2 サクラとの出会い
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昼休みの空き教室。今は物置場となっているこの空間を気に入っている。薄暗くてカビ臭い、どんよりとした空気が渦巻いているこの場所に、いつのまにか足を踏み入れてしまう。
何故かついてきたサクラを無視して本を読んでいたのだが、彼女の不穏な言葉によって文字に溺れていた思考から引き戻された。顔を上げると、彼女は口元に笑みを浮かべながらこっちをじっと見ている。
吸い込まれるような黒い瞳。漆黒の真っすぐな髪に、全体的に整った顔。初めて正面から顔を見た。こんな顔をしていたのか。
せっかく恵まれた容姿を持ち合わせているのに、変な行動ばかりとる。そんな彼女に対して、他の生徒たちは関わることをやめていった。皆彼女を得体の知れないものであるように扱っている。仕方のないことだろう。
正直俺も、初対面の相手に死にたいのかと問う奇行を犯す彼女の頭を、正常だとは言い切れない。
「いきなり何」
「本なんて久しぶりに見た。文字を読める人なんて、もっと久しぶりに見た」
俺の質問を軽々と無視して、本に興味を示す。手元を覗き込んでくる彼女の長い髪が、視界の端で揺らめいている。
この学校は、百年前の戦争の被害から逃れた建物を使っている。ホログラムにより外観は古びた姿を少しも見せないが、この教室だけは例外だった。はなから誰かが使用すると想定されていないこの場所にホログラムは行き届いておらず、必要とされない物が散乱している。俺の唯一落ち着ける場所。ここから見つけ出した物のひとつが「本」だった。
この都市に生きている者で、文字を読める人などいないだろう。文字自体が、ここでは存在していない過去の産物であるからだ。
体内に埋め込まれた様々なデバイスにより、全ての情報は「体感」することができる。わざわざ文字を読むことが必要な社会は、大戦から少し経った頃に滅びた。
「ここから逃げ出したいと思っているでしょ。だから、今は存在しなくなったものに入り込もうとしている。違う?」
そう言い放つ彼女の瞳は、自信で満ち溢れている。つい肯定の言葉を発しそうになった。
「別に大した意味はないけど。興味を持ったから見ている。それだけ」
なるべく感情が外に溢れ出さないように言葉を紡ぐ。心臓を人質に取られて、彼女の両手をボールのように行き来している感覚。頭では落ち着かなさを感じているのに、心臓自体は喜んでいる気がする。こんな危うい俺の元から離れられることを。
確かに「生きたい」という思いが希薄であると自負してはいたが、まさか他人に見破られる日が来るなんて思いもしなかった。
サクラは「ふーん」と言いながらも、明らかに納得していない表情をしている。本心を覗こうとするように合わせてくる瞳から、目を逸らして逃げた。
少しの無言の時間。本のページを捲る音だけが響く空間。そんな空間を引き裂くかのように、サクラの悲痛な声が木霊す。
「技術は、人が文字を読む能力さえも葬ってしまった。どうして、ある程度までに留められなかったのだろうね。
多くの生物の中で、ヒトだけが唯一手にすることのできた『言葉』を使う能力さえも削ぎ落されていく。自分の一部を消してでも手に入れたい技術なんて、私には理解できない」
苦しそうな顔でそんなことを言う彼女の思考は、明らかに他の同級生達とは異なっているように見えた。今生きている社会を批判するようなことを、こんなにも堂々と言い放つやつなんて見たことがない。
「で、それなんていう本?」
再び、サクラの関心は本に移っている。もっとおとなしい奴だと思っていたのに。次々と新しい話題について問いかけてくる彼女に、自分でもよく分からない感情が渦巻いた。
「正直、ほとんど読めないんだよ。興味があるから眺めているだけで」
さっきのサクラの話を聞いてからだと、文字を読めない事が少し後ろめたく感じられた。しかし彼女はそんなことを気にする様子もなく、先程とは打って変わった明るい表情で言葉を紡ぐ。
「そっか。じゃあ私が教えてあげるよ。その代わり、なんで死にたいのか教えてね」
断る余地はなかった。面倒くさいことになったなという思いと裏腹に少し期待してしまっている自分がいて、胸がざわついた。