第32話 あんた……誰?
亜紀は立ち上がろうとして天井に力を込めるが、びくとも動かない。後ろへ下がってみようと、しゃがんだ状態から、四つん這いになると、更に天井が落ち、背中を押さえつけた。
「クソッ、どうなってんの。福井さん、ここから出してちょうだい。あなたなら出来るでしょう」
「それが……だめなんです」
「どうしてよ。さっきは窓ガラスを触っただけで消しちゃったじゃないの」
「僕も努力したんですけどだめでした」
「はあ? じゃああたしたち、一生このままでいろって言うの」
――これでもう動けない。永遠にね――
まさか本当にこのままの状態が続くんじゃないだろうか。由井の言葉を思いだし、恐怖を覚える。
ゴンッ、ゴンッ、ゴンッ。
天井から音が響いてきた。今度は何が起こるというの。まさか、あたしたちを完全に押しつぶそうとするつもりなの。暗闇の中、恐怖で全身が痺れたように感じてくる。
外側から、たたきつけるような振動が背中に伝わってくる。
「あ……」
目の前の天井がひび割れ、明かりが漏れてきた。
「きゃあ」
次の瞬間、天井が破れ、何かが勢いよく落ちてきた。
スコップだ。工事で使うような大型の物だった。
スコップは無造作に引き上げられ、再び、天井に振動が響いてくる。割れ目が崩れ、破片が落ちてきた。スコップを操っている者は、穴を開けようとしているらしい。明かりが漏れてくる。まぶしくて目を細めた。
「何が起きているんですか」
後ろを向いている福井が聞いてくる。
「天井に穴が開いてるわ、外からスコップで天井を壊しているのよ」
穴がサッカーボールが入るほどの大きさにな他ところで、スコップの当たる音が止んだ。
穴から何か入ってくる。
人間の頭だ。
黄色のヘルメットを被った男だ。大きな顔で、分厚い唇と太い眉、目と鼻も大きい。ねぶた祭の山車に出てくる男みたいな顔をしていた。
「うわっ」
「ひぁっ」
目が合い、二人で悲鳴を上げる。
男は一旦外へ出たが、再び恐る恐る顔を入れてくる。
「あんた……。誰」
「あなたこそ誰よ」
「俺はこの現場で土方をしている望月だ」迫力のある顔をしていたが、怖いのだろう。かなり目が泳いでいた。「こんなところで何してんだよ」
「何って……。閉じ込められたのよ。もしかして、埋もれたところを救出しに来てくれたの」
「言ってる意味がわかんねえんだけど。おいら、マンションの工事で穴掘ってたんだぜ」
「それ、どういうこと?」
「俺の方が聞きたいよ。ここ、地上から五メーターもあるんだぜ。地下道でも出来てんのか」
「わからないわ」
「ともかく、この石を壊してやるからよ、外に出ろ」
背中から振動が響き、ばらばらと石の破片が落ちてきた。
圧力が消えた。力を込めて立ち上がった。天井が崩れていく。
「ああっ」
背後から引っ張られ、背中に衝撃を受ける。
目を開けると、太陽が視界に入り、まぶしくて瞬きをする。
「大丈夫か。思いっきり出てくるからだ」
日光を遮り、望月の顔が現われる。
どうやら、地面に倒れているらしいのに気づいた。
立ち上がったというのに?
膝から下はまだ割れ目の中に入っていた。確かにあたしはここから立ち上がったはずだ。それなのに仰向けに倒れていて、背中は泥の臭いがする地面に着いている。
ブラウスへ冷たい泥水がしみてくるのがわかる。肘を突いて、ゆっくり立ち上がる。
ひどい頭痛がしてきた。少し吐き気もする。
「立てっか」
「ええ。でも、もう少し休ませて」
見上げると、望月が立っていた。がっちりとした体で、作業服を着ている。周囲は土壁になっていて、パワーショベルが置いてあった。
「ここはどこなの……」
「見りゃわかるだろ、工事現場だよ。マンションを作ってんだ」
「あたしは駿府城のお堀りに落ちて、閉じ込められたはずなの」
「はあ? 駿府城は静岡だろ。ここは東京台東区」
「それ……。本当なの」
「おめえ、ぼけてんじゃねえのか。なんでおいらが静岡で働かなくちゃなんねえんだよ。ここは間違いなく東京だ」
「おーい、どうなっているんですか」
穴から声が聞こえてくる。
「なんだ。もう一人いんのかよ。ちょっくら待ってろ」
男は穴を覗き込んだ後、スコップを持って石壁になっているところをたたき始めた。石壁にひびが入っていく。
小さい穴が出来たところで打撃を弱め、石を崩していく。穴が拡大し、福井の背中が見えた。
「もう出れるだろ。この姉ちゃんみたいにひっくり返えんなよ」
福井が体を起こす。
「うわっ」
立とうとした福井が背中から落ちそうになる。それを男が抱きとめるようにして防いだ。
「ほら、引っ張るぞ」
脇を抱え、後ずさりながら福井を引き出した。
「ほら、全部出た」
地に足が着いたところで手を離した。
「ちょっ、ちょっと。どうなってんだ」
福井はふらふら体を左右に揺らした挙げ句、バランスを崩して倒れた。
「あーあ。おめえも服がぐちゃぐちゃになっちゃったじゃねえか」
「上下の感覚がおかしくなっているんだ」
「なに訳のわからねえ話してんだ。下は下、上は上だろうが」
男がまじまじと福井を見る。
「て言うかお前、悠紀夫だろ」
「弘樹さん……ですか」