本物ですか?
『これはまるで、向こうの世界です——』
その言葉に、俺も、あえかも、何も言えないでいた。
ただただ呆然と、立ち尽くしていた。
その本が、まるで向こうの世界……? つまりそれは、そういうことなのか?
つまり、ソードが手に持つその小説の作者であり、俺の第二作目を打ち切りに追いやった新進気鋭のファンタジーノベル作家が、本物の、大魔導士〈シエロ〉だというのか——?
ソードはその本、〈魔法は誰も幸せにしない〉を胸に抱いて俺を見て、何かを言おうと口を一度開いて、そして、躊躇うようにして、ゆっくりと閉じる。
ソードの涙で濡れたその目は、真っ直ぐに俺をみつめている。
しかしその真っ直ぐな目には、信頼と同等の、もしくはそれ以上の猜疑心が同居していた。
この一週間、俺は彼女との生活を通して、ずっと彼女に対して後ろめたさを感じてきた。昨日はあえかにあんな啖呵を切ったが、だからといって人を騙し続けることに、なんの感情も抱かなかったわけではない。だが同時に、こう決めてもいた。
いずれ、俺がファンタジーノベル作家として再起できた暁には、きっと彼女に全てを打ち明けようと。謝ることはせず、全てはそのときの彼女の判断に、委ねようと。そしてその時までは、彼女のことを絶対に、幸せにしてやろうと——。
だから今回こうして、無理矢理外に出して家計に響いてでも普通の女の子としての生活の一端を垣間見てもらったのだし、多少強引にでも、ソードには同性の友人をつくらせたのだ。いつまでも俺とだけ過ごしていたのでは、彼女もいろいろと生きづらいだろうと、幸せに過ごすことは出来ないだろうと、そう思ったからだ。それは単なる俺の独りよがりで、エゴだ。だが、エゴでもなんでも、俺は彼女を、本当に幸せにしてやりたかった。その気持ちに偽りは無い。
そしてこの一週間、そして今日で、彼女が俺に対し、大魔法使いシエロとしてではなく、それとは別に、信頼のようなものを寄せてくれるようになったようにようやくだが思えてきたところだった。
……しかし今、そんな俺の思惑もむなしく、他ならぬ彼女自身の気付きによって、俺が彼女をたばかっていたその事実が、明るみになろうとしている。
……それはそれで、仕方の無いことなのかもしれない。
これが、俺に訪れた一つの結末なのかもしれない。
であるならば俺に残された道はただ一つだ。彼女の口から、それを言わせてはならない。
あなた、本当に、導師ですか——?
そんな言葉を、口に出させてはいけない。彼女はシエロを敬愛している。そんな彼女が、仮にも本人と慕った相手に、確信も持てぬままその疑念を口に出させることなど、あってはならない。
これ以上彼女に、何かを強いるわけにはいかない——。
「お、俺は……」
俺は、乾ききった口をどうにか開く。
そして、「俺は……実は俺は——」それを告げようとしたところに。
「あれ——? 綺麗なお嬢さんが涙していらっしゃるかと思えば、手に持っているのは、僕の作品じゃあないですか!」
どこか軽薄な口調と共に、一人の男が現れた。
「いやあ、こんな美少女を涙させるとは罪な作品だと思ってみれば……いやはや失礼致しました。まさか僕の作品だったとは」
俺と同い年くらいのその男は、ソードと、その手に持つ本に視線を向けながら、”僕の作品”と、確かにそう言った。
つまり、大ヒットファンタジーノベル、〈魔法は誰も幸せにしない〉の作者であると。
つまり、俺の第二作目を打ち切りに追いやった新進気鋭のファンタジーノベル作家であると。
(つまり、この男は——この男が——)
「お初にお目にかかります。僕、その本の作者の、〈白之絵巻〉と申します」
(この男が、大魔導士シエロ、なのか——?)
俺は驚愕し、ただその男の顔に目をやることしかできない。確かに、どことなく日本人離れした容姿にも見えなくもない。一目でブランドものとわかる質の良さそうなスーツに身を包むその男、白之絵巻は、その端正な顔に、いっそ不自然なまでに、ずっと柔和な表情を浮かべている。
(本当に? 本当にこの男が、そうだというのか——?)
ちらと視線をやれば、あえかもまた、驚愕に目を見開いていた。
だが、俺たちの驚愕はここで終わらない——。
ソードが白之絵巻に訊ねる。
「あなたが、この本の?」
「そうですよ。あ、名刺とかみますか?」
「この世界を、知っている——?」
「はい。僕が描いた世界ですから」
「あなたが、シエロ様ですか——?」
「……どうしてその名前を…………」
白之は一瞬、登場から一貫していた柔和な表情を崩し、利己的で打算的にも見える表情を窺わせると、しかしすぐに表情を戻して、
「ばれてしまったのなら仕方ありませんね。ええ、そうですよ。……どうです、お望みであれば、サインでもしましょうか?」
と言った。そして白之絵巻のその言葉に、ソードは、静かに言った。
「いいえ、結構です。ただ——」
ソードは言葉の合間に、俺を一瞬だけみた。
「ただ、私を、あたなのもとに置いていただけないでしょうか——」
その時の彼女の目はもう、俺を真っ直ぐにはみていなかった。
こうして女騎士は、俺の前からいなくなった。




