第5話 来栖未来の記憶
ここはどこなんだろう。来栖未来は辺りを見回し思う。
行き先と時刻を表示したポールがいくつもあり、それぞれ何人かの人が並んでいた。ここはバスターミナルらしい。広場になっているのはロータリーなんだ。
そう思っているうちに一台の路線バスが到着し、乗客を吐き出し、待っていた人々を吸い込んでいった。バスが動きだし、目の前を通り過ぎていく。
空はどんより曇っており、太陽が見えない。湿った風が頬を嬲り、体全体がじっとりと汗ばんでいるのに気づいた。
ポールに近づいて、地名を見てみる。日本平と書いてある。聞いたことがなかった。
ここは一体どこなんだと思い、振り仰いで反対側の建物を見た。JR静岡駅と書いてあった。
静岡か。いつの間にこんな場所へ来てしまったのか記憶が抜け落ちていた。思い出せる記憶を引きずり出そうとしたが、ディテールが見えてこない。なんだか、もやがかかっている気がするのだ。
神経を集中して、もやを振り払おうとした時だ。
痛い……。頭が焼けるように痛くなりはじめた。思考を中断するが、痛みは止まらない。 記憶が動き出していく。薄膜が破れ、何かがどっと溢れ出てくるような感覚だ。
「ううっ……」
思わずうめき声が漏れ、そのまましゃがみ込む。
――どうかしましたか――
どこからか声が聞こえてきたが、反応する余裕がなかった。
真っ白な紙が見える。シャープペンを手に取り、ペン先を紙の上に置き、動かそうとする。
あたしは一体何を書いたらいいんだろうか。
何も思い浮かばない。
手を離そうとするが、体が動かない。
書けない……。でも、逃げられない。
白い紙が迫ってくる。
ああ、怖い。
頭が痛い。
助けて。
「どうしたんですか」
肩を揺さぶられた。目を開けると、灰色の空と、見知らぬ男の顔。
背中がひんやりとしている。しゃがんでいたつもりが、いつの間にか倒れていたのだ。
「救急車を呼んだ方がいいですか」
男は心配そうな顔で見下ろしていた。
「大丈夫です。ちょっと頭が痛くなったんですけど、だいぶよくなりましたから」
本当だった。食道に詰まっていた物が胃へ落ちていったように、すっきりしてきた。もやがかかっていた記憶が、脳の中にすとんと落ち着いたような気分だった。
ゆっくりと起き上がる。血の流れが変わったのか、再び頭に鈍い痛みを覚えた。それでも、さっきよりはずいぶん軽い痛みだ。
「本当に大丈夫ですか」
「ええ。ご迷惑をお掛けしました」
「そこに座って休んでいた方がいいでしょう」
男が近くにあったベンチを指差した。
「ありがとうございます」
よろけそうになるが、バランスを取り、五メートルほど先のベンチにたどり着いて座った。大きく息を吐いた。
「あの……。もしかして、来栖未来さんじゃないですか」
「え?」
男は戸惑いながらもわずかに微笑み、未来を見ていた。
「そうですが……」
「やっぱり」
微笑みが顔いっぱいに広がっていく。今度は未来が戸惑う番だった。切れ長の目和した男。見覚えがない。まだ記憶が飛んでいるのか。
「あの――」
「僕、来栖先生の大ファンなんです」興奮気味に男がしゃべり出した。「〈忍び寄る陰〉全巻持ってます」
〈忍び寄る陰〉?
脳に落ちた記憶の塊が、爆発するようにあふれ出していく。
ああ。そうだ。
心臓が激しく鼓動し始める。