第74話 サクラ
目を開けると、階段に横たわっているのに気づいた。見上げると石塔があり、天海が仁王立ちで見下ろしている。階下は一面ネズミの群れが蠢いていた。
「亜美、目覚めたんだね。良かった」
傍らにいた悠紀夫が笑顔を見せていた。隣の未来はぼんやり遠くを見ている。
「違うわ。あたしは亜美じゃない。亜紀よ」
きっと福井を睨んだ。彼はわずかに動揺しながらも頷く。
起き上がり、左肩に触れた。右のあばら骨にかけて違和感があったが、特に異常はない。もしかしたら亜美の頃に何かあったのかもしれないが、記憶が曖昧だった。
「ここはいったいどこなんです」
「久能山東照宮です」
「すると、この久能山一帯が、ネズミに覆われているというの」
「ええ。もしかしたら世界全部がネズミにやられるかもしれません。由井は世界制覇を狙っていますから」
「あれは何」
指差した先に、ネズミの群れに乗ってこちらへ近づいてくる物があった。どうやら人のようだ。
「弘樹さん」
死んだように目を閉じた弘樹が、仰向けになって引き上げられていた。石塔の前までたどり着くと、不意に目を開け、起き上がった。
目つきは虚ろでよどんでいた。明らかに正常ではない。
ふらつきつつも、亜紀たちを見ながら立ち上がる。
口から、ネズミの尾っぽが飛び出し、触覚のようにぐるぐると動き始めた。
ネズミの群れの上を滑るようにしてこちらへ近づいてきて、結界に手を当てた。
手が結界を突き抜けていく。
「弘樹さん、やめてくれ。そんなことすると、ネズミが入ってきてしまうよ」
弘樹は結界の縁を掴み、左右に押し広げようとした。悠紀夫はそれを抑えるため、結界の中に手を突っ込み、弘樹の腕を掴んだ。
「どうしてこの人は中に入ってこれるのよ」
「弘樹さんはもともと僕たちの身内なんだ。だから結界が仲間だと認識しているんだ」
既にネズミたちは弘樹の肩まで上り、結界が開くのを待ち受けていた。
「やはり限界か」天海が薙刀を構え直した。「権現様はあのようなことをおっしゃったが、最終的にはこの混乱を治めるのがわしの責務」
弘樹の力は強い。結界は徐々に広がっていく。
天海が一歩踏み出す。ネズミが侵入すると同時に切りつけるつもりだ。
「ちょっと待って」
亜紀は目を閉じた。パニックを起こしかけている心を静める。
――すべては心の内にある霊性が道を指し示してくれる――
真っ暗な闇の中。誰が言った言葉なのだろうか、強く響いてくる。
不意に、目の前が明るくなった。
――ニャア――
目の前に黒縁の猫が一匹現われた。一声鳴くと、顔を腕に乗せ、眠そうに目を閉じた。
サクラ?
尾っぽを振る。先端の青いLEDライトが光っていた。
「ねえサクラ、起きてよ。あたしたちを助けて」
いったいあたしは何を叫んでいるんだろう。心のどこかで疑問に思いながらも叫ばずにはいられなかった。
サクラが目を開けた。
――ニャア――
めんどくさそうな顔をして立ち上がり、尾っぽを向けて離れていった。
「ねえ、どこ行っちゃうのよ。あたしたちを助けてくれないの」
サクラはお尻を向けると、背後の霞の中へ入り、消えていった。
再び目を開けた。弘樹の手は次第に広がっており、既に隙間から、ネズミの鼻が突き出ていた。
もう保たない。
そう思った瞬間、
キキキキッ、と悲鳴のような鳴き声が響いたかと思うと、弘樹にまとわりついていたネズミが一斉に引いていった。
「何?」
ネズミの群れが割れ、地面が見えた。
その道を猫が列をつくって上ってきた。周囲を見回し、ネズミを威嚇している。
「サクラ」