第6話 来栖未来のファン
「今日、何日ですか」
「えっ?」突然の問いかけに、男は一瞬言葉に詰まりながらも答えた。「五月二十五日ですよ」
「ああ……」
未来は頭を抱えた。とうとうやってしまった。
また原稿を落としてしまった。編集者やアシスタント、それに読者。みんなに顔向けできない。
謝って戻るか。でも……。
真っ白な紙が頭に浮かび、心臓が激しく鼓動し始める。
戻っても同じだ。ネームが書けない。何も思い浮かばないんだ。
症状が起きたのは二週間前だった。いつものようにネームを書こうと紙に向かったが、ストーリーが全く思い浮かばなかった。シャープペンを持ったまま、全く動けなくなっていた。
そのまま一日、二日、三日と過ぎていき、締め切りまで来てしまった。みんなに謝り、抜けた穴は新人の原稿で埋めてもらうことにした。
「次はないですよ」
担当編集者に念を押されたのが一週間前だ。
しかし、その約束も守れなかった。
今も書ける自信はなかった。
どうしたらいいんだろう。このままじゃ、よくて休載、悪ければ打ち切りだ。
子供の頃からあこがれていた仕事だった。十代の頃から寝る間も惜しみ、必至で書き続けてきた。新人賞に応募するが、何度も落選した。自分のヘタさ加減に絶望し、それでも夢をあきらめ切れずに書き続けた。
転機が起きたのは十九歳の頃だった。とある新人賞に入選して雑誌に掲載された。その後判明した読者の人気投票で、予想外の上位に入ったおかげで連載が決まった。
それから五年。必至に書き続けてきた。おかげでそれなりの人気を保ってここまで来た。
それなのに……。
「あの……。差し支えなければお力になれればと思うんですけど」
「え?」
いつの間にか、男が隣に座っていた。優しそうな微笑みを浮かべている。
「差し出がましいようですが、何かトラブルでもあったのかなと思いまして」
「それは……」
スランプに陥り、ふらふらと静岡まで逃げてきてしまった。確かにとてつもないトラブルだ。しかし初対面で、しかも見知らぬ人に悩みを打ち明けるほど常識がないわけではない。
「ありがとうございます。でも、大丈夫ですから」
立ち上がりかけたが、めまいがして再び座った。
「しばらく休んでいればいいですよ。そうそう、私の名刺を渡しますから、なにか助けになれる事がありましたら電話してください」
「申し訳ありません」
受け取った名刺を見た。〈本やら堂 店主〉久米健次郎と書いてある。
「古書店を経営しておりまして。学術書ですとか、マイナーな本を中心に取り扱っています。チェーン店とまともにやり合ったんでは勝てやしませんからね。それじゃ、失礼します」
男は会釈して立ち去っていった。未来は息を吐き、名刺をしまうためバッグを探した。
ない。辺りを見回したが、やはりなかった。盗まれたのか、落としたのか。それとも元々なかったのか。記憶がない。
立ち上がり、ズボンのポケットを探した。千円札一枚と、十円玉が四枚出てきただけだ。もちろん携帯電話もない。
このままじゃ、とても東京になんか帰れない。誰かに助けを呼んでもらわないと。両親、編集者、友人。彼らの電話番号を思い出そうとするが、浮かんでこない。
警察に頼んでみようか。昔、テレビ番組で電車代を貸してくれた場面を見た気がする。
でも、どこへ帰ればいいのだろうか。未来は愕然とした。
自分の住所を思い出せない。記憶を辿ろうとするが、部屋の中で白い紙に向かっている様子は思い出せる。それ以外、何もわからない。マンションなのか、一軒家なのか。勝手に東京だと思い込んでいたが、それすらも怪しい。
「心配しないでいいよ。きっとうまくいくから」
不意に声をかけられて顔を上げる。
目の前に少年が立っていた。髪の毛は短く、白いTシャツにブルージーンズを着ている。何度も洗濯しているらしく、どちらもよれよれだった。
ややあどけなさの残る顔立ちからすると、高校生ぐらいだろうか。未来を見て輿微笑みを浮かべていた。
「ちょっと、それどういう意味、私のことを知っているの」
叫んだが、少年はすでに足早で歩き去ろうとしていた。追いかけようと思って立ち上がったが、よろめいて膝をついてしまった。
そのうち、少年は人影の中に消えていった。
未来は追いかけるのをあきらめ、ベンチに座り直し、これからどうすればいいか考え始めた。
すでに少年の姿は、頭から消し去られていた。