4話 黒い球体
平凡でつまらない人生だった。
何のために産まれてきたかもわからない。
ただ、不幸に不幸を重ねて、最後も不幸で終わるだけの人生だった。
でも、最後まで歩き続けた人生でもあった。
僕は頑張ったと思う。
本当によく生き抜いたと思う。
最期まで自分の人生に背を向けなかった。
勝ち組になれなかったのは心残りだったけど、最愛の家族と一緒に天国で暮らせるなら、それはそれでいいかもしれない。
お父さん、お母さん、今まで甘えられなかった分、沢山、甘えてもいいよね?
今まで一人で頑張ってきた分、沢山、褒めてね。
失った家族の時間をこれから一緒に過ごしていこうね。
そう思って、二人に向かって手を伸ばしかけた時だった。
―こっちに来いッ!―
視界が真っ暗になった。
え……?
訳がわからなかった。
何が起こった?
僕はどうなった?
お父さんとお母さんは?
僕は天国に行けるんじゃなかったのか?
何で僕は真っ暗な世界にいるんだ?
『……少年……少年……』
ん?なんだ?誰かの声がするぞ?
『……おい……そこのお前……』
また呼ばれる。でも、目の前が真っ暗で何も見えない。
と思ったのは最初だけだった。
「はッ!」
気が付くと僕は、ただ真白なだけの空間にいた。
大きさはまるでわからない。
遠近感覚が機能しないほどに、その空間は完全な白で覆われていた。
その光景に既知感を覚える。
最近の夢に出てきた、沢山の死体を貪った場所。
そこによく似ていた。
『こっちこっち。見てる方向が違う』
と、そこで背後から声をかけられていることに気付く。
夢では振り返ると、死体の山が積み上がっていた。
今度もそうなのだろうか、と僕は恐る恐る、振り返った。
すると、夢では死体が積み上がっていた場所に、真黒な球体が一つ、浮かんでいた。
禍々しい光景は無く、ハンドボールぐらいの大きさの黒い球が真っ白な空間にポツンと浮かんでいるだけだった。
『よう、気分はどうだ?』
ただの真黒な球体が僕に話しかけてきている。
「なんだ……これ……?」
それが僕の率直な感想だった。
すると、黒い球体は呆れたような、それでも少し可笑しそうな口調で話しかけてきた。
『おいおい、なんだ、はないだろ?球体が話しかけているんだぞ。少しは驚くとかなんとかしたらどうなんだ?』
驚いているさ。
むしろ、驚きすぎて真面な反応が出来ない。
「僕はついさっき死んだ。そして御母さんと御父さんの所に行くはずだったのに」
気が付けばこの真白な世界にいて、目の前には黒い球体が一つ。
どう反応すればいいのかもわからない。
『死、命が無くなる事、生命が無くなる事、生命が存在しない状態。でも、所詮は君を包んでいた《器》が壊れてしまったというだけのこと。本当の死とは程遠い』
黒い球体が死という言葉に反応して急に語り出した。
辞書みたいに堅苦しい言い回しだ。
でも、何か真理めいた内容でもある。
だけど、本当の死って……。
『肉体とは魂を宿すための器でしかない。魂が死なない限り、それは死とは言わない』
だそうだ。
でも、僕からすればそんなことはどうでもいい。
「ここは……どこ……?」
どこを見てもただ白だけに覆われた世界。
僕は天国に行く途中だったはず。
御父さんと御母さんの待つ、天国に。
『ここは《虚無の世界》。全ての理から隔絶された場所。絶対不可侵の領域、の筈なんだがね。お前はその障壁を突破してここにやってきた』
虚無の世界?
確かに、周りは真白な世界が広がるばかりで何もない空間だ。
でも、障壁を突破してきたって?僕が?
