4 心と思考の差異
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「お墓って知っている」
サクラが突然このような話を振ってくることにはもう慣れた。そこには自分の知識を他人にひけらかしたいという傲慢な意志は含まれていない。
彼女とこの空き教室で時間を共にすることは、もう習慣と化した。サクラは常に学校内で一番の成績をとっていたし、俺もサクラには遠く及ばないが二番目の位置を保っていたから、先生は俺達がする大抵のことには目を瞑ってくれていた。
今も授業を抜け出してここに来ているのだが、何のお咎めもないだろう。
「知らない。なにそれ」
「人を葬る場所のことだよ。昔は、死者を燃やした後に残った骨を埋めていたんだ。埋められた骨が誰のものだったか分かるように、目印となる石や、木の下に」
家族のことを思い出す。正直昔のこと過ぎて、顔も覚えていないのだが。彼らの遺体は、都市の最高機関である研究省に引き取られた。何も珍しいことではない。
死者は都市のために何かしらの研究に用いられた後、研究省が処分するのが「普通」である。
「ふーん。なんのために」
「死者を弔うためだよ。土の下にあるのはただのタンパク質の塊で、そこには何の意志もないはずなのに。
死者に感謝して、祈って、想いを伝えようとするの」
ここでは、人の身体は死んだ時点で『物』だった。物に感情はない。感情がないものを相手に想いを伝えることは、何かの意味があるだろうか。ただの自己満足にはならないだろうか。
「その墓ってものは、死者のためじゃなくて生者のためにあるものみたいな気がするんだけど・・・」
「私もそう思う。死者を弔うこと自体が、生者に必要な行為であると思う。大切な人はもういないということを、心の髄にまで染み込ませて、自分に分からせるために。
それと同じ感情は今の私たちも持っている。昔の人と違うのは、そこに形のあるものが介在しているか、していないかだけ」
彼女の言葉は不思議な影響力を持っている気がする。細胞の隙間という隙間まで染み込んできて、全身に満ちていくような感覚。その言葉に無理やり人の心を縛り付けるような拘束力は感じられないのだが、何故か聞き入ってしまう。
「昔の人は『カタチ』があるものを大事にしていた。骨があって、石があって、文字があった。物や字にも想いが宿っていると信じていた。
この時代の人たちが聞いたら馬鹿にするだろうけど、私はその考え方がとても好き。たしかに死んでしまったら、意志のないただの『物質』になってしまうけど。
誰かに想っていてほしい。忘れないでほしい」
サクラは死ぬことを異様なほどに恐れていた。実際にそれを言葉にすることは少なかったが、一緒にいることでそれが分かった。
自分が世界から完全に消えてしまうことを、必死に遠ざけようとしている。彼女の異常な「生」への執着に、恐怖さえ感じることもあった。
「私が死んじゃったらさ、シキが私のお墓を作ってよ」
わざと明るい声でそんなことを言ってくる。人の感情を読み取ることが苦手なはずだったのに、どうしてサクラのことだけは分かるのだろうか。
俺はサクラが死んでしまうことなんて考えたくない。
「縁起でもない事言うなよ。大体、死んだら骨も全部研究省に送られるだろ」
「骨がなくてもいい。そこら辺に転がっている石で作ってくれればいいからさ」
都市内に石が転がっているところなど見たことがないのだが。どうせサクラが死ぬのは何十年も先の話だ。その頃には今結んだ約束のことなどお互いに忘れているだろう。
「わかった」
適当にそう答えた。
サクラの様子は少しずつおかしくなっていったような気がする。彼女は、俺がなぜ死にたいのかを知りたがっていた。
多分サクラは、自分の死の恐怖心を和らげたかったのだろう。相反する考えを持つ俺の思考に同調することで。そのために俺に付き纏うようになったのかもしれない。
しかし、先に同調してしまったのは俺の方だった。彼女と一緒に居て、彼女のことを深く知っていくにつれて、死にたいという気持ちは無意識のうちに薄れていった。
そんな俺の元にいる必要は、もうなかったはずなのに。
彼女はいなくなるその時まで、傍にいてくれた。
もっと早くになんとかするべきだった。別に死にたい理由を隠していた訳じゃない。明確な理由が自分でも分からなかった。
小さい頃から一人だった。医療の発達が著しい都市に住んでいるにも関わらず、物心つく頃には家族がいなかった。
ずっと疑問だった。自分の身体は確かにここにある。なのに、自分を造り出したものはこの世界のどこにも存在していない。自分は何で構成されているのか。なんで自分は存在しているのだろうか。
