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お帰りなさい。シエロ先生

「おわ……った――!」


 11月1日。締め切りの2日前。俺はようやく脱稿の段を迎え、その瞬間、力尽きたように床に大の字になっていた。

 気づけばバイトだって、もう二週間近く休んでいる。

 そりゃ、一人で叫びたくもなりますわ。わかるわかる。


(さて……)


 昼夜の感覚などとうにないが、外の明るさを見るにまだ夕方といったところだろう。

 むくりと上体を起こして壁に掛かった時計を見れば、時刻は17時を回ったところだった。


(多分、まだ会社にいるよな)


 そう思ってメールを送ると、思った通りすぐに返信がある。よし、まだいるらしい。

 その返事を見るやいなや、俺はメールで書き終えたばかりの原稿のデータを送り、急いで支度をして家を出た。

 電話ではなく直接会って、総曲輪さんの率直な感想を聞くために。



 * * *



「失礼します」


 そう言いながら扉を開けると、カランコロンカランというカウベルの音が子気味よく店内に木霊した。


「お待ちしていました」


 その音に、カウンターの奥でグラスを磨いていた妙齢の女性、総曲輪庵が顔を上げる。


「さあ、どうぞこちらへ」


 勧められるがままに、カウンター席へと腰を下ろす。

 総曲輪からのメールには、『落ち着いてお話ししたいですし、出版社ではなく喫茶店へ。』と記載されていたため、こうして俺はあの日以来となる彼女の営む喫茶店へと、もう一度足を運んでいた。

 芳醇なコーヒーの香りが満たす店内は確かに、落ち着いて話すにはうってつけの空間といえよう。

 ……ただ、いつもは超然と、そしてきっちりスーツを決めている印象の強い総曲輪が、この場所では、ワイシャツの襟を外しバリスタエプロン着用というギャップ全開な出で立ちのためなんとなくドギマギしてしまうから、結果的にとんとんだと思う。


「――? どうかされましたか?」


 と、気づけば何も言わず無遠慮に眺めてしまっていたらしい。


「ああ、いえ、なんでも」


 慌てて取り繕って、煩悩を振り払うように本題を切り出す。


「……それでその……もう、読んでいただけましたか?」


 その問いに、総曲輪はふっと微笑んで、「まあまずは、コーヒーでも淹れますね」と言って、ハンドミルにいくつかの種類の豆を手際よく入れつつ、コリコリと挽いていく。こんな店を経営していることからなんとなく想像してはいたが、この人はバリスタの資格とかも持っているのかもしれない。だとしたら万能すぎませんかね。

 そんな呆れ半分な想像を膨らませていると、ハンドミルのハンドルを回しながら、総曲輪がおもむろに口を開いた。


「読みました」


 その一言が、俺の胸をきゅっと締め付ける。心臓が、早鐘を打つ。

 また、失望させてしまっていたらどうしよう――。

 そう思うと、続きを聞くのが、怖い。

 ……そう。これまでは、ずっとそれだけだった。

 結果を意識しすぎていた頃は、その結果を聞くのがただこわかった。なぜなら、そこで認められなければ、その瞬間、自分のしてきたことがすべて無駄だったように感じられてしまうから。

 だけど、今は違う。今は、怖いのと同じくらい、総曲輪の感想がききたいとも思っている。

 なぜなら今回は、自分が心から楽しみながら書けたから。

 例え結果が付いてこなくても、何も残らないわけじゃないから。少なくとも、自分だけはこの物語を、楽しんで書いたと自信を持って言えるから。

 そしてそうやって書いた物語は得てして――


「すごく、面白かったですよ」


 他人の心にも、やっぱり響くのだ。


「よ、よかった……」


 俺は緊張の糸がほどけ、溶けたようにカウンターに突っ伏す。

 それをみた総曲輪は、ふっと笑う。いや、この人絶対わざと焦らしたよね。

 そんな俺の心を読んだように、「コーヒーも少し蒸らすのがコツですから」と柄にもないウィンクを決めてくる。なんなんだ今日の総曲輪さんはなんかかわいいんですけど。


「……特にラスト。あれは、白之先生を意識しましたね――?」


「あ、ばれましたか」


 総曲輪がいうように、ラストの展開は、白之の鞍替え展開を読んでから急遽付け足したものだった。


「主人公と女騎士がともに元の世界へ戻って、監修時に聞いていた内容を追体験していく展開――。あの辺りからの描写は、かつての……いえ、それ以上の躍動感と迫力、そしてむせかえるようなファンタジーらしさと熱量がありました」