記憶にない。
意識が戻った時にはもうここにいた。
『その様子だと、何の自覚も無しにここへ来たみたいだな。自らの意思もなく、《虚無の世界》にやって来られたとは驚きだ。でも、おかげで世界の壁に穴が開き、外に出ることが出来る。ありがとう、えっと………』
と、僕の名前を呼ぼうとして詰まった。
『お前、なんて名前だ?』
「な……まえ?」
急に名前を尋ねられた。
混乱しているせいもあってか、素直に
「河崎…零……」
と、答えてしまった。
『へぇ、零っていうのか』
意外、と言わんばかりに黒い球体が目を丸くした、ような気がした。
球体には表情がないから、本当にそうしたのかはわからない。
あくあでも、気がしただけだ。
そして質問はまだまだ続く。
『面白い名前だけど、それはお前の名前じゃなくて《器》の名前だ。お前の魂はなんて名前なんだ?』
「器?魂?」
目の前の黒い球体の言っている意味がよくわかなかった。
僕が返答に困って黙っていると、黒い球体が少し困ったような顔をした、気がした。
黒い球体に表情なんて無いから、あくまでも僕の直感だけど。
『その状態になっても《器》の中にいた頃の記憶しか無いのか……』
黒い球体が僕の前でぶつぶつと独り言をつぶやいてる。
でも、言葉から察するに器とは僕の肉体のことを指しているみたいだ。
それ以外のことはよくわからないけど。
『だが、やっぱり名無しの相手だとしっくりこない。《真名》が思い出せないのならせめて仮の名前を付けてやるよ』
「いや、名前はある。さっきも言った、河崎零が僕の名前だ」
父さんと母さんが授けてくれた大切な名前。
僕からすれば両親の形見のようなものだ。
だから、河崎の名字はどうでもいいけど、零っていう名前は気に入っているんだ。
でも、と黒い球体は首を傾げた、ような気がした。
『うーん、零という名前も悪くは無いんだが、お前の《本質》と相反するものだ。名前は魂の本質に添った方がいい。だからそうさな~。え~と』
黒い球体は僕の言葉を無視して勝手に考え始めてる。
『今後のことも考えると、本質をひけらかすような名前もあれだしな~。ただ、あまりわかりにくい名前にしたら名づける意味もないしな~』
黒い球体は長い時間、一人であれやこれやと呟いてる。
(本当に……何が起こってるんだ……?)
真白な世界に黒い球体が一つ。
そして僕を引きずり込んだあの黒い何か。
どうにかして元の場所に戻れないだろうか。
僕は御父さんと御母さんの所に行きたい。
天国で、家族三人で暮らす筈だったんだ。
何としても戻らないと。
『思いついたぞッ!』
唐突に黒い球体が大声を上げてきたから、思わずビクッとした。
振り返ると、表情もないし、体も無いただの球体が、どこか誇らしげに胸を張っているように見えた。
気のせいだと思うけど。
『シーザー(Caesar)、でどうだろう?』
「シーザー?」
本気で言ってるのか、こいつ?
『お前にぴったりのいい名前だ。それともなにか不満でもあるのか?』
「不満とかいう前に、帰りたいんだ。元の場所に」
『もとの……場所?』
どこそこ?と言わんばかりの空気が黒い球体から漂ってくる。
「地球だよ。青い星だ。僕の住んでた世界だよ。僕は誰かにこの世界に引きずり込まれて来たんだ。なら逆に、帰ることだって出来る。そうだろ?」
来られたなら帰ることだって出来るはずだ。
でないと僕がここにいるはずが無い。
いていい筈が無いんだ。
なのに
「はははははははははははははははははははははははははははははははッ!!!!!!」
黒い球体は張り裂けんばかりの声で爆笑した。
傑作と言わんばかりに笑い、その輪郭がぼやける程に体を震わせる。
『帰る?その地球とやらに、どうやって?』
「そ、それがわからないからこうして尋ねてるんじゃないかッ!」
僕に帰り道がわかるはずがない。
どうやってここに来たかすらわからないのに。
『帰ってどうする?お前がここにいるということは、地球とかいう世界でお前はもう死んでいるということだぞ?それなのに、帰ってどうするっていうんだ。不思議な奴だな』
「…………」
その言葉に僕はまた思い出させられる。
僕はもう死んだ。
それはわかってる。
戻ったところでもう失った命を取り戻すことはできない。
でも
「向こうで御父さんと御母さんが僕を待ってるんだ」
天国で。
僕が帰ってくるのを待っていてくれている筈なんだ。
だから何としても戻らないと。
戻って僕は天国で家族と一緒に。
『あ~それは無理だな』
「え?」
球体の言葉に耳を疑った。
「どうしてッ!?なんで君にそんなことがわかるんだッ!」
『冷静に考えてみろ。お前はどうやってここに来たのか覚えていない。なら、どうやって地球に戻る?』
「そ、それは……」
考えた。
可能性は一つだけ。
「僕がここへ来た時に開けた穴。そこから外に出れば元の世界に……」
戻ることが出来るはずなんだ。
『で、お前の開けた穴はどこにある?』
「え……」
周囲を見回してみるが、世界のどこにも穴は無い。
ただ、どこまでも真白な空間が続いている。
穴は見つからない。
「でも、僕が障壁を突き破ってきたって……」
『ああ、それは言った。お前が障壁を突き破ったおかげでこの世界は崩壊を始めている。でも、俺がわかるのはそこまでだ。この世界が消滅したら、俺は《帰り道》を辿って元の世界に帰る。でも、お前はその帰り道すら知らない』
「そんな……」
もし、帰り道がわからなかったらどうなるんだ?
