表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
本当の物語は一つだけ  作者: 青嶋幻
79/80

第79話 亜美

 だし汁の中で、白菜と油揚げがぐつぐつと煮え、蓋の隙間から、湯気が吹き出ている。コンロの中ではアジの干物が二枚、おいしそうな油を浮かせながら、こんがりと焼き上がりかけていた。


 亜美は洗ったきゅうりをまな板の上に置き、斜めに薄く切っていく。


 部屋に、とんとんと包丁のリズミカルな音が響いていた。


 ドアの開く音が聞こえた。顔を上げる。


 青いパジャマを着た男が立っていた。


 まだ眠たそうな顔をした悠紀夫。


「おはよう」


「おはよう、亜美」


                *


 つむじ風のような光景が瞬刻襲い、過ぎていった。


 一体これは何?


「亜美、一緒にいてくれよ」


 あたしは何をしたいの?


 先週新調したばかりのオーダースーツ。


 英国産の高級生地で作らせたお気に入りの一着。福井が着ている、いかにも量販店で売っているスーツなら、軽く十着は作れるに違いない。


 対して、よれよれのコットンで出来たエプロン。きゅうりを刻んでいる。


 地位も名声もない。


 だけど暖かく、落ち着いた生活がそこにあった。


 どっちがいいの。


 うるんだ悠紀夫の目。


 吸い込まれていくような思い。


 走り出す。


 懐かしい匂いと暖かな感触。


「亜美……」悠紀夫にぎゅっと抱きしめられた。「もう離さない」


 私は亜美。


             *


――天海よ、感じたか――


 葉擦れの音さえ聞こえてこない、久能山東照宮の静かな境内。石塔の奥から声が響いた。


「はっ、確かに」


 平伏した天海が答える。


――ややこしい道のりではあったが、つつがなく終えることが出来た。大義であった。礼を言うぞ――


「滅相もございません。権現様のお役に立てるなら、これしきのこと、何度でも成し遂げて見せましょう」


――うれしいことを言ってくれる。しかしだな、前も話したとおり儂も引退しようと思っておる。ついてはお前にも暇を出そうと思う――


「と、言うことは、権現様、私は消滅してしまうのでしょうか」


「有り体に言えばそうだ」


「ちょっ、ちょっと待ってくださいませ」天海が慌てて顔を上げ、石塔に駆け寄る。「私も心の準備というものがありまして……」


「すまぬのう。待てんのじゃ」


 さしのべた手が、透けて見えた。


 あっと叫ぶ間もなく、天海はぱちんと弾け、紫の僧服だけが残された。


 しばらくすると、僧服ががさがさと動き出す。


 袖の中から、白黒のかわいい顔が覗いていた。


「ニャア」


                *


 暑ちぃよお。


 弘樹は穴の底から恨めしげに空を見上げた。雲一つない空から、太陽の光が天下を取ったように降り注いでいた。風もなく、湿った土からは水蒸気が立ちのぼり、不快さが加速していく。


「弘樹、ボケッとしてねえで、とっとと板を嵌めちまえ」


 振り向くと、便所から帰ってきた葦名が腕を組んで背後に立ち、弘樹を睨み付けている。


 背丈は百六十センチもないのだろう、弘樹を見下ろす形になるが、怒鳴りつけると何倍にも大きく見えてしまう。


「はいっ」


 慌ててスコップを持ち上げ、ユンボで削った土の壁を整え始めた。


 水蒸気がかき回される感覚がして、たちまち全身から汗が噴き出ていく。


 頼むから半袖で仕事させてほしいよなあ。もっとも口にすればまた怒鳴られるんだろうけど。


 弘樹は肩にかけたタオルで額の汗を拭った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