第57話 世界を変える
「悠紀夫君の言っている意味はわからない。だけど、このままあそこに戻ってもあたしはやり直せない。もう、心も体もぼろぼろ。だったらついていくわ」
未来は思い詰めたまなざしを悠紀夫に向ける。
「亜美はどうする」
苦悶の表情を浮かべてのたうち回る深川。床に広がる血。あたしは人殺しだ。帰る場所なんかない。
「ついていくわ」
「わかった」
悠紀夫が祈るように目を閉じ、両手を合わせた。一瞬、体が光ったように見えた時だ。
中心から、風が吹き出てきた。
爆風のように、強い勢いだ。
炎が外へ向かって飛ばされ、石灯籠が倒れた。
「些細なことにこだわり、命を賭するとは、愚かだな。天下を取り、その女どもを側室として迎え入れればすべてが解決するではないか」
「僕が欲しいのは天下なんかじゃない。今ある幸せだけなんだ」
「だからこそ、徳川の世を再興させねばならんのだ。明治維新後、文明開化などとうぬぼれていたのもつかの間じゃ。いくつもの戦が起き、多くの者が死んだ。この間、本当に人が幸福になれたのか。
無論江戸幕府を開くまでに、権現様は血で血を洗う戦いを制してきた。
しかしその後、二百六十年あまり平和を維持できたのだ。権現様の再興は日本を再び平和にすることでもあるのじゃ。
そして、お主は世界を平定できる力を持っている」
「天海様、お言葉ですが、現在は民主主義という、すべての民衆が政に参加し、方針を決定する体制であります。それを江戸幕府の体制へ戻すというのは無理があるのではないでしょうか。
江戸幕府が倒れたのは直接的には薩長の力です。しかし、本質的には権現様に変わる、新たな霊性が日本に立ち上がったからだと思うのです」
「つまり、権現様は既に古い霊性であるというのだな」
「その通りでございます」
「貴様……」
倒れていた石灯籠が再び立ち上がり、炎を燃やしはじめた。
さっきよりも更に激しい。熱いを通り越し、息苦しさと痛みを感じる。
「権現様を侮辱するとは前代未聞であるぞ」
悠紀夫が手を合わせて祈るが、炎の勢いは衰えない。むしろ、強まっていくように思える。
髪の毛が焼け始め、焦げ臭い匂いが発生した。
このままでは焼け死んでしまう。怖くて、悠紀夫の体を強く抱きしめる。
もうだめだと思ったときだ。
不意に炎が消えた。さっきのぼんやりとした明かりに戻っている。ほっと息を吐きながらも、あまりの変わりようにあっけにとられていた。
悠紀夫も驚いて辺りを見回している。そればかりではない。天海までもが驚愕して目を見開き、周囲を見回していた。
くくくく……。
どこからか、低い声音の笑いが聞こえてくる。
焼けるような熱さから一転して、冷気を帯びた風が吹いた。体を貫くように、芯から凍えてくる。
「ああ……。権現様じゃ」
天海が慌てて平伏した。
石台のかんぬきが外れ、柵が開いた。
まるで、あたしたちに上がってこいと言っているかのようだった。
「行こう」
悠紀夫は亜美と未来を見た。
「あの先に……。何があるの」
「時空のゆがみ。あるいはほつれと言ってもいい。
みんな意識していないと思うけど、空間というのは均一なものじゃない。数え切れないほどの世界が積み重なり、微妙なバランスを取っているんだ。
世界は生きている。だから成長して大きくなったり、逆に死んで消滅したりする。病んで歪むことだってあるんだ。
そのたびに世界同士は不安定になるけど、それを調整する特異点があるんだ。
それがこの場所なんだ。
特異点があることによって、本来不安定な世界を安定させている。
この特異点に入って世界を不安定化させれば、世界を変えることも可能なんだ」
「世界を変える……」
怯えきったように、顔を上げることもない天海と、柵の開いた石塔を交互に見る。怖かったが、あたしには後がないのを意識する。
「行きましょう」
未来は既に腹を決めているようだった。
三人は歩き出した。階段を上り、石塔の前に立つ。
石塔の扉が開いた。
内部は暗くて何も見えない。
わずかに、かび臭い淀んだ空気を感じる。
「この中へ入れというの」
「多分……」
一瞬、三人は顔を見合わせたが、意を決して悠紀夫が中へ入っていく。亜美と未来も後に続いた。