 総曲輪のその言葉に、俺は今度こそ胸を撫でおろした。

 正直そこが一番心配だったのだが、どうやら読み手を置いてきぼりにはせずにすんだらしい。

 不意に、総曲輪から「先生」と声がかかる。


「なんですか?」


 カウンターに突っ伏していた顔を上げる。

 するとそこには、いつもは決して見せない、慈しむような表情を浮かべた総曲輪がいた。


 ……この人には、何度もなんどもボツを言い渡されてきた。

 吐き捨てるように、才能が枯れていると切り捨てられてきた。

 企画書の提出後、総曲輪から結果をもらうのがトラウマになりかけてすらいた。

 正直、思わないところがなかったわけではなかったし、ずっと心中穏やかでいられたわけではなかった。

 だけど――


「よく、ここまで折れずに頑張りましたね。厳しいこともたくさん言いましたし、つらく当たったこともあったでしょう。それを水に流せなんて言いません。むしろ、あの日々を忘れてもらっては困ります。これからも、しっかり覚えていてください。……でも先生。今先生は、あの日々を乗り越えて、ようやくまた、あの頃に持っていたものを取り戻しましたよ。ねえ、先生。……書くのは、楽しいでしょう?」


 だけど――


「――っ! ……はい。……何よりも、どんなことよりも、やっぱり僕は、書くことが楽しいです」


 だけど――!

 今、彼女が浮かべる笑顔は、その言葉は、どこまでも慈しみに溢れていて――


「おかえりなさい。シエロ先生」


 これまでの全てが、俺のためを思ってのことだったのだと、どうしようもないくらいにわかってしまうのだ。

 そのことが、俺の胸をどうしようもなく締め付けて、暫くの間、目からあふれる涙を止めることを許さなかった。総曲輪はそんな俺に、腕を回してくる。


「ありがとう、総曲輪さん……本当に、ありがとう……」


 彼女の腕の中でそう呟きながら、俺はしばらく、泣き続けた。



 * * *



「じゃあ、そろそろ帰りますね」


 あの後実に10分ほど(もっと短かったかもしれないけれど、俺にはそれくらいに感じられた)泣き続け、ようやく平静を取り戻した俺は、若干の気恥ずかしさと相当な気まずさから、そそくさと退散を宣言する。

 あーあ、これはしばらく総曲輪さんに頭があがりませんわ。


「はい。気を付けてお帰りくださいね。この原稿は、このまま企画の主催に回しておきます」


「よろしくお願いします。……結果がどうあれ、世に出るのが楽しみです」


「そうですね。結果だって、きっといい結果になると思いますよ。それに、今回の企画は、何もお二人だけのものではありませんしね。特別枠だってありますし」


 何気なく言った言葉だったようだが、初耳だった。


「特別枠、ですか?」


 そう訊ねると、総曲輪は珍しく「あ」と一瞬困ったような表情になった。そして無理やり、


「あー、まあ、そこは公開されてからのお楽しみということで」


 と締めくくってしまう。そうなると、これ以上食い下がるのは意地悪というものだろう。


「まあ、そういうことでしたら。……じゃあ、公開楽しみにしてます」


「はい。では、また授賞式で」


 総曲輪のその言葉に軽く礼を返して、俺は店から出る。すっかり外には夜の帳が降りていた。雲一つない、星がきれいな夜だった。

 俺と白之が参加する短編企画には、他にも数名の作家の参加が決まっている。それはもちろん知っている。しかし、


(特別枠、ねえ――)


 いったい誰なのだろうと夜空を見上げながら思いを馳せるも、答えは出ない。

 俺の目にはただ、今夜はひときわ大きく見える満月が、煌々と映るだけだった。

 そうしているうち、もう本格的に冬が迫っていることを予感させる冷たい風が頬を撫で、我に返る。そして、


「……帰ろう」


 そう呟きつつ、突っ伏したときに密かにスマホで隠し撮っていた総曲輪のバリスタエプロン姿に目に映す対象を変更して、その日は帰路についたのだった。

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