第31話 望月弘樹、石に当たる
望月弘樹は喫煙所でうんこ座りをしながら、二本目のタバコを吹かしていた。
頭上からはギラギラした太陽が照りつけ、脳天を焦がしていく。昨日の雨で出来た茶色に濁った水たまりから、水蒸気が立ちのぼる。
湿り気を帯び、土の臭いと混じり合った風が不快だった。いくらタオルで首を拭っても、汗がべっとりと付着した感覚は消えない。
暑さにはうんざりするが、その一方で泥臭いこの場所にいると落ち着く自分もいる。新聞配達、ホスト、デリヘル嬢の送迎、コンビニの店員。過去、いろいろな職に就いたが、ここ数年浮気はしていない。
「弘樹よ、しかしひでえ話だな」葦名はしかめっ面をしながら、珍しく色の付いていない新聞を拡げ、熱心に読んでいる。「死人が八十九人。まだ増えるかもしれないとよ」
「おやっさん、俺らにもお回りが聞きに来るンすかねえ」
「あるだろうな、基礎を作ったのは俺らだからな。これだけでかい事故なんだから、警察も徹底的に調べるだろうし。ま、手抜きなんか一切しちゃあいねえから、びびる事あねえや。それとも、なんかまずい話でもあるんか」
皺だらけの顔に浮かぶ目が鋭く光る。
「いえ……。大丈夫っスよ」
全くないと言えば嘘になる。十代のころ、悪い仲間に引っ張られてかっぱらいの片棒を担いでいた時期もある。喧嘩もよくやった。けれど、みんな過去の話だ。
「新聞、ちょっと見せてもらえますか」
「おめえでも字なんか読めんのか」
鋭さが一転し、子供のような目をして笑う。
「こう見えても、中学ぐらいは出てますからね。親方こそ、逆さまに読んでんじゃないんスか」
「バカ言え。ほら」
渡された新聞を拡げる。死者の名前と顔写真は社会面にずらずらと載っていた。その中から一人の女性を見つけ出す。
あった。画像が粗くてわかりにくいが、少々タレ気味で愛嬌のある目は間違いない。下に、小島由利恵と書いてあった。こんな名前だったのかと思う。
「知り合いでも死んでんのか」
「この子、前に通ってたキャバクラにいたんですよ。昨日行った店で話が出まして、びっくりですわ」
「その女とやったのか」
「撃沈スよ。何度も通ったんですけどね、金のない奴には目もくれない女で」
「だったら全然だめだな」
葦名はゲラゲラ笑った。
「おやっさんがもう少し給料上げてくれればよかったですけどね」
「馬鹿野郎。だったらもっと稼げる仕事でもしやがれ」
一転して苦虫をかみつぶしたような顔になる。金の話をするとすぐこれだ。これで舌打ちすると、更に怒りはじめるので、ぐっとこらえる。
もちろんない袖を振れないのはよくわかっている。一戸億単位で販売されるようなマンションを建てても、自分たち職人に回ってくる金なんぞ、すすめの涙にもなりやしない。ただ、そんなに怒らなくてもいいじゃないかとも思う。
「もう時間だ、行くぞ」
弘樹は立ち上がりながら新聞を返し、灰皿に吸いさしを突っ込んだ。内側から汗の臭いが漂うヘルメットを被り、現場へ向かう。
前を葦名が歩いている。身長百七十六センチの弘樹に対して、葦名は一回り以上小さい。多分六十センチ前半じゃないかと思うが、怖くて聞いたことはない。
ただ、その姿は独特の存在感を放っていた。うだるような暑さの中でも背筋を伸ばし、黒い作業服で、汗一つかかずに作業をする姿は畏怖すら覚える。
噂によると、若い頃は雑誌でも度々名前が出るやくざ組織で幹部をしていたらしい。服を脱ぐと背中に見事な龍の絵が描かれているらしいが、これも怖くて本人に聞いたことはない。
堀りかけの穴に入っていく。風がないだけ蒸し暑い空気が溜まっていて、息をするのも苦しい。
せめて半袖で作業させてもらえたらと思うが、親方に言っても怒鳴られるのが関の山だ。
親方の操るユンボが正確にH鋼に沿って土を掘り起こしていく。弘樹は土壁になった部分をスコップで削り取り、H鋼の間へ矢板をはめ込んだ。大量の汗が噴き出し、顎からしたたり落ちて土にしみていく。
「弘樹、ちょっと小便いってくらあ」
葦名がユンボから叫んだ。
「はーい」
なんだよ。作業が始まってからすぐションベンなんて、おやっさんらしくねえな。斜面を登っていく葦名の姿を見送った。
ガキッ、両手に衝撃が伝わった。スコップの先端に障害物が当たったのだ。
「なんだよ――」
スコップで障害物の土を削り取った。人の胸ほどの高さをした石の表面が出てきた。矢板をはめようとするが、石が邪魔になる。ユンボで掻き出せればいいのだが、どこまで奥行きがあるのかわからない。
「ったく。どうなってんだよ」
解体屋が土地を更地にする時、建物だけでなく、地中の障害物も取り出す契約をしているはずだ。境界付近なので見落としたのか。いずれにしろ、問題になるのは間違いなかった。
スコップを地面に突き刺し、軍手で表面の土を落とす。上部を掴んで動かすが、びくともしなかった。簡単に取り出せればいいのだが、日数がかかって工事が中断すれば、日給月給の身としては少々つらい物がある。
コンクリートブレーカーで表面だけ砕くという手もある。だけど向かいの親爺がうるさいとか言って怒鳴り込んで来るんじゃないか。
あいつ、トラックの出入りだけでも文句言ってきたからな。ガンガン音を立てればまた騒ぎ出すに違いない。
「くそったれ」
拳で石にパンチを食らわせる。
「ん?」
軍手を外し、ノックするように手の甲で叩く。軽い音が響いた。中は空洞になっているらしい。
さてどうしよう。周囲を見回す。他の作業員はいない。こういうときは監督にいちいちお伺いを立てなければいけない。しかし、あの大学出たての兄ちゃんじゃあ、らちがあかなくなるのは火を見るよりも明らかだった。
ここは一つ、石なんかないと思ってたということにして。
弘樹はスコップを逆手に持って振り上げ、思いっきり石の表面に突き刺した。