おそらく、俺は死にたかった訳ではない。生きている実感というものがなかった。楽しいことも、嬉しいことも、哀しいことも感じることがなかったから。それを教えてくれたのはサクラだったのに。俺は彼女の力に少しもなれなかった。
空間がぐにゃぐにゃと歪んでいく。湾曲した線と点滅する光が目の前に散らばって、吐き気が込み上げてくる。
朦朧としている意識の片隅で草を踏みしめるような音が聴こえてくる。段々と音は大きくなっていき、すぐ近くで止まった。
「こんな所で寝ていたら体調崩すぞ」
薄っすら目を開くと、おっさんがこっちを見下ろしている。いつの間にか眠りに落ちていたようだ。
今までは意識的に呼び求めた時にだけサクラとの過去が蘇ったが、最近は無意識の中にも彼女が入り込んでくる。
そんな状態の時は、今いる次元が過去なのか現在なのかが分からない。夢から覚めた時に初めて、今まで見ていたものが過去のことだと理解できる。
上半身を起こすと、おっさんが隣に腰を下ろす。なんだか珍しく疲れたような顔をしているが、聞いてもいいのかが分からない。不意に、全く違うことを聞いてしまう。
「おっさんはさ、死ぬことが怖いと思ったことある」
突然された質問に驚いたのだろう。瞬きをすることもなく固まってしまっている。数秒経ってから徐に口が動き始める。
「そりゃあるけど・・お前、まだ若いのにそんなこと考えてんのか・・」
ここ数年で医療は大きく促進してきた。治すことのできない病は格段に減少し、人間から「死」は遥かに遠のいた。
それでもやはり、いつかは絶対に訪れる自分の消滅を人間は恐れるらしい。
「昔の知り合いでさ、死ぬことを異常なくらいに恐れていたやつがいたのを思い出して」
サクラの話題を他の人に話したのは初めてだった。ずっと自分だけのものにしておきたくて心の奥底に閉じ込めていたが、おっさんになら話を聞いてもらいたい気がした。
「ふーん。お前に昔の知り合いね」
にやけた顔でそう言ってくるおっさんに少しイラついたが、不思議に思われるのも仕方がない。今でさえもこんなに誰かと関わることが苦手なのだから。
「お前は死ぬことを怖いと思わないのか」
心底心配そうに聞いてくるおっさんに、なんだか笑いが込み上げてきた。そんな俺を見て、おっさんが軽く頭を叩いてくる。駄目だ、笑いながら話すような内容ではない。息を吸って落ち着きを取り戻してから、話を戻す。
「嫌だなとは思うようになった。でも、正直自分の考えが分からない。
人間はいつか絶対に死ぬ。死んだら、脳が停止して、死ぬのが怖いという意識も消えてなくなってしまう。
いずれ無くなる心を感じている意味はあるのかなって。」
うまく説明ができない。自分でも何を言っているのかよく分からないのに、おっさんは真剣に理解しようとしてくれている。おっさんのこういうところが嫌いではない。
「心ってのは難しいものでな、思考とは切り離された所にある。頭では分かっていても気持ちがついていかないってことがあるだろう。
死んだら身体も、記憶も全部消え去ることは誰もが知っていることだが、だからって人生の過程をないがしろにしようとはしない。無意識に記憶を繋いで、思い出を残そうとする。
結果が終わりだとしても、過程をより良いものにしておきたいと思う人間の心が、思考を動かす原動力になっていると俺は思う」
何故だろう。眼球がキリキリとした痛みを放つ。目の奥から何かが滲み出てきていることに気づいて、不意に歯を食いしばる。泣いている人を見て、何故目から水が出るのだろうと疑問に思うときがあったが、こういう感じなのか。
今まで誰も、心を教えてはくれなかった。小さい時から一人だったし、学校の講義は模範的で何の価値も持たないようなものばかりだった。
実際にいたことはないから、気のせいかもしれないけれど。
もし自分に父親がいたらこんな感じなのかもしれない。
「心を知るのに一番必要なことは、人と関わることだぞ。一人だと大した感情は生まれてこないからな。沢山じゃなくていい。大切な人を数人でもいいからつくれ。案外、お前にはもういるかもしれないけどな」
おっさんが俺の頭に掌を乗せ、豪快に掻き乱してくる。おっさんが俺を含めた同僚達に対してよく行う癖のようなものだ。普段なら少し煩わしいと思うはずなのに、嫌な気持ちはしなかった。
死への関心が薄まったのはサクラと話すようになってからだったが、その訳が分かった気がした。
「シキ。お前はこれからどんなことがあったとしても、自分が正しいと思うことを貫き通せ」
そう言い放った横顔は哀愁に満ちていて。西の空に沈む太陽のオレンジ色が顔にかかって、切ない感情が増幅されて映し出されたように見えた。俺に伝えようとしてくれたのは確かだが、おっさん自身にも向けた言葉であるような気がした。