10話 三面六臂の騎士
ヴィルヘルム・フォン・ハウゼン 視点
私の予測は正しかった。
天馬騎士団の指揮官が一人、カターリナ。
彼女が白銀の剣を構え、突撃を仕掛けてきた時、死を目前にした悪霊に変化が見えた。
悪霊は眼をランタンのガラスに強く押し付け、荒れ狂う激情を表すかのようにそれを点滅させた。
彼が閉じ込められているランタンがカタカタと激しく震えだし、彼の感情の昂りを表している。
だが、私を興奮させたのはその背後にあった。
卵型の巨大な石が震えている。
微弱だが、巨石の前に立っている私だからこそわかったことだ。
巨石がシーザーの憎悪に反応しているかのように小刻みに震えていたのだ。
始まる。
天使が眼前に迫り、自分たちに死を齎そうとしているのに私は興奮で体を震わせていた。
「コロシテヤルウゥゥゥゥゥゥゥゥゥ!!!」
ランタンから吐き出された怨嗟の声。
その直後、私達は《巨神機兵》から伸びてきた結界に包まれた。
今の今まで私達を拒絶してきた封印の結界が、逆に私達を守る様に包み込んできたのだ。
そして天使の刃は激しい音と共に、結界に弾かれた。
それで私は確信した。
予言の壁画に記された物語の最初の1ページ。
その瞬間に私は立ち会えたのだ。
その歓喜を言葉で言い表すのは不可能だ。
振り返る必要もない。
何が起こるのかなど見なくてもわかる。
それよりも私は待ちきれなくてうずうずしていた。
発動するのだ。レイヴァン帝国が生みだした、増殖する武装術式、《Armed》が。
それはもう、誰にも止められないッ!
『その者は醜き魂の群体』
手の中のランタンから詠唱が聞こえてきたとき、私は発狂するかと思う程の興奮に苛まれた。
◇◇
カターリナ 視点
『なんだッ!』
私は自らの剣を謎の結界に阻まれ、即座に背後へと飛び去った。
ハウゼンとその手のランタンに収められている悪霊を守るかのように、赤黒い魔法陣が彼らの前に浮き上がっていた。
見たことも無い術式だ。
しかも、とてつもない力を感じる。
天使の刃を弾き返すほどの結界がハウゼン達を包み込んでいた。
だが、つい先ほどまでは確かにそんなもの存在していなかった。
では、誰が、いつ、どうやって、あれほどの強固な結界を発動させたのか。
その時、私はふと導かれるようにハウゼンが手にするランタン、その中で蠢く悪霊を見た。
悪霊は真丸な赤い目を見開き、それを激しく点滅させながら私を見ている。
怒っている。激怒している。
私は不思議とそう感じ取ることができた。
そして悪霊は今まさに、内に仕舞いこんでいたありとあらゆる感情を爆発させんとしていることも。
そして、その球体の上に載っている、二回りほど小さな球体。
その球体は歓喜に溢れるかのようにギザギザの口を歪めていた。
上と下の球体は互いの感情が逆行している。
『その者は醜き魂の群体』
突然、上に乗っている方の悪霊が言葉を紡ぎ出した。
その言葉が何を意味し、何のための物なのかもわからない。
だが、そのたった一言が悪霊の口から解き放たれた時だった。
ドックン………
地響きがした。
振動が空気を伝わり、臓物を揺さぶられるような感覚がする。
そして見開かれた悪霊の眼が、より赤く輝きだした。
『その者は地獄の窯の底に住み、あらゆるものを貪り食い』
いけない。
私は不思議とそう直感した。
この言葉を最後まで悪霊に紡がせてはいけない、と。
もし全てを紡ぎ終えてしまったらとてつもなく恐ろしいことが起こる、と。
『どこまでも増殖する』
その時、ペガサスの騎士たちが隊長である私の命令を待たず、勝手に動いた。
「「「うおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉッ!!!」」」
騎士たちは一斉に降下し、剣で、槍で、浮かび上がる赤黒い魔法陣を破壊しようと群がった。
私の命令も無しに動くなど絶対にありえないことなのに。
そればかりか、私の親衛隊もそれに呼応し、手のひらに白い魔法陣を出現させると、そこから光の槍を射出する。
死霊兵すら一撃で仕留めたその技を親衛隊の騎士たちは次から次へと魔法陣から射出した。
だが、その全てが赤黒い魔法陣を突破することはできず、無駄な爆炎を巻き上げるだけ。
『その者の飢えはこの世の全てをもってしても満たすことはできない』
何なんだ、あれは。
ただの悪霊。
その筈なのに得体のしれない恐怖を感じた。
このままではまずい。
何としても目の前の悪霊を殺さなくては。
この場にいる全ての者が同時に同じことを感じ取っていた。
でないと、恐ろしい事が起こる、と。
『故に、その行動に意味はなく』
ドックンッ……ドックンッ……ドックンッ……
鼓動が聞こえる。
私の鼓動か?
いや、違う。
別の、もっと恐ろしい他の何かが目覚めようとしている。
止めなければッ!
