第25話 倒れる
東京、六本木。眼下にはきらびやかな夜景が広がっている。ここは再開発で去年立てられたばかりのタワーマンションの最上階だ。
ここ、二億円したんだぜ。隣でいびきをかいて寝ている男が自慢げに呟いていたのを思い出し、由利恵は笑みを浮かべる。
四年前までは家族五人、家賃八万円の岐阜にある築二十七年のくすんだマンションで暮らしていた。
三人姉妹だからと言う理由で、子供部屋は一室しかなく、プライバシーが欲しくなる思春期を下の妹たちと過ごした。
目を輝かせ、自分の携帯を盗み見する次女。小四になってもおねしょの癖が抜けない末っ子。
二人とも薄汚い動物だと思っていた。そして何より貧乏な両親。二人とも朝から晩まで働いているというのに、何かと言えば金がないと言う言葉を繰り返す。
みんな嫌だった。
こんな息苦しい生活に嫌気を起こして、高校卒業と同時に上京した。多少とも容姿に自信はあったので、漠然と女優やアイドルになれたらと言う思いはあった。
けれど上京半年であっさり挫折した。自分ぐらいの顔なんて、田舎では貴重だが、この町にはいくらでもいる。ワンルーム五万円の安アパートで漫然とバイト生活をしているうち、一緒に働いていた友人に誘われ、夜の世界に踏み込んだ。
元来ノリのいい性格と負けず嫌いが幸いして、店のナンバーワンに上り詰めた。急に欲が出始めて、五反田の店からワンランク上の新宿の店に移籍した。今は六本木にある会員制のクラブでホステスをしている。隣で寝ている男とはそこで知り合った。
これまで付き合った男は、ことさら自分の資産を自慢するような成り上がり系ばかりだ。理由は自分でもわかっている。彼らに自分と同じ臭いをかぎ取れるからだ。
どんな高級品を身にまとっても消えない、田舎の泥臭い匂い。
弁護士とか、エリートサラリーマンに口説かれるときはあるが、決して最後まで行くことはなかった。
喉が渇いてきた。水を飲むためベッドから抜け出す。床に足を着いた時、バランスを崩して転びそうになった。まだ酔っ払っているんだと思い、下半身に力を入れてキッチンへ歩いて行く。
冷蔵庫を開けてミネラルウォーターがないか一応確認する。予想通りそんな小洒落たものはなく、あるのはコーラと缶ビールばかりだ。棚にあるのはサラミとチーズにキムチのパックだけ。由利恵は笑みを浮かべて扉を閉めた。
コップに水道水を汲んで一気に飲み干した。ベッドに戻ってもう一眠りしようと思い、寝室向かうためリビングを横切る。
中央にあるローテーブルの横を通り過ぎようとしたとき、再びバランスを崩してすねをテーブルに当てた。衝撃でビールの空缶が落ちて転がる。慌てて拾おうと思い屈んだが、缶は思いの外転がり続けた。
違和感を感じた。
缶はテーブルから垂直に落ちたはずなのに、スピードを落とさず窓に向かって転がり続ける。
コトンと音を立て、窓の下枠に当たって止った。缶のあるところへ歩き出す。
由利恵自身も、まるで突き動かされるようにして予想以上の勢いで動いた。思わず窓に手を突いた。
手にわずかな振動を感じた。
それは急速に強くなっていき、すぐに体全体で感じられるようになっていった。
テーブルとソファがゆっくりと動き出し、こちらへ向かってきた。
窓に当たって止る。
「何、どういうわけ」
窓を見る。
さっきまでとは違っていた。
夜景が斜めになって見える。
まさか……。
床が傾いていた。
ぐぉぉん。ぐぉぉん。下から不気味な響きが聞こえてきた。
マンションが傾きだしていた。
立っていられないほど傾斜がきつくなるのに、それほど時間はかからなかった。
振動がマッサージ機のように、細かく強く響いている。
今まで見下ろしていたはずのビルが、目前に迫っていた。
体重が軽くなる。まるで無重力の中にいるように。
落ちている。
由利恵は声にならない悲鳴を上げた。