第60話 亜美と亜紀
二つの意識が同時に存在していると思った。一つは混濁し、夢とも現実とも付かない世界に漂っている自分。
もう一つはそれを冷静に上から見下ろしている自分。妙な感覚だったが、間違いなく二人の自分は、同時に同じ〈あたし〉だった。
混濁した〈あたし〉は亜美で、冷静に見ている〈あたし〉は亜紀。
めまぐるしく展開していく情景。三歳のあたし、十歳のあたし、学校へ復帰した時のあたし。ランダムに現われては消えていく。
お父さんやめて。
しがみつくあたしを、軽々と壁にたたきつける。
血走った目。
ごめんなさい。あたしが悪いのよ。
母親の顔はすっかり腫れ上がっていた。
それでも狂ったように母親を殴りつけている。
夜中、パジャマのまま、母親に連れ出されるあたし。
いつも何かに怯えている母親。
惨めで、最低な気分のあたし。
これは一体なんなの。
惚けたように、うつろな目で首に手をかけてくる。
お母さん……。やめて。
嫌よ。死にたくなんかない。
亜紀の中に叫びが侵入してくる。
部屋から逃げ出した。いつの間にか周囲は暗くなっていた。虫が光におびき寄せられるように、繁華街を歩く。
嫌らしい目をして声をかけてくる男たち。
――俺のところに泊めてやるぜ――
振り切るようにして逃げる。捕まりそうになったとき、おまわりさんに呼び止められた。
事情を聞かれ、付き添われて部屋に戻った。
そこで見た光景。
すべてがガラガラと崩れはじめていく。
声にならない悲鳴が響き渡る。
亜紀もいない。亜美もいない。
胸を掴まれそうになり、必死で抵抗するあたしを見て、あざけるような笑い声を上げる深川。
偉そうな顔をしている男なんて、全員殺してやりたい。
母さんはぼろぼろになってしまった。
戦わないと、あたしも同じ目に遭ってしまう。
恐怖と怒り。その中から一つの意識が生まれようとしている。
あたしが社長になって、偉そうな男たちを手玉に取り、こき使っている姿。
あいつらには負けたくなんかない。
強い思いが膨れあがっていく。
新しい自分が生まれてきたんだ。
亜紀。
世界は光に包まれていく。
*
気がついたとき、亜紀は暗闇の中に立ち尽くしていた。非常灯のわずかな光で、悠紀夫の顔が緑色に照らされている。
「あたしたち……。どうなっちゃったの」
混乱した思考が徐々に落ち着きを取り戻していったが、それでもすべてを理解し切れているわけではなかった。
「僕には霊性が見えるし、霊性によって世界が形作られているのもわかる。だから世界同士が対立し、バランスを取る特異点も認識できるんだ」
「特異点というのは、溶岩みたいな物が煮えたぎっている場所のこと?」
「本当は視覚で捉えられないんだけど、無意識が無理矢理変換したら、あんな風になっちゃったんだ。でも、そこで起こった感情は同じさ」
「あたしたちはそこを通って今の現実にたどりついたというの?」
「そうなんだ」
「あなた、どうして今まで黙っていたのよ」
怒り顔の亜紀にも動じず、悠紀夫は静かに呟いた。
「現実は常に一つしかない。過去にもう一つの現実があるのを知ってしまった以上、今までの現実は維持出来なくなるんだ」
「だったら今のあたしたちはどうなるの」
「僕だって経験がないんだ。一つだけわかっているのは、今までの現実がもう失われてしまったことだけさ」
「どれが本当の話なの」未来が嫌々をするように首を振りながら呟く。「あたしはあなたたちが悪だと思ってたわ」
「君が見ていたのは幻なんだ。真実は今まで見てきた事だ」
「何か幻で、何が現実だというの」
「すべては霊性宿っているか否かじゃ」
嗄れた老人の声だった。どこからか聞こえてくる。
闇が動き、人を形作っていく。
大柄で、緋色の法衣に黄金の袈裟を着けている。白い頭巾の下は、刻み込まれた深い皺と鋭い目が光っていた。
南光坊天海だった。