第61話 襲われる悠紀夫
「あなたはネズミに襲われたはずじゃなかったんですか」
「確かにな。ひどいものじゃよ。地獄よりたちが悪いわ」
ゲラゲラと豪快に笑った。
「どうして生きているんですか」
「そもそも儂は生きてなどいない。だから死ぬこともないのじゃ」
「言っている意味がわかりませんが……」
「更に言えば人間ですらない。儂は世界のたわみに生じる波動のようなものじゃ。たとえて言うなら、川の流れが岩にぶつかるときに生じる渦と考えればよい。それを権現様が人間の形に仕立てたのじゃ。
だから儂は四百年前から姿は変わっとらん。さすがにこのままだと周囲に変に思われるからな、百八歳で死んだことにしたがのう。
さて、現実と幻の違いについて答えよう。この世界には無限の可能性が存在している。その中で霊性は一つだけの可能性に自らを宿す。それが現実じゃ。
霊性が選択しなかった可能性は存在しない。幻とは個人の想像力が生み出した可能性の一部に過ぎない。
その中で由井の存在は特殊じゃ。彼奴が自害したとき、本来奴が宿した霊性も霊性本体へ還っていくはずだった。しかし、無念の思いが強かったのであろう。霊性は霊魂となって現世に居残ったのじゃ。
だからこそ。幻でしかないものをあたかも現実であるかのように見せることが出来る。しかし所詮幻は幻でしかないはずじゃった。
それを変えたのがお前じゃ」
由井が悠紀夫を指差した。
「僕が……」
「その通り。幻でしかない由井があれほどの力が発揮できたのは、お前の力を利用できたからだ。
お主は霊性に働きかけ、現実を変える力を持っている。権現様も同じ力を宿していた。あのお方は霊性へ働きかけ、江戸幕府もたらし、権現として自ら霊性の一つとなったのだ。それが江戸幕府が二百六十年余り続いた理由じゃ。
由井はお前がそのような能力を持っていることを知り、取り憑いたのだ。お前から由井を離れさせなければ、由井の蛮行は終わらない」
「それでは、除霊を行えば、よろしいのでしょうか」
「馬鹿者、すぐに出来るなら当に終えているわ。既に由井はお前を通じて、霊性に深く自身を食い込ませている。取り去るのは容易ではない」
「霊魂でしかない由井が、なぜそれほどまでに影響を与えられるのですか」
「霊性が揺らいでいるからじゃ。由井め。その間隙を突いて世界を変えておる」
「なぜ、霊性が揺らいでいるのですか?」
「まだわかっとらんのか。お前の現実がまだ成就していないから霊性が揺らいでいるのだ」
悠紀夫は戸惑ったように眉根を寄せた。「いいえ……。僕の願いは既に成就しております」
「嘘をつけ。成就していないからこそ由井のような者が跋扈しているのじゃ」
「しかし、本当なんです」
「ならば、お前がそう思い込んでいるだけじゃ。霊性は未だ揺らぎ続けておる」
コゴッと周囲が音を立て始めた。同時に廊下が狭まり始めていく」
「またか」
悠紀夫は教室の中へ飛び込み、窓に手をついた。しかし、窓は前のように消えることはなかった。
「無駄だ。お前は駿府城の堀に落ちたときから由井に深く取り込まれておる。お前が力を発揮すればするほど、力はお前に刃向かってくる」
「では、どうすればよいのですか」
「由井とは霊性に付いた腫瘍のような物。取り除けないならば、付いた箇所ごと取り除けばよい」
天海が軽やかな動きで一回転したかと思うと、半身に構えた。
いつの間にか両手に長い棒を握っている。
先に大ぶりの刃が取り付けてあった。非常灯のわずかな光に反射して、ぎらりと光る。
薙刀だ。
皺に埋もれかけた細い目が、冷たく悠紀夫を見ている。
「あのとき権現様を説得して、お前を殺しておくべきだった」
「何?」
「既にお主らでこの難事を解決できないのは明らか。ならばお前に死んでもらうほかない」
おもむろに天海が腰を沈めた。
「いやぁぁっ」
裂帛の叫びと共に、薙刀を横に払った。
飛びすさる悠紀夫。
背後の机にぶつかり、激しい音を立てた。
間髪置かず、上段から刃が振り下ろされる。
右に飛んで避ける。
空を切った。刃が床に衝突する。
火花がほとばしり、建物が揺れた。
「きゃあっっ」
立っていられないほどの激しさで、亜紀は壁に体をぶつけた。
天海が薙刀を振り下ろした床は、巨大な裂け目ができていた。
「小僧、どこへ消えた」
天海が中段の構えで周囲を見回す。非常灯の光の影になっている部分は漆黒の闇だ。悠紀夫はその中で気配を消し、溶け込んでいた。
窓際の闇が動いた。
「だぁぁっ」
振り返った天海が、間髪置かず薙刀を突き立てる。
刃先が窓を突き破り、外の明かりが差す。室内が丸見えになった。
悠紀夫の姿もはっきりとわかる。
天海が凄みを帯びた笑みを浮かべる。
「もう逃れられまい」