第70話 由井の正体
由井がのけぞり苦悶の表情を見せた。しかし、血しぶきは上がらない。やはり幻だからなのだろうかと思ったとき、体が震え出す。
由井の顔や手から、一斉に棘のような物が出てきた。
棘は触覚のようにゆらゆらと動き始める。
「何――」
顔や手、皮膚が露出している部分が盛り上がるように変形し、うっすらと毛が生え始めた。同時に目鼻が陥没して見えなくなっていく。
顔に割れ目が出来ていく。
ネズミ。
盛り上がっている部分はネズミの尻、棘だと思ったのは尾だった。
一斉に顔や手がばらばらと欠け落ち、ネズミとなって走り出した。後に残ったのは黒いスーツとシャツだけだった。
「自らネズミになるとはな。浅ましい限りじゃ」
――言いたければ言うがいい――
どこからか由井の声が聞こえてきた。
――私がこの世にまで生きながらえるには、この方法しかなかった。慶安の世、私は首を安倍川の河原に晒されていた。底へ我が耳を囓り取るため、一匹のネズミが現われた。私はそのネズミに、消え入る寸前だった我が無念を注入したのだ。
私の右耳を囓り取った一匹のネズミは、その後多くの仔を残した。私の無念は引き継がれ、拡散した。
そのうちの一匹がこの世界にゆがみが生じているのを感じ取った。そこで拡散していた私の思いが集められ、由井正雪としてこの世に生を受けたのだ――
「なんだ……」
わずかに振動を感じ始めていた。
風がないというのに、木々が揺れ始めていた。
キイ、キイ、キイ。耳障りなネズミの鳴き声があちこちから聞こえ、獣の臭いが周囲に充満し始める。
下草が激しく揺れ、木が次々と倒れはじめた。
――この山ごと、食い尽くしてくれるわ――
「その前にすべて消してやる」
天海が悠紀夫に向かってくる。
立っているのがやっとだった悠紀夫は、横から来た薙刀を防御したものの、簡単に飛ばされる。
「死ねっ」
天海が薙刀を振り仰いだ時だ。
大量のネズミが玉垣を乗り越え、境内に侵入してきた。
まるで洪水のように押し寄せ、石灯籠が崩れさる。
天海は跳躍し、石塔の前へ着地した。
悠紀夫は震えている未来へ駆け寄り、炎の刀を振り回した。
甲高い鳴き声を上げながら、襲ってきたネズミが一斉に後退する。
すでにネズミは境内を覆い尽くしていたが、天海がいる石塔の石の台座には上がってこれないでいる。権現様の威光が有効なのだろう。
「未来、亜美を連れて石塔へ上がれ」
「あああ……」
未来はわなわなと口を開け、震えているだけだった。
「早くしろっ」
一旦引いたネズミも、すぐ波のように押し寄せてくる。それを再び刀で追い払う。
未来が激しく呼吸を繰り返しながらも、ようやく亜美の脇を抱え上げ、動き始めた。悠紀夫は未来と亜美の周りを回りながらネズミを追い払う。
ようやく石台の階段までたどり着いた。しかし、段を上りきったところには天海が薙刀を構え、見下ろしている。
「早く上がってこい。わしが成敗してくれる」
下がることも上がることも出来ない。ここで留まっていれば、いずれネズミに喰われてしまう。
その時、立っていられないほどの激しい揺れが襲った。
ネズミの群れが波のようにうねり始め、パニックを起こして激しく鳴き始める。
天海の目に怯えが走った。
この揺れは、由井でも天海の力ではない。
誰がやっているんだ。
「由井よ……。やはりお前は愚か者であったな」
天海は脇に退き、薙刀を置いて平伏した。
「何――」
不意に揺れが止った。
ネズミの鳴き声も止った。顔を上げ、怯えるように周囲を見ている。
静寂が辺りを包み込んでいた。
ゴーン、ゴーン。
どこからか、低い鐘の音が響いてきた。