第79話 亜美
だし汁の中で、白菜と油揚げがぐつぐつと煮え、蓋の隙間から、湯気が吹き出ている。コンロの中ではアジの干物が二枚、おいしそうな油を浮かせながら、こんがりと焼き上がりかけていた。
亜美は洗ったきゅうりをまな板の上に置き、斜めに薄く切っていく。
部屋に、とんとんと包丁のリズミカルな音が響いていた。
ドアの開く音が聞こえた。顔を上げる。
青いパジャマを着た男が立っていた。
まだ眠たそうな顔をした悠紀夫。
「おはよう」
「おはよう、亜美」
*
つむじ風のような光景が瞬刻襲い、過ぎていった。
一体これは何?
「亜美、一緒にいてくれよ」
あたしは何をしたいの?
先週新調したばかりのオーダースーツ。
英国産の高級生地で作らせたお気に入りの一着。福井が着ている、いかにも量販店で売っているスーツなら、軽く十着は作れるに違いない。
対して、よれよれのコットンで出来たエプロン。きゅうりを刻んでいる。
地位も名声もない。
だけど暖かく、落ち着いた生活がそこにあった。
どっちがいいの。
うるんだ悠紀夫の目。
吸い込まれていくような思い。
走り出す。
懐かしい匂いと暖かな感触。
「亜美……」悠紀夫にぎゅっと抱きしめられた。「もう離さない」
私は亜美。
*
――天海よ、感じたか――
葉擦れの音さえ聞こえてこない、久能山東照宮の静かな境内。石塔の奥から声が響いた。
「はっ、確かに」
平伏した天海が答える。
――ややこしい道のりではあったが、つつがなく終えることが出来た。大義であった。礼を言うぞ――
「滅相もございません。権現様のお役に立てるなら、これしきのこと、何度でも成し遂げて見せましょう」
――うれしいことを言ってくれる。しかしだな、前も話したとおり儂も引退しようと思っておる。ついてはお前にも暇を出そうと思う――
「と、言うことは、権現様、私は消滅してしまうのでしょうか」
「有り体に言えばそうだ」
「ちょっ、ちょっと待ってくださいませ」天海が慌てて顔を上げ、石塔に駆け寄る。「私も心の準備というものがありまして……」
「すまぬのう。待てんのじゃ」
さしのべた手が、透けて見えた。
あっと叫ぶ間もなく、天海はぱちんと弾け、紫の僧服だけが残された。
しばらくすると、僧服ががさがさと動き出す。
袖の中から、白黒のかわいい顔が覗いていた。
「ニャア」
*
暑ちぃよお。
弘樹は穴の底から恨めしげに空を見上げた。雲一つない空から、太陽の光が天下を取ったように降り注いでいた。風もなく、湿った土からは水蒸気が立ちのぼり、不快さが加速していく。
「弘樹、ボケッとしてねえで、とっとと板を嵌めちまえ」
振り向くと、便所から帰ってきた葦名が腕を組んで背後に立ち、弘樹を睨み付けている。
背丈は百六十センチもないのだろう、弘樹を見下ろす形になるが、怒鳴りつけると何倍にも大きく見えてしまう。
「はいっ」
慌ててスコップを持ち上げ、ユンボで削った土の壁を整え始めた。
水蒸気がかき回される感覚がして、たちまち全身から汗が噴き出ていく。
頼むから半袖で仕事させてほしいよなあ。もっとも口にすればまた怒鳴られるんだろうけど。
弘樹は肩にかけたタオルで額の汗を拭った。