『永遠に彷徨い続けることになるな。この虚無の世界の外にも似たような世界が広がっている。帰り道さえ知っていれば元の世界に戻れるが、道を知らない者が迷い込めば最後、永遠に世界の外で迷い続けることになる』
「じゃあ……僕は……」
このまま迷い続ける?
いきなり訳も分からない世界に引きずり込まれたかと思ったら、今度は世界の外を永遠に迷うことになる……?
「は、ははははははは……」
笑える………。
最高だよ……。
こんな……こんなことってあるか……。
一体、なんなんだよ……。
僕が……何をしたって言うんだ……。
『生前は随分と苦労したみたいだな。でも、考え方を変えてみろよ。そうしたら、また別の何かが見えてくる筈だ』
「何が見えるって言うんだよ……こんな真白な世界の中で……」
『そう気を落とすなって。見たところ、お前は生前、苦労人だったようだな。だが、お前は辛い日々を耐え抜けばその先に輝かしい未来があると信じて疑わなかったし、それに向かって頑張ってきたんだろ?でも、志半ばで死に、この虚無の世界に来た。そうだな?』
「ああ……」
本当に、下らない終わり方だ。
世の中は結果が全てだ。
どれだけ優れていても途中で倒れてしまっては意味がない。
僕は努力し続けたけど、結局は死んで負け組になってしまった。
そればかりか……父さんと母さんのところにも帰れないなんて……。
『そうとも言えないさ。お前は常に前を向いて生きてきた。勝つために努力を惜しまなかった。そしてその果てにたどり着いたのがこの《虚無の世界》だ。だったら、こう考えられないか?こここそがお前の目指していた場所だ。予想していた未来、望んでいた未来とは違ったかもしれないが、お前はこの世界にやってきて、俺と出会った。俺達の出会いこそ輝かしい未来への終着点なのかもしれない、だろ?』
「そんなわけないだろ……」
真黒な球体と出会って何になる。
生きていた時に出会ったら確かに意味はあったのかもしれない。
捕まえて学会とかで発表すればノーベル賞ぐらいはとれたかもな。
でも、今となっては……。
『なあ、シーザー。俺と一緒に来ないか?俺と一緒に来れば力を与えてやるぞ」
「は?」
力?
『奪われる側から奪う側に回ってみたいだろ?奪う側の心地よさも知らず、惨めに彷徨い続けるなんて悲しすぎるじゃないか。そんなことならいっそ、力で弱者を踏みにじり、他人の命を、人生を、手のひらの上で弄んでみたくはないか?』
―それがお前の夢だった。そうだろ?―
「お前……どうしてそれを……」
驚くことに黒い球体が口にした言葉はどれも僕が幼い頃に夢見たことだった。
でも、その夢も年を重ねるうちに消えてなくなった。
そんな痛々しい夢、とっくの昔にゴミ箱に捨てて来てやったさ。
でも黒い球体は、僕の言葉など完全に無視してさらに言葉を重ねてきた。
『力を与えてやるぞ、シーザー。道は君が切り開いた。一緒に行って、二人で奪う側の世界を満喫しよう』
きっと、楽しいぞ。
黒い球体はそう言って笑った。
表情が無い筈なのに、僕には笑っているようにしか見えなかった。
でも、結論なんて最初から決まっている。
「お断りだね。だれがそんな下らない提案に乗るものか」
まだ帰れないと決まったわけじゃない。
あくまでも目の前の球体が言っているだけだ。
帰り道は確かにわからないけど、でも、諦めない。
ひょっとしたら、千に一つ、いや、万に一つの確率で帰れるかもしれない。
(そうだ、まだその可能性は0じゃない)
僕は帰るんだ、地球に。
御父さんと御母さんの待つ天国に。
僕の望みは地球で成功することだった。
他の世界でも他の星でもない。
地球じゃなきゃダメなんだ。
あの世界じゃなきゃダメなんだ。
河崎零としてじゃなきゃダメなんだ。
永遠の時を費やしてでも地球に、そして両親のところに帰るんだ。
『はぁ、やれやれ。本当に意固地な奴だな。出来れば無理やりは嫌だったが、そこまで拒絶されたんじゃあ仕方がない』
―嫌でも俺と一緒に来てもらうぞ、シーザー―
目の前の球体がそう言って笑った。
顔が無い筈なのに、また、邪悪な笑みを浮かべているように見えた。
ドックンッ!
