第73話 もう一つの現実
真っ暗な闇の中。
動くことも見ることも、感じることも出来ない。
あたしは誰なんだろうか、思い出せないる。
そんな意識さえ飛んでいきそうになる。ぼんやりとしているが確実に締め付けてくる不快感によって、ようやく意識が保っていた。
こんな嫌な気持ち、消えてしまえばいい。そうすれば、あたしも消えてしまうのに。
――ねえ亜美――
誰?
――君が閉じ込められている場所は現実なんかじゃない。――
現実? 何それ。どこからか降ってきたような言葉。
――君が思っている現実。日常を意識するんだ――
閉じ込められている。現実。日常。反芻しながら噛みしめてみる。
*
――漫画家になるなんてよお、お前馬鹿じゃねえのか――
深川の見下すようににやつき、脂ぎった顔が、目の前に迫る。嫌悪感で全身に鳥肌か立ってくる。
嫌だ嫌だ。やめて。
暗転。
道路に、びっしりと数え切れないほどのネズミが溢れていた。ビルを倒壊させ、木を囓り尽す。逃げ惑う人々にも容赦なく襲いかかっていく。
地獄のような光景。
キイキイ、キイキイ。脳をかき回すような鳴き声。
嫌だっ。
力の限り叫ぶ。まるで声にあおられたかのように風景がゆがむ。
再び暗転。
静かな部屋。窓のブラインドの隙間から、穏やかな光が差し込んでいる。壁はすべて本棚が据え付けられ、マンガや資料がびっしりと並んでいた。
部屋の真ん中には机が置いてあり、未来が座っていた。
スタンドライトに照らされた紙をじっと見つめている。
紙は白紙。
描きたい。でも、何も思い浮かばない。
締め切り日は今日だった。恐怖が突き上げてくる。
あたしは本当に漫画家なの?
室内の光景がゆがんで見えてきて、頭が混乱してくる。
このままじゃおかしくなっちゃう。逃げなけりゃ。立ち上がり、ドアに向かうが、バランスを崩し、床に倒れた。
浅い呼吸が聞こえてきた。それは自分が立てている音だと気づく。
上下左右の感覚が失われていた。這いながらゆがんで見えるドアに向かう。
これは現実なの?
ニャア。
突然目の前に猫が現れた。
何?
――すべては心の内にある霊性が道を指し示してくれる――
どこからか声が聞こえてきた。聞き覚えがある声だった。
霊性……。
目を閉じてみる。
ねずみの群れ、真白な原稿、深川のいやらしい笑い。次々と現れは消えていく。みんな目を背けたくなるものばかりだ。
これが霊性なんだろうか。
違う。こんなもの霊性ではるはずがない。
めまぐるしく展開していく世界の中、何かが浮かび上がってくる。
暗転。
夕陽が差す部屋。狭くて殺風景だ。窓からは狭いグラウンドが見えるので、浅畑学園なのだろう。未来は原稿に向かってペンを走らせていた。
主人公は内気な女の子。ねこになった男の子との恋を描いたラブコメだ。
描ける。アイデアが次々と湧いてくるじゃないの。
勢いがとまらず、夕食をはさんでもまだ書き続けている。
暗転。
雑誌に自分の漫画が掲載されていた。次々と送られてくるファンレター。単行本の出版がとんとん拍子に決まっていく。一年後、あたしの描いた漫画はベストセラーになっていた。
これがあたしのほんとうの姿。
*
工場の中。
できあがったラインの脇に人が配置されている。サイレンが鳴り、ベルトコンベアが動き出す。
金属の部品が供給され、人々が組み立てを始める。金属片でしかなかったものが、形作られていく。
四つ足で立つ小型のロボットが出来ていく。毛皮を被せられ、ふわふわした猫になる。
サクラだ。
周囲から拍手がわき起こっていく。サクラの量産第一号が完成されたのだ。
幸福な時間。
これがあたしの本当の姿。