第72話 道を指し示してくれるもの
「悠紀夫よ。権現様はあのようにおっしゃっておいでだが、お前がこの状況を治め切れないままであれば、儂も行動しせねばならぬ」
呆然としていた悠紀夫は、自分たちがまだ危機に晒されているのを意識した。
ネズミは石塔の周りで騒ぎ、亜美は相変わらず倒れたままだ。壇上には値踏みするように見下ろす天海がいる。
家康の言葉を思い出す。
――すべては心の内にある霊性が道を指し示してくれる――
今まで僕は心から湧き出す力を信じていた。けれどそれはことごとく由井に吸い取られていった。なぜそうなったのかといえば、力が外に向けていたからではないか。
亜美の切り裂かれた胸に手を置き、目を閉じた。
答えてくれ。
亜美を目覚めさせるにはどうすればいいんだ。
この世界を正常に戻すには、どうしたらいいんだ。
暗闇だけだった世界に、少しずつ色が浮かんでくる。
何……。
ぼんやりとだが、輪郭が見えてきた。
日の光が差す電車の中。出勤時間帯なのだろう、スーツや作業服を着た人々が吊革に掴まっている。
座席で新聞を拡げている初老の男性と、隣で窮屈そうに肩を縮めている若い女性。揺れながら、ゆるいスピードで進んでいく。
世界が暗転する。
事務所でパソコンに向かっている女性が見える。悠紀夫は見積書の計算をしていた。パソコンのキーボードを叩く音。
電話の呼び鈴が鳴り、女性が受話器を取る。
――はい、辻倉庫でございます――
悠紀夫の日常が展開されていた。
一体これは何。
霊性はどこにあるんだ。
その瞬間、すべてが悠紀夫と共にあるのを意識した。
女性、パソコン、手に持っていたシャープペン、花瓶に生けてあった花。
これは僕の心の内。そして、現実でもあるんだ。
日常の世界。ここに霊性があるんだ。
日常は何も語らないけれど、すべてがここにあるんだ。
ここに戻るんだ。
悠紀夫は目を開けた。
そこには相変わらず大量のネズミとなった由井、上から睨み付けている天海、怯えた顔の未来がいる。
そして切りつけられ、目を閉じた亜美。
亜美の胸に手を置く。
「ねえ亜美、君が閉じ込められている場所は現実なんかじゃない。君が思っている現実。日常を意識するんだ」
――何を言う。現実と幻の違いなんぞありやしない。必要なのは世界を形作ろうとする意志の強さだ――
あざけるような由井の声が聞こえる。
「違う。現実か幻かは霊性のあるなしで決まる。未来、君も現実だと思える世界をイメージするんだ」
「でも、何が現実なの。浅畑学園の頃。それとも漫画家だった頃。ここも現実かもしれない」
「大丈夫、現実は一つしかない。霊性を意識すれば、自ずと浮かび上がってくるよ」