ええっと、顔ですね!
そもそもなぜ、俺は適当ながらも魔方陣を描き、彼女を召喚するに至ったのか。
まずは、そこから語らなければならないだろう。
……遡ること七日前。
週五で入っている書店でのバイトを恙無く終えたあたりから、思えばその日はなんだかおかしかった。
夕まぐれの時間帯。アルバイト先である駅前の書店・〈黒部書店〉を出ると、先ほどまで同じ空間で働いていたバイト仲間、宇奈月あえかが、店の前に停めてある自らの自転車を目の前にして、なんだかあたふたしていた。途中から見なかったから今日はとっくにあがっていると思っていたのだが、どうやら違ったらしい。
いつもならまず自分から他人に話しかけるようなことはしないのだけれど、その日は、どうしてか彼女に声をかけた。
「お疲れ様です。宇奈月さんも今あがりですか」
「あっ、江口さんだあ。って、仕事以外で江口さんから話しかけてくれるなんて、実は初めてじゃないですか!?」
彼女は俺を見るや、わ〜! っと手を合わせて破顔した。
「そんなこと……いや、あるかもですね、すみません」
とうなじに手をやる俺に、ですよ〜、とぽわぽわ笑う宇奈月女史。
宇奈月あえか。
都内のお嬢様大学に通う一年生で、ダークブラウンの肩程までのセミロングを後ろ手にリボン付きの瀟洒なバンダナで纏めているのがトレードマーク。ザ・大和撫子という感じの柔和な顔立ちで、そして……胸が大きい。
……いや、まあ、それはいい。
「それで、何か困ってるんじゃないですか?」
「そうでした! わたし、自転車の鍵をなくしちゃったみたいで……」
「ああ、なるほど……それで、無くした場所に心当たりとかあります?」
「いえ……あ、もしかしたら」
「お、あるんですね」
「あ、いや、でも——」
いつもなら絶対に、こんなことは言わなかっただろう。だが、何故だかこの日は、なんとなくそのまま彼女を放って帰ることが出来なかった。
「場所、教えて下さい。俺も、探すの手伝いますよ」
* * *
ガラガラガラ……と、重いドアの開く音。そして、むんっと漂う古書の香り。
黒部書店の閉架書庫に、このとき俺は初めて足を踏み入れた。
「うっわ……」
見渡す限りの書棚と、そこに所狭しと並べられた古書、古書、古書に、俺は思わず声を漏らしていた。それに宇奈月が苦笑する。
「すごいですよね、これ。店長のお父さんが古書店をやってたみたいで、その名残らしいです」
へえー、と相槌をうちつつ、なるほどと得心する。
あの本好きの店長のお父さんなら、古書店を営んでいたとしてもなんら不思議ではない。
「それで、ここにあるんですか?」
「はい、多分……。今日、店長に頼まれて途中からこの閉架書庫の整理をしてたんです」
「ああ、だから途中から姿が見えなかったんですね」
「おっ。江口さん、わたしがいないことに気付いてくれてたんですねえ。嬉しいなあ〜」
「いや、そりゃ気付くでしょう……」
前々から思っていたが、宇奈月はどうにもつかみ所が無い人物だ。こちらからはなしかけておいてなんだが、普段仕事上のやりとりしかしないような相手に、どうしてこんなにもフランクに話しかけられるのか。
……いや、ただ俺のコミュニケーション能力に難があるだけなのか。
そう結論づけて自分が自分でいたたまれなくなり、それを払拭するように言った。
「じゃあ、探しましょうか」
「はい。じゃあ、私はこっちを」
書棚を挟んで、床と、棚や本の隙間なんかを主に探していく。
そして、しばらく黙々と鍵を探していると、彼女が、ふいに「そういえば」と口を開いた。
「〈魔法使いと騎士の娘〉——わたし、あれ大好きでしたよ」
(はあ——!?)
突然のことに、心臓が跳ねた。
そして俺は、彼女が偶然、ただの戯れに、雑談としてその名を口に出しただけであることに一縷の望みをかけて言った。
「へ、へえー。どんな本なんです?」
だが、
「やだなー、もう。自分の本なんだから、自分が一番良く知ってるじゃないですか」
ね、シエロ先生。と、宇奈月は恐らく微笑みながら言った。もう、確定だった。つまり、
彼女、宇奈月あえかは、俺、江口耕介が作家の〈シエロ〉であることを知っている——。
「い、いつから……」
そう掠れる声を出す俺に、彼女は「うーん」と少し悩んだ素振りを見せて、
「最初からですね」
と答えた。
「なんで——!」
思わず叫んでいた。そして彼女は、今度はさらっと答えた。
「ええっと、顔ですね!」
「顔!? そんなはず——」
そこまで言って、(いや——)と、忘れかけていた——正確には忘れようとしていた——ある記憶を嫌々ながら掘り起こす。
一度だけ、俺は作家としてその顔を読者の前にみせたことがあった。デビュー作が刊行されるにあたって、俺は一度だけ、サイン会を行っていたのだ。
そしてそのサイン会で持ち前のコミュニケーション能力の低さが露呈し、来てくれた人とろくに喋ることもできず、ばっちりトラウマになって、それ以来サイン会も、ましてやメディアへの露出も強く拒否し続けてきた。
「まさか、あのとき——?」
俺の問いに、
「そうですよお〜」
と、彼女は事も無げに言う。そして、
「いや〜、あのときの江口さん、顔真っ赤にしてろくに目も会わせてくれなかったですし、覚えてなくても仕方ないと思いますよ〜」
「やめてーーーっ!?」
俺はトラウマに塩を塗込められ、悶絶しながら頭を抱えた。
それをみて彼女は苦笑し、
「だから、ここに江口さんがバイトとして入ってきたとき、めちゃくちゃびっくりしてたんですよ。顔、かわってないな〜って。でそのあと、あ、江口だからシエロなんだ〜、安直〜って。
それで、いつか江口さんの方から気付いてくれるかなーとか、少しは思ってたんですけどねえ〜」
と、少し唇を尖らせる。かと思えば、
「今日も、やっと気付いてくれたのかなって期待してたんですけど、そういうわけじゃないっぽいし、一向に気付いてくれる様子も無いので、もう自分から言っちゃいましたよ〜。こういうの、本当は男の子の方から気付かないと〜」
と、いたずらっぽい笑みを浮かべる。
「ご、ごめんなさい……?」
「いや〜、この罪はラーメン一杯じゃあ返しきれないですよお? せめてマシマシじゃないと〜」
そのいかにも大学生っぽい返しに、俺もついに苦笑する。
それに彼女は、「あははは、冗談ですよ〜」と、和やかに笑う。
その笑顔が開けた窓から差し込む夕日に映えて、俺は思わず顔を背けてしまう。大丈夫だろうか。俺、今、どんな顔してるんだろう。表情のコロコロ変わる年下の彼女に、俺は翻弄されっぱなしだった。
そして、背けたその視線の先に、壁際の書棚の下で夕日を赤く反射する何かと、その近くに落ちていた一冊の本を見つけた。
夕日を反射していたそれは、やはり鍵だった。そしてその本は、
(無題……?)
