第16話 再び絡まれる
「ここは……」
橘に連れられてきた建物は、二階建ての古びた鉄筋ビルで、しゃれた雰囲気は一切なかった。建物の前は運動でもするためか広場になっていて、保育園のような雰囲気だった。
「元々は会社の保養所だったそうですよ」話し始めようとした玉山を先回りするように、橘が説明しはじめた。「その会社も景気が悪くなりはじめたので、有効利用と言うことで、一般の人も受け入れし始めたそうです」
「へえ……。そうなんですか」
最近はホテルが足りないと言われているから、こんな建物でもニーズはあるんだろう。でも、決して進んで泊まりたくないなと思う。
広場を横切ってエントランスへ入る。しかし、と言うか予想通りというか、ロビーは公民館の受付のように殺風景だった。橘がカウンターにいる小太りの女性に近づき、サインをして鍵を受け取った。
「部屋は二階だそうです」
二人はカウンターの奥にある階段へ向かった。照明が切れているのか薄暗い。
「この建物、エレベーターがないようなんですよ。荷物、お持ちします」
「済まないけど頼むよ」
もちろん自分で持ち上げられるが、極力足に負担はかけたくなかった。両手で荷物を持った橘が先に上り出す。玉山も後を付いていく。
「あっ」
踊り場へ来たときだ。右足が痛み出した。どういうタイミングなんだよ。訳がわからなかったが、事実は変えようがない。手すりに寄りかかり、体重を預けながら、痛みが去るのを待った。
「橘さん」
呼びかけるが、既に先に行ってしまったのか返事はなかった。心臓の鼓動に合わせて痛みの波が来て、全身から脂汗が滲んでくるのがわかる。
痛みが引くのも、痛み出すのと同じく突然のタイミングだ。このまま待っていても、いつ痛みが引くのかわからない。手すりに乗りかかるようにして登れば、右足の負担はそれほどないだろう。
玉山はスチールの手すりを両手で掴み、ゆっくりと体重をかけていく、手すりが揺れる気配はない。踏ん張ってすべての体重を乗せた後、両足を浮かせて左足を一段上に載せ、体を上に移動させる。これを繰り返して、どうにか二階へたどり着いた。
暗いな。階段と同じく二階も暗かった。窓はなく、奥で緑に輝く非常灯しか明かりがない。いくら元保養所でも、こんなの変じゃないのか。
誰もおらず、ドアも閉まっているので、橘がどこにいるのかわからない。部屋番号を聞いておけばよかったと思うが後の祭りだ。ここで待っているしかないのだろう。
痛みはまだ引く様子がない。何やってんだよ。早く出てきてくれ。心の中で毒づいても、廊下は静かなままだった。
闇が動き、誰かが近づいてくるのがわかった。橘か。体を起こしして目をこらす。
しかし、出てきたのは女性だった。若くて、神経質な印象だった。度の強そうなメガネをかけている。
「あの――」
「助けてください。知らない人に追いかけられているんです」
女性は焦った顔をして玉山に訴えかけてきた。
「そんなことを言われても……。ロビーに行けばいいでしょう」
「ロビーって?」
お互い困惑の表情を浮かべた。玉山が声を出そうとしたとき、暗闇から男が現われた。
玉山はあっと、声を上げかけた。脂ぎった顔に大きな目。
さっき駅で絡んできた男だ。
「二人揃ってよう。お前ら、なんか企んでんじゃねえのか」
「企むって……。初めて会ったんだ」
女性は恐怖の表情を浮かべながら、さっさと逃げ出してしまった。玉山も逃げたかったが、膝の痛みでどうにもならない。
「ふうん。だったらお前、なんでこんなところにいるんだよ」
「ここに泊まる事になったからさ」
男は玉山をじろじろ見つめはじめた。何か考えているようだったが、大きな目を更に大きくさせながら、大きく頷く。
「思い出した、お前はおれの家来だ。間違いない」
「何言ってんだ。あんたと俺は今日初めて会ったんだぜ。バカも休み休み言えよ」
「だめだめ、しらばっくれるんじゃねえ。お前は俺の家来だ。右足が証拠だよ」
「あんたがどうして右足が痛いのか、知っているわけないだろ」
「お前、忘れちまってんのか。だったら思い出してやるぜ」
男がニタリと笑った瞬間、いきなり右足を蹴りつけた。
「うぁぁっ」
右膝に激痛が走った。立っていられず、膝を抱えてカーペットへ倒れ込む。見上げると、緑の非常灯に照らされて、ニタニタ笑っている男が見えた。
「ほら、思い出しただろ」
「お前、自分が何をしているのかわかっているのか」
男が再び足を上げ、蹴りつけようとする。膝をかばうため、膝を抱え込みながら、背中を上に向けた。
「ひひひ。ダンゴムシみたいじゃねえか」
脇腹へ強い衝撃と激しい痛みが走った。
「ほら虫野郎、何とか言えよ」
背中を踏みつけられ、一瞬息ができなくなる。
けたたましい笑い声。
「みいーくぅー」
声が遠ざかりはじめた。恐る恐る顔を上げると、男が闇の中に消えようとしていた。ほっとすると同時に、強い怒りがわき起こってくる。
これで俺の膝に何かあったら、一生かかっても払えない賠償金を請求してやる。
体を起こして辺りを見回す。橘の奴、こんなところへ連れてきてどこへ行ったんだ。怒りが橘へ移っていく。
いや待て、そもそも駅で絡んできた男と、同じホテルに泊まるなんて偶然があるんだろうか。
もしもし誰かが仕掛けたとしたら……。真っ先に思い浮かぶのは橘だ。駅であの男が立ち去った後、すぐに現われたのもわざとらしいし。
しかし、そもそもこの静岡へ降り立ったのは地震が起きたからだ。まさか橘に地震を起こす力なんてないだろうし。
廊下に横たわり、右足の痛みと不安を抱えるしかなかった。