第58話 救い
淀んだ空気はそのままだったが、内部は意外に明るく、悠紀夫や未来の姿が見えていた。かといって、照明のようなものは見当たらない。この中自体が、ぼんやりと明るくなっている印象だ。
周囲が広くなっているのに気づいた。振り返ると、入り口が消えていた。違う世界に移動してしまったのだろうか。
――お前は儂の望みを拒否したというのに、何故ここへ来たのだ――
低くひどく嗄れた声だった。空間全体から響いているように思えた。
悠紀夫はその場へ平伏した。よくわからなかったが、亜美と未来も同じように正座し、頭を下げた。
「権現様、私の厚かましさは重々承知しております。けれどこうせねば、僕たちは終わってしまうんです。どうか、助けてください」
――ならば聞こう。儂は戦乱を平定し、天下泰平の世を作り上げた。お前が行おうとすることはそれに匹敵するか――
「お言葉ですが、そのような質問に意味はないかと思います」
「何……」
灰色だった空間が赤く染まりはじめた。思わず顔を上げ、周囲を見回した。
目の前に赤黒い雲のような物が立ち現れた。
人型に形作られはじめる。
甲冑?
雲は鎧甲に身を固めた男となった。
血走った目と、獣のような臭い。
見上げるほどに巨大な体躯だ。
そして、巨大な太刀を手にしている。
見ているだけで、圧倒されそうな気を放っている。
――切り捨ててしまえ――
「御意」
低く、腹に響く声だ。凄みを帯びた笑みを浮かべた。
カチャリと鯉口をきる音がしたかと思うと、抜刀し、鞘を捨て去る。
鉛色に鈍く輝く刃が現われた。
上段に構える。刃が悠紀夫に振り下ろされようとした瞬間。
「やめろっ」
悠紀夫の叫びが波動となって、目に見えた気がした。
甲冑の男に悠紀夫の叫びが衝突し、霧となって四散した。
「待ってください」
悠紀夫は立ち上がり、震える声で話し出した。
「権現様の辿った道は、何人もまねが出来ないのは明らかです。しかしながら、多くの者もまた必死で生きているのです。
権現様が為した事業も、そんな市井の人々がいなければ成り立たないことは明らかです」
「ならば、お前たちだけが救われるのはおかしいではないか。救われるならば生きとし生ける者すべてでなければならない。その中にはお前たちが殺した深川も含まれておるではないか。深川が救われず、お前たちがなぜ救われなければならぬのだ」
「霊性があるからです。霊性は深川にも宿しており、私たちにも宿しております。そして、この世にある善と悪を包摂する場が霊性でございます。
深川は悪でありました。しかし、その悪も霊性の大いなる力から立ち現れたものに違いありません」
「ならば、お前たちが受けた苦難も霊性によるものではないのか」
「その通りでございます。同じように、私が授かった力もまた霊性によるものであり、それを使うのもまた霊性の力であると考えております」
「霊性はお前の行為を許すと思うか」
「わかりません。しかしながら、僕たちは自分ができることを精一杯行います。後は霊性が決め手いただければと思います」
赤くなっていた空間が、今度は白くなっていった。
「よかろう。お主が持つ霊性の元へ赴き、審判を受けるがいい。
ただし、心して行けよ。過去にお前のような者が何人もいた。しかし皆、邪念に溺れて身を滅ぼしていった。お前の思いにわずかでも偽りがあれば、その体、一瞬のうちに朽ち果てるであろう」
急に心が軽くなっていくと同時に、今まで何かに押さえつけられていたのだと気づいた。権現様という奴がいなくなったのだろう。悠紀夫はほっと息を吐いて立ち上がった。亜美も立ち上がる。
「ねえ、これって一体なんなのよ」
「ここは生と死の中間なんだ。この先にはあるのは霊性の本体さ」
「どうして悠紀夫はそんなことを知っているの」
「僕は小さい頃から、他の人には見えないものが見える体質だったんだ。仏様や大木に宿る精霊とかね。最初は友達とか親に喋っていたんだけど、そんなものあるわけないとか言われて、ようやく他の人には見えないと気づいたんだ。
ちょうど亜美が浅畑学園に頃、僕は不思議な夢を見るようになったんだ。なんだか偉そうな殿様が出てくるんだ。最初は起きるとすぐに忘れちゃうんだけど、何度も見ていたら、だんだん覚えられるようになってきたんだ。
久能山へ来いと言うんだよ。最初は無視していたけど、毎晩出てきて気味が悪いから、こっそり行ってきたのさ。
そこで、夢に見た人物――徳川家康に会ったんだ。