第29話 玉山と未来が彷徨う
地面が動かない地点まで、どうにか逃げられた。玉山は荒い息をしながら周囲を見回す。横には、死にそうな顔で自分より更に激しく息をしている女性がいた。さっき初めて会ったばかりなはずだが、それより前、どこかで見覚えがある気がする。思い出せない。
恐る恐る堀があった方を見る。さっきまであったはずの建物は消失し、堀もない。公園らしき広場が広がっているだけだ。異変を感じた人々が続々と集まりだしていた。
早坂さんとあの男の姿はなかった。堀の中に飲み込まれてしまったのだろうか。気になったが、正直自分の身の安全の方が大切だ。
「逃げよう。あの由井とかいう男がまだいるかもしれない」
女性に呼びかけた。彼女は頷き、よろめきながら立ち上がり、歩き出した。
「人の多い場所。そうだ、駅へ行こう」
記憶を辿り、橘に連れられてきた道を戻りはじめた。
「すいません、お名前を教えもらえますか」
「来栖未来と申します」
「来栖さん……」
未来の顔を改めて見て、あっと声を上げた。
「もしかして、漫画家の来栖未来さんですか」
「はい……。そうです」
「前にネットのニュースで見たことがありますよ」
玉山は青年誌系のマンガ好きだったので、彼女の書いたマンガは読んでいなかった。確かラブコメでミリオンセラーを出しているはずだ。
「あなたは……。サッカー選手の方ですね」
「はい、玉山政伸です。ブラジルのジャカレFCに所属しています」
「ああ……。そうなんですか」
未来の微妙な表情の揺れ具合を見逃さなかった。あの事件を知っているのだろう。苦い記憶が蘇ってくる。
「でも、どうしてここにいるんですか」
「地震で新幹線が静岡で止まりまして、さっきいた宿に泊まろうとしたんです」
「宿って……」
「と言うと、来栖さんはあの建物がなんだと思っていたんですか」
「私は古本屋に入ったつもりだったんです。実際本がたくさんあったんですけど、いつの間にかあんな部屋がいくつもあるような場所へ来てしまったんです」
玉山は立ち止まり、未来を見た。
「いなくなった早坂さんはあそこが病院だったと言っていました。自分はホテルだと思っていました。来栖さんは古本屋だ。一体どうなっているんでしょうか。それにあの宙に浮いていた男。自分にとって、あいつは個人マネージャーで、橘という名前でした。来栖さんは違う名前を言っていたかと思いますが」
「はい……。あの人は私に久米と名乗り、古本屋を経営していると言っていました」
「詳しい話を教えていただけませんか。まず、どうしてここへ来たのか」
未来は困ったように首を横に振った。
「それが、私にもどうやってここへ来たのかよくわからないんです」
「手がかりみたいな物はないんですか」
彼女の顔がわずかに顔が曇った。何か言い淀んでいる。
「気になったこととか、何でもいいんです。教えてください」
それでもまだためらっている様子だったが、視線を落とし、ようやく口を開いた。
「実は私、原稿の締め切りを落としてしまったんです。それで頭が真っ白になってしまって……。気がついたときには静岡駅にいたんです。きっとパニックになって、記憶が飛んでしまったんだと思うんです」
「原稿が書けなくなってしまったんですか」
「はい。お恥ずかしい話ですが……、全くアイデアが湧かなくなってしまったんです」
「なんの前触れもなかったですか」
「ええ。記憶が曖昧ですけど、確か突然だったと思います」
「自分も同じでした。なんの前触れもなく、膝の痛みが突然起きたました。おかげで大切な試合に出場できなくなり、日本へ逃げ帰ってきたというわけです」
「そして同じようにここへきて、妙なトラブルに巻き込まれている。これって、何か意味があるんでしょうか」
「わからないです」玉山は首を振った。「次に行きましょう、宙に浮かんでいた男との関係を話してください」
「あの人とは静岡駅の前で知り合いました。古本屋を経営している久米と名乗っていて、自分のマンガを持っているという話でした。出版社がわかれば編集者と連絡が付くと思い、マンガを見せてもらいに古本屋へ行ったんです。そうしたらあの深川とか言う男に襲われて……」
「来栖さんが久米と言っていた男は、自分に橘と名乗っていました。私の個人マネージャーで、ブラジルへ渡るとき一緒に来てもらいましたから、もう付き合いは二年以上になります」
「そんな人が静岡で古本屋を経営するなんて、不可能だわ」
「確かにそうです」
「真っ暗な闇に包まれたホテルから脱出したとき、外は日が出ていた。堀が周囲を引き込むようにして消えていった。
私、思うんです。私たちが見ているこの世界って、現実じゃないのかと」
「俺たちが、幻を見ていると……」
「そうとしか考えられないんです」
「じゃあ、どうやれば現実に戻れるんだ」
「わからないわ」
未来は首を横に振った。
「早坂さんと落ちていった福井という人は何をしている人か知っていますか」
「いいえ……、知りません」
「どうも、あの人が何か知っているんじゃないかと思うんだ。俺たちがパニックを起こしているのに、あの人はずっと冷静だった。最初、堀に落ちたあなたを助けたのもあの人だったし」
「そういえば、ビルの窓を開けたもあの人でした。深川を殺したのも――」
「殺した?」
「ええ。深川は首を絞められて殺されたんです。たしかに見ました」
「それでまた生き返ったというのか。まあ、こんなにおかしな事が起きてばかりいるのだから、殺した奴が生き返るのもあり得るんだろうけど」
未来は頷いた。
「あの人を探して、問いたださなければ」