何かが僕の中で蠢いた。
死んだ僕に心臓は無い。
でも、何かが僕の中で大きく脈打った。
そして僕は何かと《一つ》になろうとしているような感覚を覚えた。
ふと前を見てみると、黒い球体がその形を変え始めている。
円の輪郭が歪み、蠢き、そして限りなく人型に近い、何かへと変化していく。
「なんだッ!お前、僕に一体、何をしたッ!」
『《悪霊》に魅入られたのが運の尽きだ、シーザー。嫌でも何でも、一緒に来てもらうぞ』
そして黒い人型は真白な歯を覗かせて微笑んだ。
禍々しい笑みのその裏で、黒い人型がとても興奮しているのがわかる。
もう、外の世界に飛び出したくてうずうずしているのがなぜか伝わってきた。
でも、その感情は余すことなく悪意で出来ている。
何か、とてつもなく悪いことを企てている。
それが直感的に理解できた。
『俺は《群体》を司る《Armed》、レギオン(Legion)だ』
随分と仰々しい名前、というか、絶対にシーザーにあわせて決めただろ。
『さあ行こう、シーザー。俺とお前の新しい人生の始まりだッ!これから楽しくなるぞッ!』
レギオンの興奮しきった声が虚無の世界に響き渡る。
(嫌だ……)
僕はそっちに行きたくない。
僕は御父さんと御母さんの所に帰りたいんだッ!
「やめろッ!やめろやめろやめろッ!やめてくれぇッ!!!」
―さあ、行くぞッ!―
巨大な何かが僕の中に入り込んできた。
僕の魂の容量を遥かに超える何かが。
意識が……遠のいていく……。
『やっと会えた。やっと会いに来てくれた。これで俺とお前はまた一つに……』
ぼんやりと、そんな言葉が聞こえた気がする。
でも、言葉は泥のように溶けていき、僕の記憶の奥深くへと沈み込んでいく。
そして閉じかけた瞼の向こうで、人の形を取り戻した黒い影が僕の中に入り込んでくるのが見えた。
その直後、僕は意識を失った。
◇◇
バチンッ!
突然、僕の中で大きな火花が飛び散ったような感覚がした。
視界が明滅して、いや、激しいノイズが走って、頭痛がした。
吐き気がした。気持ちが悪い。
なのに、体の感覚はない。
でも感じる。
僕は今、現世に引き戻されたんだ。
その事を理解したとき、いきなり視界が開けた。
眼隠しが引きちぎられたかのように、一瞬で。
「やあ、気分はどうだい?」
耳に、声色の高い男の声が、ゆったりとした調子で届いてくる。
ふと目の前を見てみると、背筋に悪寒が走った。
僕の目の前にいたのは、スキンヘッドの初老の男。
顔には大きな火傷の痕があり、醜くただれている。
しかも、ぎょろっとした大きめの赤い瞳に、ただれた頬を持ち上げながら作り出される不快な笑み。
彼は全身を深い緑色の軍服に包んでいた。
「ようこそ、美しき《アウターヘヴン》へ。君の名前を教えてくれるかな?」
彼は不気味な顔をにゅっと僕の目の前に突き出してきて、名前を尋ねてきた。
次回からようやく異世界です。
次回 運命の出会い