第55話 逃げよう
「ぐぇっっ」
気がついたとき、深川が腹を押さえて倒れていた。大量の血がカーペットに広がっていく。
指が白くなるほどに包丁を強く握りしめていた。痙攣するように刃先が揺れている。
包丁から胸にかけて、深川の血が、べっとりと付着している。
「亜美、離せよ」
悠紀夫が亜美の手を掴み、包丁を引きはがそうとした。しかし、亜美はがっちりと掴んだままだ。
亜美自身も離したかったが、頭の指令は手に届かず、握りしめたまま動かない。悠紀夫は力を込め、指を一本一本引きはがしていった。
ようやく包丁を取り上げ、カーペットに捨てた。
「あたし、もうおしまい……。人を殺しちゃった」
深川の血だまりはみるみるうちに広がっていく。まだ呻いていたが、既に顔は蒼白で、全身から生気が失われていくのがわかった。
「亜美、一緒に逃げるんだ」
「どこへ逃げるって言うのよ。逃げられる場所があるなら、とっくに逃げているわ」
「天海様なら、今の俺たちならきっと願いを聞いてくれるかもしれない」
「天海……。誰なの?」
「偉い坊さんだ」
「でも、きっと警察があたしを捕まえにくるに決まってるわ。逃げ切れる場所なんてないわよ」
「もし、逃げる場所がこの世界じゃないとしたら」
「どういう意味なの。外国へ逃げるとかなの」
「もっと遠い場所さ」
「言っている意味がわからないわ。外国より遠い場所なんてあるはずないでしょ」
「俺についてくればわかる。さあ行こう」
「待って」ベッドから弱々しい声か聞こえてきた。未来だった。「あたしも連れて行って……」
嗚咽が漏れてきた。
「ねえ、お願い……。もう生きていられないの。心も体も死んでると一緒。
深川に首を絞められたとき、怖かったけど、同時にうれしかった。これで楽になれるって思ったの」
首をゆっくり亜美たちへ向けた。虚ろな目に、わずかな力が宿っているのがわかった。涙が溢れていく。
悠紀夫は頷いた。「亜美、彼女に服を着せてくれ」
三人は廊下に出た。叫び声は周囲に響き渡っていたはずだが、誰も出てくる者はいない。みんな、関わるのを怖がっているんだと思う。
「大丈夫? 歩ける」
未来はおぼつかない足取りだが、強く頷いた。一階に下りて、深川の部屋へ入って自動車の鍵を持ち出した。外に出て、駐車場に置いてあるバンの鍵を開けた。
「乗ってくれ」
未来を押し上げるようにして後部座席に乗せ、悠紀夫が運転席に着いた。
「運転できるの?」
「多分」
エンジンをかけ、戸惑いながらもブレーキとヘッドライトのスイッチを探し当て、ギアをドライブに入れた。ゆっくりと走り出す。
バンは浅間通りを抜けて駿府城の前を抜けた。悠紀夫はぎこちない動きながらも、どうにかバンを運転できていた。
吸い込まれるようにして伝馬町通りへ入っていく。普段は通行人で激しく行き交う交差点も、平日の深夜ということもあり、誰もいなかった。バンは国一と南幹線を越えていく。しばらくして、悠紀夫の様子がおかしいのに気づいた。
「悠紀夫、もしかしてあなた、自分で運転していないんじゃないの」
「……ああ」悠紀夫は戸惑いながら亜美を見た。「勝手に動いているよ」
悠紀夫は手をハンドルから手を離したが、それでも道を外れることはない。
Tの字路へ差し掛かると、バンはなんの操作もしていないのに左折した。
波の音が聞こえてくる。海に来ていた。風が強く吹いており、時折風にあおられてバンが揺れた。
「どこへ行くの」
「もうすぐ着くよ」
そう言ったきり、悠紀夫は黙りこくる。
バンは再び左折した。シャッターが閉まった商店が建ち並ぶ道の先に、ぼんやりと街灯に照らされた灰色の鳥居があった。
この先の階段を上りきった場所に、久能山東照宮がある。
徳川家康の死後に遺体が埋葬され、その後、日光へ移されたと覚えていた。小学生の頃に一度上ったことがあるが、それきりで、今まで存在すら意識したことがなかった。
鳥居の手前でエンジンが停止した。静かになった車内に、耳障りな風切り音が響いていた。
「ここで下りて山へ登るんだ。未来は歩けるか」
「うん。大丈夫」
バンから下りた。潮風は強く、湿り気を帯びていて、肌がべとつくような不快感があった。波のぶつかる音が、震動のように足下から響いていた。
鳥居の向こうを見上げる。緩やかな斜面の奥は真っ暗で何も見えない。闇の中で木々が風にあおられ、揺れているのが辛うじてわかった。
「さあ行こう」
悠紀夫は歩き出すが、亜美は躊躇した。
「ねえ、ここに隠れるつもりなの?」
「隠れるんじゃないだよ。変えるんだ」
「言っている意味がわからないわ」
「来ればわかるよ」
一旦振り返った悠紀夫は再び前を向き、坂道を上りはじめた。
「どうする……」
「行きましょう」
未来は亜美を見て頷き、歩きはじめたので、亜美も一歩踏み出した。