第12話 亜紀、巻き込まれる
「そんなこと言ったって、まだ税関で足止めされているんだから、ここから戻れないのよ。大変なのはわかるけど、どうにか回してちょうだい」
まだ何か言いたそうな竹本との電話を一方的に切った。さすがに静岡から出ようとすると、いつの間にかUターンしてしまうなんて言えない。
ため息をつきながら、カーナビでルートをチェックしてみる。さっきから何度も行っているので、地名も覚えてしまったが、それでもやめられない。他に手立てが見つからないからだ。
新東名、国道一号、国道五十二号線。表示されるルートはすべて通ってみたが、いずれもいつの間にかUターンとなってしまう。それならばと名古屋方面も試してみたが、丸子を超えた時点で同じように戻ってしまう。
会社へ戻るのが怖くなって、無意識のうちに戻ってしまったのか。しかし高速道路を、いきなり上りから下りの車線に変更するなど、物理的に不可能だ。
自分の身に、不穏な事態が起きている。
思えばサクラが不具合からしておかしな話だった。あれだけ解体して、内蔵のコンピュータを始め、パーツを一つ一つチェックしても原因は見つからなかった。竹本の言っていたとおり、あり得ない状態だった。
足下がガラガラと崩れていく気がした。一体何が起きているんだ。ハンドルを叩きたい気分を押さえるため、手を強く握りしめた。大きく深呼吸を繰り返す。
落ち着け。今までも何度もトラブルは乗り越えてきたじゃないか。今度もきっとうまくいく。
言い聞かせているうち、本当に落ち着いてきた。改めて、できることを考えた。
車を乗り捨て、新幹線に乗ってみようかと考えたが、同じような結果になる気がする。何しろ、今起きている現象は論理で考えられないのだ。
亜紀はレクサスのエンジンをかけ、宇都ノ谷峠の道の駅から国道一号線へ出た。東にある清水港へ向かう。
サクラが逃げたしたのも通常では考えられない。静岡市から出られないことと、両者は何らかの繋がりがあるはずだ。
偶然ではあり得ない。
サクラがなぜ逃げ出したかを探れば、この現象も理解できるに違いない。それにはサクラを捕まえるしかない。
二本目のトンネルを抜けようとしたときだ。車の振動とは違う、激しい揺れが襲ってきた。
「うわっっ」
ハンドルが左右に振られる。力を入れるが、それ以上の力でハンドルが動く。このままだと、壁にぶつかってしまう。とっさにブレーキを踏んだ。
出口が揺れていた。間違いなく地震だ。
トンネルから出ようとした車が、左から押し寄せてきた土砂に押し流されていく。
映画みたいだ。
パニックになりながら、まるで人ごとのようにふわふわとした思考が駆け抜けていく。
瞬く間に土砂で入り口が塞がってしまった。レクサスはそのすぐ手前で止まっていた。
助かったと思った瞬間だった。
後方で、激しい音共に衝撃が襲った。
前に突き動かされ、シートベルトが体に食い込んだ。レクサスのボンネットが、土砂に突き刺さる。
振り返ると、後部座席のガラスが割れ、別の乗用車が異様に近くへ迫っていた。その背後には大型トラックが見えている。
一瞬にして起きた出来事に、思考が追いついていかなかった。ぼんやりとその光景を眺めている。
ぼんっ、と音がしたかと思うと、追突してきた乗用車の周囲が明るくなり始めた。
同時に鼻を突くガソリンが焼ける臭い。瞬く間に車内の温度が上昇し始める。
燃えている。早く出なくちゃ。
堰を切ったように焦りが噴出し、シーベルトをはずそうとする。パニックで手がもたついて外れない。
外れた。ドアノブを引き、転げ落ちるようにして外へ出た。
レクサスとトラックに挟まれた乗用車は既に勢いよく燃えていた。行き場を失った黒煙が、亜紀に襲いかかってきた。
体を伏せ、鼻と口をスーツの袖で押さえるが、煙は容赦なく肺に侵入し、激しく咳き込んだ。目に入り込み、痛く涙が溢れてきた。
顔を上げて周囲を見るが、トンネルの出口は土砂で埋まり、奥は火に包まれている。換気装置はあるかもしれないが、レクサスに火が回ったら間に合わないだろう。
こんなところで……。
死にたくなんかない。
ぼんっ、二回目の音がして、レクサスに火がついた。
咳き込みの苦しさが消えてきた。
いや、意識が薄れてきているんだ。
強ばっていた力が抜けてくる。本当に死んでしまうんだと思う。
「ニャア」
不意に耳元で聞こえた声で、反射的に振り向いた。
ネコがいた。白黒で、亜紀をじっと見ていた。
しっぽの先が、青く光っている。
「サクラ……。どうして」
「ニャア」
サクラは近づき、ぺろりと頬を舐めた。
人が死のうとしているときに、場違いじゃないか。思わず笑みが出てしまうが、これで少し心が落ち着いてきた。
サクラはおしりを向けて歩き出したあと、振り向いてまた一声鳴いた。
「ニャア」
自分に付いてこいと言うのか。
「ニャア」
サクラは亜紀が体を起こしたのを確認して、再び歩き出した。
土砂の上を上り始める。亜紀はその後を付いていった。
黒煙が立ちこめ、照明の光も届かない。何も見えない中、土の感触だけを頼りに、両手両足を使って這い上がっていく。酸素がないのだろう、意識が消えていきそうになるのを意志で必死に保った。
「ニャア」
時折聞こえてくる声の方向へ向かった。死にたくない、死にたくない。心の中で呟きながら、力をこめる。
やがて突き当たりにぶつかった。上を探ると、コンクリートのざらざらした感触がした。すぐ横で、ごりごりかじる音が聞こえる。サクラが土を掘っているのだ。ここを掘れというのか。
もうろうとする意識の中、力を振り絞り、手で土を掻き出した。
手の先に、明かりが見えた。
外だ。
希望と力がわき起こり、必死で掻き出した。明かりが広がっていく。
穴は人一人分が通られる大きさにまで広がり、這って外へ出た。
まぶしさにと痛みに目を瞬かせながら、よろよろと立ち上がり、新鮮な空気を吸う。
助かった。
大きく息を吐いた瞬間めまいが襲い、足下が崩れてきた。
そのまま、斜面を転がり落ちていった。