第34話 葦名
背後から声がしたので振り返ると、いつの間にか男が立っていた。見上げるくらいの長身で、全身真っ黒な作業服を着ている。かなりの年らしく、顔は皺だらけだが、くたびれた印象はない。背筋をしっかりと伸ばした姿は、威厳すら感じる。
「おやっさん……」
弘樹が緊張した声を出した。どうやらこの男が現場の親方らしい。
「また向かいの親爺が工事をやめろと騒いでいる。監督はそっちにかかりきりだし工事も中断だ」
「はい……」
「ついでにこの人たちを送ってやんな。どうせやることもないんだ」
「いえいえ、会社に連絡を取って、迎えに来てもらいますから大丈夫です」
「早坂社長、ここはこの人の言葉に従った方がいいかと思います」
福井が顔を強ばらせながら口を挟んできた。
「どうしてですか」
「それは」一瞬、言葉に詰まりながらも話し出す。「今まで、不思議なことが起きていますから。何かあったとき、僕たち二人だけでなく、他に目撃者がいた方がいいんじゃないでしょうか」
「だから社員を迎えによこすって言っているでしょう」
「待っているときに何かあったらどうします」
この人、どうしてこの人たちに送ってもらうことにこだわるんだろうか。言い方にも含みがある気がする。
ちらりと親方を見る。腕を組み、厳しい視線をこちらに向けている。
この人も、何かあるような気がしてならない。
「わかったわ。乗って行きます」
「じゃあこっちへ来てください」
弘樹は立てかけてあるはしごを上った。亜紀と福井も後に続いた。
「あんた、うちの親方と知り合いなのか」
「いいえ、初めてですけど」
「うちのおやっさん、規律に厳しい人なんだがな。なんで監督に言っていかないんだろう」
親方の言うとおり、地上で仕事をしている人はいなかった。遠くで誰かの怒鳴り声が聞こえている。抗議している人なんだろう。
駐車スペースに何台か車が置いてある。弘樹はその中にある黒いハイエースのドアを開けた。埃一つない、きれいな車体だった。
「新聞敷くからさ、ちょっくら待っててよ」後部ハッチを開けて新聞紙を取り出し、後部座席に敷いた。「車を汚くしてるとおやっさんに怒られんだよ」
「すいません」
新聞紙を敷き終わった座席に座った。弘樹は運転席に乗り込みエンジンをかける。
「俺も乗っていこう」
助手席のドアが開き、黒い作業服の親方が乗ってきた。
「はい……」
弘樹が顔を強ばらせていた。福井も同じように強ばった表情をしている。
弘樹が緊張するのはわかる。しかし、福井まで怯えた様子を見せるのは変だ。
「さて、どこまで行ったらいいですか」
「銀座へ行ってください」
「悠紀夫はどうする」
「僕は……。静岡へ帰りたいので、東京駅へ」
「了解、葦名タクシー発進しまーす」