とりあえず、鍵を彼女に渡す。「はい、これ、そこに落ちてましたよ」
「わ〜! ありがとうございます〜! ……って、なんですか? その本」
「鍵の近くに落ちてたんだけど、宇奈月さんのじゃないですよね?」
「違いますね〜」
「ふうん……じゃあやっぱり、ここのものなのかな」
だがなんとなく、確かに古びてはいるものの、その本には他の本とは違う何かがあるように思えてならなかった。が、そんなそこはかとない違和感も、
ですかね〜。でも、私が片付けてたとき、そんなのあったかなあ……と、下唇に人差し指をやる宇奈月女史をみてどこかへ消え去っていった。無意識なのだろうが、だからこそあざとい。
「ま、まあ、とりあえず目的の物は見つかったわけだし、目的達成ですね」
「ですね〜。いや〜、本当に、ありがとうございました、シエロせーんせ!」
「いや、それ、仕事中とか本当にやめてくださいね……」
「え〜どうしようかな〜」
などといいつつ、俺と彼女は閉架書庫から出る。書庫の中ではなかなかわからなかったが、夕日も落ちかけ、そろそろ夜の帳が降りようとしていた。
そして彼女ははっとして携帯を確認し、
「いけない、もうこんな時間……。ごめんなさい、わたし、急いで帰らなくちゃいけなくて……」
「ん、大丈夫ですよ。閉架書庫の鍵は俺が返しておきます」
「ほんと何から何まですみません〜」
と彼女は頭を下げ、「あ、あと」と言って、
「これ、私のラインのIDです。よければ連絡くださいねえ〜」
と、俺の手に、胸ポケットに差していたマジックで、ラインIDを流麗な書体で書いて「ではまたバイトで〜! それから、次からは敬語じゃなくていいですから〜!」と去っていく。
去り際の彼女の頬が平時よりも赤いように見えたのは、夕日だけのせいではあるまい。……というのが俺のただの穿ちすぎなのかどうか、しばし立ち尽くして、俺はその答えの決して出ない問いを、本気で思案した——。
* * *
鍵を返しにいく途中、俺は手に、あの無題の本を持ったままなのに気付いて、再度閉架書庫にきていた。そして、その本を書棚に戻そうとした所で、書棚には本がすでにきっちりと詰められていて、とても入れられる隙間など無いことに気付いた。
(あの娘、もの凄く真面目で、几帳面だよなあ……)
普段の仕事ぶりからも、それが窺えた。そして、それが俺を、ある一つのことに思い至らせる。
(そういえばあの娘、俺の第二作目には全く触れなかったな……)
几帳面で真面目な彼女なら、あの流れで二作目についても何らかの感想を述べても不思議ではなかったのではないか。むしろ二作目こそ、直ぐに打ち切りになった分、仮にポジティブな感想を持っていたとしたら、そのことを伝えて来るのではないか。つまり、彼女にとっても二作目は、俺に感想を伝えるに値しない——いや、伝えることが憚られるものだったということなのではないか——。
そこまで考えて、俺はため息をつく。
(自分の作品への肯定的反応を勝手に期待して、そうならなかったからって勝手に落胆するなんて、控えめに言って最低だ——)
そして同時に、あることを決意した。
(絶対に、どんな手を使ってでも、次はあの娘にもう一度面白いって言わせられるような作品を書く——!)
そう心に誓った俺は、ガッツポーズと共に手に持つ本を眼前に片手で持ち上げた。
すると、その勢いでその本のページがぱらぱらとめくれ、俺の目に飛び込んできた。
そういえば何が書いてあるのだろう——と意識を向けると、本の中身が情報としてようやく認識される。
その本には、幾何学的な模様や図が、何種類も、ひたすらに、何ページにもわたって書き連ねられていた。
(なんだ、これ——これはまるで——)
そう、それらはまるで、ファンタジーで言う所の、〈魔方陣〉だった——。