第13話 悠紀夫が飲み屋で由井正雪と会う
悠紀夫はやるせない思いを抱え、夜道を歩いていた。
街灯の下で腕時計を見て時間を確認する。もう少しで電車が出発する時刻だ。これに乗り遅れると、次の電車まで三十分待たなければならない。
足を速めるが、重く湿った空気が動きを妨げているような気がして、体が言うことを聞かない。
どうして今なになってあいつが現われたんだろうか。
すべては終わっていたはずなのに。
感情が重くのしかかってきて、足取りを更に重くさせる。
サクラが清水に揚がり、異常作動を起こしたのは偶然じゃないだろう。きっと何かの意志が働いているんだ。
あの子を呼び寄せるために。
東海道線の踏切を越えたところで横砂駅の明かりが見えてきた。改札の向こうに電車が見えている。悠紀夫は走りながら定期を取り出し、改札でかざして電車へ飛び乗った。直後にチャイムが鳴り、ドアが閉まる。ほっと息を吐きながら座席に座った。電車が動き出す。
住宅街を電車はゆっくりと進んだ。午後七時近かったので、既に乗客はまばらだ。
混むのは朝と夕方の通勤通学の時間帯だけで、ほとんどの時間帯は人より空気を運んでいる方が多かった。
もう何年も前から廃止の話が持ち上がっているが、住民の要望もあり、市の補助金でどうにか運営を維持している状態だった。
サクラプロダクト代表取締役社長早坂亜紀。名刺の肩書きを思い出すと笑みがこぼれていく。あいつも偉くなったもんだ。
仕立ての良さそうなスーツを着て、いかにもキャリアウーマンと言った姿の彼女をまぶしく感じた。それに対してこの俺は……。
自分の着ていたスーツを見る。三年前に買った紺の吊るしでよれよれだった。違う道があったんじゃないのかという思いが頭をよぎるが、すぐにそれを打ち消した。
これでいいんだ。心の中で言い聞かせながら、揺れる思いを押さえつける。
電車は清水駅前を過ぎ、陸橋を登り出した。もうすぐ乗り換えする新清水駅に着くが、ちょっと飲んで、もやもやした気分を払いたい気分だった。
早坂亜紀か……。そうだ〈あき〉へ行ってみようと思った。新清水駅を乗り越し、万世町で追加料金を払って降りた。
相変わらず空気は湿っていたが、雨が降ってくる様子はない。悠紀夫は電車通りから、巴川寄りの道へ歩いていった。
道沿いにはぽつりぽつりと飲食店が点在している。その中で、ひらがなに〈あき〉と書いてあるのれんをくぐった。
引き戸を開けると、直角のカウンターに囲まれた厨房が現われる。中には高齢の夫婦がいた。店主と同じく木造の店も古い。きっと、前世紀から模様替えはしていないのだろう。
あらゆるところがくすんでいるが、きれいに整頓されているので不潔さはない。
「お母さん、マグロの赤身とイカの丸干し、それと冷酒を頼むよ」
「はいよ」
納豆をかき回していた女将が答え、常連と釣りの話をしていた親爺がカウンターの上に受け皿とコップを置き、一升瓶から冷酒を注いだ。受け皿ごと手元に持ってきて、なみなみと注がれたコップに口を付けて冷酒を一口飲んだ。
先にマグロの赤身が出てきたので、ぷりぷりした食感を楽しんだ。イカの丸干しは身の凝縮されたうまみと、ワタのコクが日本酒に合った。追加で焼き鳥のネギマを塩で頼んだ。
「今日の地震はすごかったですねえ」
「そうそう、ここも食器が全部ひっくり返っちゃってねえ。昼間は片付けをしていたのよお。大変だったわ。それにしても津波が来なくてよかったわよ」
「震源地は山のほうだったからねえ」
店のお母さんとたわいのない話をしながら飲んでいると、すっかり酔っ払ってきた。
不意に視線を感じて横を見る。
