第10話 二人の子供
「おい、何やってんだよ」
「待て、急に痛くなり出したんだ」
「嘘つけ、俺と話したくないから仮病でも使ってるんだろ」
「違うったら」
「俺はだまされない」男から嫌らしい笑みが消え、怒りで目を輝かせている。「馬鹿にしやがって、ただじゃおかねえ」
くそっ、逃げるどころか歩けもしない。橘が早く戻ってきてくれればいいんだが。
「立てよ……」
「ちょっと待て。本当に痛いんだから」
「立てったらっ」
いきなり髪の毛を掴まれ、引っ張り上げられた。
「やめろ、痛いじゃないか」
たまらず腰を浮かせたが、今度は右膝に負担がかかって、激しく痛んだ。思わずよろけて前のめりに倒れた。
男にもたれかかるような形になり、額が胸に接触した。汗と獣じみた臭いが鼻を突き、反射的に離れた。
「お前……。俺に頭突きを食らわせただろ」
「ちょっと待て、単によろけただけだ。そもそもお前が髪の毛を掴んだからじゃないか」
「ふざけんじゃねえ。俺とやろうってのかよ」
最悪の事態だった。周囲を見回すが、誰も注意を払ってくれない。防御をするにしても、その中でこの男に危害を加えたら後でやっかいだ。ただでさえ逆風なのに、ここでトラブルを起こしたら致命傷になりかねない。仕方がない、大きな声を出して助けを呼ぶしかないのか。
「ねえ……お願いだ。もうよそうよ」
声がした方を見る。大勢の人が行き交う中、玉山たちのやりとりを、二人の子供が男の背後で見ていた。
男の子はTシャツを着て、色あせたジーンズ、女の子はピンクのトレーナーに赤いチェックのスカートを穿いている。顔立ちは幼く、高校生になったばかりぐらいだろうか。
二人ともひどく暗く、哀しげな顔をしていた。
男が振り向き、猿のように歯を剥き、憎しみの表情を浮かべる。
「お前ら……。俺に口答えしようってのか」
言葉を放つと当時に、右手の拳が繰り出され、男の子の顔面を直撃した。
「ぎゃっ」
叫び、男の子は尻餅をつく。彼をかばうようにして女の子が間に入った。
「お願い、もうやめて」
「バーカ、俺がはいそうですかとでも言うと思ってんのかよ」
「ぎゃっ」
男が女の子の腰に蹴りを入れてきた。よろめきながら倒れる。
あからさまに暴力が振るわれているというのに、立ち止まる人もいない。まるでそれが存在しないかのように誰もが無視して通り過ぎる。
どうなっているんだ。怒りを覚えながらも、男が自分を見ていないのに気づいた。これくらいの規模の駅なら、警察が入っているはずだ。こっそり逃げて助けを呼ぼう。
まだ痛む右足を引きずりながら、そろりと動き出した。
「玉山さん」
不意に声がして振り向くと、いつの間にか橘が立っていた。
「遅くなりましてすいません、ホテルが見つかりましたよ」
「ああ……」
橘の背後を見るが、男と子供たちがいなかった。
「どうかしましたか」
「今、男と子供二人が喧嘩をしていたんだ」
「そうだったんですか。僕が来たときはそれらしい人はいませんでしたけど」
「いや……。まだ一分もたっていないはずなんだけど」
改めて構内を見たが、男と子供の姿はどこにもいなかった。
「バカな……」
橘も周囲を見回していたが、不審げな顔をしている。
確かにいたんだ。反論しようと思ったが、言い訳めいてくるのでやめた。いないのは事実なのだから。
でも、あいつらの姿ははっきりと覚えている。幻なんかじゃない。
「近くのホテルは全部だめでしたんで、ちょっと歩くことになります。足は大丈夫ですか」
「あ、ああ」
いつの間にか右足の痛みは消えていた。
「じゃあ行きましょう」
橘が荷物を持って歩き出した。まだわだかまりはあったが、確かめようがないし、こだわっていてもしょうがない。彼に続いて後をついていった。地下道を降り、しばらく歩いて再び地上に出る。
「上には気をつけてください。建物で崩れているところはなかったですけど、さっき看板が落ちてきましたんで」
地震の影響か、四車線の道路は昼間にもかかわらずほとんど車は走っていなかった。橘の言うとおり、看板が歩道に落ちている場所があった。店の中を覗き込むと、商品が派手に倒れていたが、被害らしいところはそのくらいだった。
二人は歩き続けた。