第67話 炎の刀
熱くはない。と言うより、炎が悠紀夫の手先から発せられている。
怒りの炎が刃に伝わっていた。
「殺してやる」
炎の刃を振り下ろす。
苦しく顔をゆがませながら、由井が飛びすさって避けた。
「仕方ない、ここは仕切り直しとしよう」
由井が跳躍し、柵を越えた。
「待てっ」
悠紀夫も腰をかがめ、飛び立とうとした時だ。
「やめて」未来に腕を掴まれた。「亜美を見てちょうだい」
「ああ……」
振り向き、亜美を見る。左肩から右脇腹にかけて、ぱっくりと傷が開き、鮮血が泉のように湧き出ていた。悠紀夫は血だまりの中へ足を踏み入れ、瞳孔がききった目を閉じさせた。
「亜美……。死んじゃったの」
「死んだように見えるけど大丈夫。彼女は生きているよ。どこかへ閉じ込められているんだ」
「じゃあ早く連れ出してきてよ」
悠紀夫は哀しげに首を振る。「僕には出来ないんだ。由井は僕の力を利用している。僕が力を込めれば、それだけ亜美を閉じ込める力が強まってしまうよ」
「じゃあ、どうすれば亜美を助けられるの」
「由井を倒せればいいが、自分が不利とみれば簡単に姿を現さないだろう」
「だったら権現様にお願いしたら。あの人なら亜美を助けられるでしょ」
「簡単に言わないでくれよ。あの人は――」
言葉を止め、一瞬物思いにふける。
「権現様の元へ行こう。未来、亜美を背負わせてくれ」
未来がはっとして悠紀夫を見る。
「天海は悠紀夫を殺そうとした。だったら権現様も同じってこと?」
「ああ」悠紀夫は頷いた。「僕が死ねば、由井は力をなくす。そうすれば亜美は戻れるんだ。未来、亜美を背負うのを手伝ってくれないか」
「でも……」
「いいから。どっちにしてもこの世界は無理矢理作ったんだから、そのうち他の世界に統合されてしまう。その時世界を由井が支配していたらおしまいだ」
悠紀夫は亜美を抱きかかえた。「さあ、早くするんだ」
未来は渋々頷き、首がだらんと垂れたままの亜美を受け取り、悠紀夫の背中に乗せた。二人は亜美の血で赤黒く染まった体で斜面を下った。
大通りに出ると、〈辻倉庫〉と描いてある軽トラックが止っていた。荷台に亜美を載せる。運転席のドアノブを引くと開いた。鍵は差したままだ。悠紀夫は軽トラックに乗り込み、エンジンをかけた。未来も助手席に乗った。
お尻の下からエンジン音がうなりを上げる。走っている車は悠紀夫の運転する軽トラックだけだ。町中には誰もいない。
いつの間にか重く立ちこめていた雲は消え、がらんとした道に夕日が差していた。軽トラックは御幸通りを抜け、国道一号線、南幹線を超え、やがて海岸へたどり着いた。
オレンジ色に染まった空と、さざ波一つない海の水平線があった。眺めながら、悠紀夫は自分がこれから死ぬんだとぼんやり意識した。
信号を左折した。前方に見えてきた鳥居の前で車を止める。
「さあ、手伝ってくれ」
悠紀夫が亜美の脇を抱え、未来が足を持ち、階段を上った。悠紀夫は更に後ろ向きになって上ったので、集中力が切れると転倒しそうになる。たちまち汗が滝のように溢れ出てくる。
ようやく境内にたどり着き、亜美を玉砂利の上に置き、一息ついた。
「お主ら、一体何をしに来たのだ」
声が聞こえて社殿を見ると、緋色の法衣に金の袈裟を着けた老人が立っていた。背が高く、堂々とした体格。
天海だった。
「亜美を救っていただきたく権現様へお願いに参りました」
「なんとたわけた言いぐさだな。このような惨状にしておきながら、図々しいにもほどがあるぞ」
「無論、この身を捧げる覚悟は出来ております」
「当たり前じゃ、お前が死なずして、この状況を打開する術はない。だがな、その女二人も責めを負わなければならぬ」
「なんだと……」
「そもそも未来と亜美からこのゆゆしき自体が持ち上がったのじゃ。相応の罪を受けるのは当然の報い」
「そうであるなら、戦うほかない」
「好きにしろ」天海は皮肉な笑みを浮かべる。「まだお前は儂に敵うとでも思っているのか。久能山は権現様の領域じゃ。先ほどのように世界を引き裂いて逃げ出すことも出来ん」
「わかっています」
ここで僕が勝たねば、亜美も未来も死んでしまう。
強い感情がわき出していくのを意識する。
両腕を前に差し出しながら握り拳を作り、湧き出すものを腕の先へ集中させた。
一瞬、両手が光り輝いたかと思うと、炎が吹き出る刀が握られていた。
「思い人や友をかばう情は尊い。だが四百年に及ぶ徳川の歴史に比べれば、そんなもの砂粒の欠片以下じゃ」
「そうかもしれない……。でも、僕は戦うんだ」
「まあ良い。遅かれ早かれ、いずれにしろお前は死んでもらわねばならぬ。そうでなければ世界は乱れたまま。打ち首にして見せようぞ」
天海の手には背丈よりも長い薙刀が握られていた。