カウンターの奥で飲んでいた男が見つめていた。
「何か……」
「はじめまして。私、由井正雪と申します」
「はあ?」
男は黒いスーツにノーネクタイ、切れ長の目で、肩まで神を伸ばしていた。カウンターの上には食べかけのネギマとコップ酒が置いてある。
「あの……劇の役か何かで……」
「いいえ、本物の由井正雪ですよ」
いたずらをした子供のように、茶目っ気を帯びた笑顔をして見せた。
「三百七十年ぶりに戻ってきましてね」
「由井正雪……って。確か江戸時代、徳川幕府に謀反を企てた人なんでしょ」
「謀反ではない。慶安四年、徳川の悪政に対して決起したのだ。しかし駿府で追い詰められ、自刃した」
「遙か昔に亡くなっているんですよね」
「しかし今、復活した。君たちのおかげだよ」
「君たちって……。どういう意味なんですか」
「うむ。そのうち思い知ることになるだろう」
由井はコップ酒を飲み干して小さく息を吐いたのち、目を輝かせ、悠紀夫を見つめた。
「三百七十年前、私は天下を取るため江戸幕府と戦ったが敗れた。だが、今度は違う。私は天下――いや、世界を制覇する」
「世界ですか……」
男の背後はかつて白かったらしいが、今はくすみんで茶色に色あせた壁紙が貼ってある。頭上には、昭和チックなオレンジ色をしたチューリップ笠の白熱灯が天井からぶら下がり、男を照らしていた。
そこでコップ酒を片手に世界制覇なんて言われても、頭のおかしい奴にしか見えなかった。
話を聞いているだけならまだしも、あまり長く関わっていると、絡まれそうな気がする。逃げ出したかったが、まだ料理を食べきっていない。弱ったなと思っていると、由井の方が立ち上がり、金を払った。
後ろを歩いて行くとき肩を触れてきた。ふわりとした感触が伝わってくる。
冷たい。
スーツ越しだったが、右肩の体温が奪われていくような気がした。ぎょっとして振り返る。
「今後ともよろしく」
悠紀夫を見てにやりと笑い、引き戸を開け出て行った。
無意識のうちに肩に手を遣ってさする。血が巡り、体温が戻っていくのが感じられた。
一体なんなんだろう。訳がわからなかったが、ともかく消えてくれたのでほっとして、残っていたコップ酒を飲み干した。
親爺に酒を注いでもらい、新たに出てきたネギマに辛子を付けて食べた。鶏もものうまみとネギの甘さが口に広がり、幸せな気分になった。
すっかり酔っ払い〈あき〉を出た。空気は相変わらず湿っていたが、焼き鳥の煙がないだけ外の気分はよかった。
由井正雪。歩きながら男が名乗っていた人物を思い出す。
まさか幽霊が飲み屋で酒を飲んでいるはずがないし、頭のおかしい男が自分を由井正雪だと勘違いしていると思うのが妥当だ。
新清水駅まで歩き、電車に乗る。途中居眠りしてしまったが、気がつくと古庄だった。あぶない、もう少しで乗り過ごすところだ。悠紀夫は大きくあくびをした。長沼駅で降り、自分が住んでいるアパートへ歩き出した。
携帯電話が鳴り出した。こんな時間に誰なんだと思いながら、ポケットから携帯を取り出す。
「はい、福井です」
「そこで何やっておる。お前はこの変異を早く押さえねばならぬのだ」
年老いた老人のだみ声が響いてきた。
「あなたは……」
「すぐにこっちへ来るのじゃ。場所はわかっておるだろ。全部お前のせいじゃ」
「僕のせいって……」
「ああ。間違いない。早く来いよ」
一方的に通話が切れた。
どうして今になって……。
「うっ……」
突然、頭に痛みが走り出した。
足下がふらついて倒れそうになり、思わず壁に寄りかかる。地震? めまい? いや違う。悠紀夫は周囲を見回した。
周囲がゆがんで見える。
世界が溶け出しているんだと思う。