第77話 僕の現実
目を閉じる。
真っ暗な世界が広がっている。弘樹たちやネズミの鳴き声も聞こえない。
――すべては心の内にある霊性が道を指し示してくれる――
霊性って一体なんなんだ。
――それは太古から積み重ねてきた生命意識そのもの。DNAを包摂し、環境、文化をも取り込んだ意識――
広大な宇宙を意識する。ぽつんと一人漂っている自分。しかし孤独ではない。
宇宙は余りに広い。しかし、じぶんもその宇宙の一つであり、確実に存在している。だからこそ宇宙は自分であり、自分は宇宙でもあるのだ。
霊性のある世界こそが現実だ。この前ではゆがんだ思いや固定概念、幻などすぐに消えてしまう。
目の前が明るさを取り戻していく。
部屋が見えた。
僕はベッドに眠っている。カーテンを開けた窓から、朝日がこぼれ落ちてくる。まぶしくて目を瞬かせている。
傍らにはわずかなぬくもりと、覚えのある匂い。
ベッドから抜けだし、ひんやりした空気を肌に受けながらドアを開ける。
キッチンがあり、女性が一人で料理を作っている。
「おはよう」
手に持っていた包丁に向けていた視線を上げた。
亜美……。
これが僕の現実。
目を開けた。
大勢のうつろな目をした群衆と、背後で蠢く大量のネズミたちがいる。
悠紀夫は刀を捨てた。
「おい……何すんだよ。お前、頭おかしいんじゃねえのか」
慌てる弘樹を無視して群衆に近づいていく。
服を掴まれ、引き寄せられる。群衆の中に引きずり込まれた。
「福井さん」
亜紀が叫ぶ。
「そのままでいてください。大丈夫ですよ」
――怖いことなんか何一つないんだ――
ぐいぐいと腕と足を引っ張られ身動きできなくなった。引きちぎられそうなほどの痛み覚える。
由井が群衆を割って現われた。
手には炎の刀。
「自ら進んで我が手にかかろうとするとは。どういう風の吹き回しだ」
「大丈夫さ」
悠紀夫は痛みで顔をゆがませながらも笑いかける。
「何を言うか」
由井が刀を袈裟懸けで振り下ろす。
瞬間、刀が消えた。
「馬鹿な……」
唖然として自らの手と、悠紀夫を交互に見た。
「お前の力は僕の反映でしかない。怒れば怒るほど、排除すれば排除するほどお前の力は強くなる。ならば、僕が怒らなければいいだけの話さ。
僕には現実が見える。だからこの幻に戦き、怒る必要などないんだ」
「ならばこれならどうだ」
由井が悠紀夫の首に手をかけ、締め上げようとした。
一瞬息苦しさを覚えたが、すぐに力は弱くなる。
「ああっ」
由井が叫び、手を離した。
手首から先が消え、傷口からは白い煙が立ちのぼっていた。
「さあ、皆さんもいい加減僕の体から離れてください」
悠紀夫が穏やかに微笑みながら見回すと、手足を掴んでいた人たちが口から煙を吐き、真顔に戻った。
手を失い、呻いている由井を無視して、悠紀夫は群衆をかき分ける。彼が触れた人たちはみな口から煙を吐き、真顔に戻っていく。
やがて群衆を抜けてネズミに到達する。
ネズミは悠紀夫が触れると蒸発して消えていく。
コンテナの前についた。悠紀夫は大きく息を吐きながら、扉のレバーを動かした。
扉が開き、段ボールカートンが露わになる。
たちまち段ボールの表面が膨れあがり、破れてサクラが飛び出してきた。
さっと一斉に散り始めたネズミたちを、サクラは容赦なく踏みつぶしていく。
ネズミは一瞬で細かな砂にって飛び散り、蒸発した。
ネズミに乗っ取られた人には、肩に乗って頬を舐め、ネズミを押し出していく。
サクラは次々と出てくる。
たちまち周囲からネズミの姿が消えた。残ったのは解放された人々とサクラの入っていた空のコンテナ、それにネズミに破壊された建物やコンテナの残骸だけだった。
「福井さん、もう一度携帯を貸してください」
亜紀は携帯を受け取り、サクラエンタープライズに電話をかけた。
「原、サクラのコンテナはどうなった?」
「はい、半分近く開けることができています。すごいことが起こっていまして、各地でコンテナから飛び出したサクラが、ネズミたちを駆除しているんですよ」
「そんなことはわかっている。早く残りのコンテナも開けるよう催促させろ」
「はいっ」
通話を終えて悠紀夫に携帯を返したが、彼は上の空で受け取る。
「あれ、聞こえますか」
「え?」
――うおおおおう……。うおおおおう……――
遠くから、地鳴りのようなうめき声が聞こえてくる。
「あれは……」
「由井が断末魔の声を発しているのです」悠紀夫はほっと息を吐いた。「すべてが終わりました」