3 人の傲慢さ
出勤すると、珍しくおっさんの姿がなかった。
本来ならば研究室内に設置されていたはずのソファーが、おっさんの無駄に大きい寝言のせいで研究に集中できないという理由で外に出されたのは、もう昔のことだ。いつものこの時間なら、おっさんはここでいびきをかいているはずなのに。今日はもぬけの殻だった。
同僚に聞くと、こんな朝っぱらにも関わらず都市外の住人の元へと行っているらしい。
彼はその人望の厚さから、色々な人から相談を受けることが多かった。きっと今回もそのような要件だろう。
準備を整えてから研究所の外へと足を踏み出す。まだ日差しは弱まっておらず、つい出直そうかと考えてしまう。
昔から朝日が苦手だった。ただ単に眩しさが煩わしいという理由もあるが、新しい一日が始まる象徴であるということ自体に嫌悪感のようなものを感じてしまう。
いつもより強い風のせいで髪が流れて目にかかり、いつの間にか大分伸びてしまっていたことに気付く。外見に無頓着なせいでよくおっさんに怒られるのだが、どうも自分に関心が持てない。正直髪なんてどうでもいいと思っているのだが、さすがに切らないと邪魔になるだろう。
俺の研究は屋外で行うため、研究所内に留まる時間は誰よりも少ない。そのため同僚達との関わりは希薄であったが、それをかろうじて繋いでくれたのがおっさんだった。
そもそも人と関係を持つことが好きではなかったから気にしてはいなかったのだが、今はおっさんに感謝している。
人との会話を楽しいと感じる時間なんて、自分にはもう訪れないと思っていた。おそらくこのような時間がなかったら、俺はとっくに後戻りが不可能なくらいにまで堕ちていただろう。彼らが都市内の普通の人々と比べて少し変わっていることも、馴染みやすい理由である気がする。
ちゃんと舗装されていない道を歩く。人工的に作られたのではなく、人々が歩いた地面が固まってできた道。自分の行きたい場所へと向かって、自由に道を創造できることが羨ましい。
アスタロトの地面はどこも、同一の感触しか伝えてこない。
転んだ時の衝撃が与えられると、瞬時に柔らかさを増大させる優しい地面。そんな善良な地面を歩いていると、自分の足がちゃんと地面に付いているのか分からなくなってしまい、落ち着くことが出来ない。
目的の場所は小高い丘の上だ。頂上まで辿り着くと、負荷のかかった心肺や足の筋肉を休ませるために取り敢えず腰を下ろす。
ここが都市外で最も好きな場所だ。今までの人生を振り返ってみても、ここより心地良い場所などあの空き教室くらいしか思いつかない。
大きな一本の木の周りに植物が生い茂り、肥沃な土がある。あの大戦で、多くの土地が焼かれ、砕かれ、様々なものが失われた。ヒトが起こした争い事に巻き込まれた動物や植物。山や川、湖。
今のこの世界自体が、ヒトの傲慢さの象徴だろう。その傲慢に打ち勝った土地の一つがここだ。この場所を失くしたくない。
三百年前に起きた急激な温暖化の悪化。地球上の至る所が変貌を見せた。
草は枯れ、木は花を咲かせなくなった。湖が干からび、川は巨大な蛇が這いずり回った跡の様になった。
自然に住んでいた動物や魚がどんどん死に絶えていった。絶滅の危惧に脅かされていなかったはずの多くの種族達も、一瞬のうちに消えていった。今まで子孫を残し、生き続けてきた歴史を嘲笑うかのように。瞬く間に生態系は崩れていった。
そのうち、人間の食料も打撃を受けるようになった。発展していない貧しい国に住んでいる者達から飢えて死んでいった。
飢餓の恐ろしさに人間は狂わされた。どうするべきか対策を練ることもなく、ただただ食料を奪い合い争った。
初めは環境保護を唄っていた人々も、食欲を満たすために奪い合いに没頭した。
条約を無視して核兵器が使われ、さらに土地が汚染されていった。新たな細菌やウイルスが、世界の至る所で蔓延した。
人々が冷静になった時。その頃には人口は随分と減っていた。
二百年かけて、人間は自分達が生きられる場所を拡大していった。汚染が酷く、足を踏み入れられない国はまだたくさんある。
人類の私利私欲のために起こった地球の崩壊。そこからまともに立ち直ることができたのは、発端である人類くらいだ。多くの他の種族が人の傲慢さの犠牲となった。
自分達の命が脅かされることのない安全圏にまで達すると、人間は再びあらゆるものを開発し始めた。
あれだけのことが起こったのに、あれだけの命が失われたのに、人間は止まらなかった。
同じことを繰り返していれば、いずれまた大きな争いが起きる。そんなこと誰だって分かるはずなのに。人間は思考するための力を与えられているはずなのに。
今すぐに起きることではないと遠回しにしてしまうのもまた、人であるからだろうか。
人の命だって同じだ。死が遥か遠くにあるものだと断定してしまっているから、一日一日を大事にしようとすることができない。
この場所も、何百年後には何もないただの更地になってしまっているだろうか。今自分が行っている研究も、無駄なものになるだろうか。
やはり、未来のことなんて考えても絶望するだけだ。疲弊した心を休めるように、目を閉じた。