでも俺は、記憶が蘇るほどに、自分が見た目よりもずっと長く生きていること――そして、出会った頃のセレスの姿を思い出さずにはいられなくなる。
俺は一瞬だけ彼女と引き合わせてくれたギルドに感謝し、同時に呪った。
彼女を待つ運命から救う役目を、ギルドから俺に命じてもらいたかった。俺は世界を救いたかったわけではなく、誰か一人だけを守れるだけでも良かった――それが、いつからかこうなってしまっていた。
「一度、音色を試させていただきます。笛の吹き方は嗜んでおりますので」
彼女は笛を含めて、3つの楽器において世界に通用する奏者だという。世界一の受付嬢と呼ばれるためには、あらゆる作法と、武芸と魔法にすら通じる必要があり、ランカーとして換算すれば五本の指に入る実力だという――つまり彼女がいくら美しく、多くの男に求められても、ただ強いというだけでは手に入れることはできない。
横笛の唇を当てる部分を布で拭き取ると、彼女は前にも持ったことがあるかのような自然さで構え、音を奏で始めた。
――それは偶然か、それとも彼女が俺のことを知っているからこそなのか。
忘却の彼方に霞んだ、俺の祖国の歌。いつなのかは覚えていなくても、必ず聞いた音色。
俺は目を閉じ、セレスの演奏に耳を傾けた。先ほど受け取り、手の中にある指輪が、笛の音に共鳴して反応している――人の手で作った魔道具ではなしえないことを、この笛と指輪ならば実現することができる。
俺は世界を見捨てたわけではない。人間として生きるために、一度今の場所を離れるだけだ。
目を開くと、笛を吹くセレスの頬に涙が伝っていた。
俺は輝く指輪を指に通すと、この国で最も高い場所から見える光景に視線を移した。
グリームワルトは大きく、技術が発達しすぎている。俺が行くべきは、誰も知らない、まだ世界地図に載っていないような辺境――あるいは、秘境と呼ばれるような土地だ。
魔竜との戦いで劣勢となったときに使おうと思っていた、古代の秘宝――自分で指定できないどこかに転移することができるアミュレット。それを俺は、胸に手を入れて取り出す。
席を立ち、窓に近づく。ここから見える国の姿は、世界全体からすると小さく、限られた範囲でしかない。
「クロード様」
笛の音色は止まっていた。振り返ると、席を立ったセレスが俺を見ていた。
彼女はただ深く頭を下げ、そして顔を上げると、笑顔を見せた。
「行ってらっしゃいませ。私たち傭兵ギルドは、いつまでもお帰りをお待ちしています」
「……ああ、一つ言っておきたいんだが」
「はい……?」
俺が何も答えずに行くかと思っていたのか、セレスが目をかすかに見開く。
「俺がいないうちに、君が誰かに言い寄られたら。そいつの腕試しをさせてもらってもいいか」
保護者かなにかのつもりか、と自分で言いたくなる。だが、俺も自分で思っているよりは、人間らしさを失っているわけでも何でもなかったらしい。
流されて戦うことに疲れただけ。長くなるのか、それとも短いのかは分からないが、引退して暮らすことで、前向きな気持ちを思い出せるといい。
「クロード様に勝てる人なんて、この世界にはいません。だから私は、ずっと一人でいるということになりますね」
「……そうか。いや、喜ぶべきことではないんだろうな。だが……」
「次にお会いするときは、覚悟していてください。私も、なりふりをかまっていられなくなりましたから」
「そいつは怖いな……俺も、うかうかしていられないな」
セレスは笑っているのに、頬に涙がさらに伝う。
ここで彼女を受け入れて、一緒に暮らす。そんな未来を想像する――満たされているが、そこには何かが欠けている。その何かを探さなければ、幾つになっても馬鹿な俺は、また出奔したいと考えてしまうだろう。
これで終わりではない、始まりだ。日々のありふれたことに喜びを感じるくらい、俺が普通の人間らしくなれたときは、その時は――。
「――クロード様っ……!」
転移する間際に、声が響いた。
案ずることはない、俺はどこにいてもすぐに駆けつける。その笛の音が聞こえたら、世界の果てからでも。