それを防げなければ私達に明日は無い。
『故に、その行動に価値もなく』
衝動的に私は動いていた。
普段の冷静さと慎重さをかなぐり捨てて恐怖に突き動かされた。
『くらえぇぇぇぇッ!』
突き出した手のひらから光の槍を発射する。
浮かび上がった魔法陣から打ち出された槍は親衛隊のものよりもずっと太く、鋭い。
天使化したことで私の魔術が数段にも渡って強化されたからだ。
だが、それも悪霊とハウゼンを守る魔法陣を貫けなかった。
このままでは膨大な悪意の塊に世界は圧し潰される。
『ただ虚しく、全てを食らい尽くすのみ』
そればかりか今日、ここで起こったことはいずれ世界へと広がっていく。
『くそッ!』
(光の槍がだめなら、直接、叩き斬るのみだッ!)
私はありったけの力を籠めて魔力の壁を剣で殴りつける。
これ以上、紡がせてはいけない。
目覚めさせてはいけない。
『故に男は尋ねた。お前は何か』
これが一度、流れ出せばもう止められない。
『死ねッ!死ねッ!死ねッ!』
何度も、何度も、剣で斬りつける。
だが、壊れない。
分厚い魔力の壁は私の剣を難なく弾き返し、壁の向こうにいる悪霊を守っている。
このままでは……
『その者は答えた。我は群体。我は個。大勢にして一、一にして大勢なる者』
世界は破滅への階段を転がり落ちていく。
『くそッ!どうして壊れないッ!』
焦りが募る。
これ程の焦心に駆られたのは人生で初めてかもしれない。
あの悪霊を止めなければ。
ハウゼンなど比べ物にならない脅威がこの世に具現化してしまう。
『男はさらに尋ねた。お前の名は何か』
ハウゼンは笑っていた。
まるで死にゆく者達を見て嘲笑う時のように。
私の弟を化け物に変え、私と殺し合わせた時も同じ笑みを浮かべていた。
『その者は答えた。我が名は《レギオン》』
世界が醜き魂の群体によって覆われてしまう。
こともあろうに、あの男が呼び出した悪霊などにッ!
『くそッ!くそ、くそッ!』
天使の力を持ってしているのに、どうしてこの結界は壊れないッ!
聖典の加護を受けた私達の刃がなぜッ!
「わからないかね?」
ふと、声が聞こえた。
ハウゼンの声だ。
結界の向こうでハウゼンが私達を嘲笑っている。
「君たちの崇める神など何処にもいない。仮にいたとしても君たちを見捨てのさ」
『うるさいッ!』
そんなこと、あるわけがないッ!
神はいる。
常に私達を見守り続けてくださっている。
私達の正義は神から授かりしものだッ!
「なら、君たちの正義とやらが彼を超えられるかどうか試してみるといい。君たちの言う神がいるのであれば、君たちを勝利に導くだろう」
だが、仮に聖典の騎士達が敗北したら
―神はもう、君たちの傍にはいない―
『我々は大勢であるがゆえに、一であることを命じられた者なり』
その時、全ての言葉が紡ぎ終わってしまった。
止めることは出来なかった。
その瞬間、ランタンから悪霊が飛び出し、宙を舞った。
ぐるぐると螺旋を描きながら、しかし、迷うことなく背後の巨石へと向かっていく。
見えない力で宙に浮く、不可思議な巨石。
悪霊は溶けるように巨石へと入り込み、姿を消した。
禍々しい光が消えると同時に部屋を走る細い溝、そこから溢れていた真赤な光も同時に消えてしまう。
その直後だ。
ドックンッ!
私の心臓が跳ね上がった。
頬を冷たい風が吹き抜ける。
巨石に筋が浮かび上がった。
赤い光によって角ばった筋が巨石を覆っていく。
そして、浮き上がった筋から赤黒い霧が漏れ出てきた。
霧は巨石を覆い、不気味な笑みを浮かべているハウゼンもその中に取り込んだ。
そして霧の中から、巨大な何かが動く音がした。
『回避しろッ!』
私が叫んだのは騎士としての直感だった。
何かが霧の奥から何かがやってくるッ!
Another view end
◇◇
何かが来る。
カターリナは自らの直感に従い、背中に生えている羽根に力を籠め、一瞬で身をひるがえした。
直後、風が吹き抜ける。
頬をかすめ、兜から出ている金色の髪を撫でた。
でも、カターリナは理解する。
この風は急旋回した自分が巻き起こった風ではない、と。
「うああああああああああああッ!!」
時間がゆっくりと流れていくような感覚に囚われながら、部下の一人が悲鳴を上げるのを聞いた。
歴戦の猛者であり、今まで数多くの闇の者達を葬ってきた精鋭中の精鋭。
それが今、恐怖に染まりきった声で叫んでいる。
カターリナは何も考えることができないまま、声のした方を振り返った。
「――――――ッ!!」
兜の中に隠されている天使の眼が開かれた。
視線の先にあったものは帯状の何か。
赤黒い物質で出来ているそれは先端が鋭利に尖っており、まるで槍のようだった。
淵と中央に、赤い光のラインが走っている。
ただ、人の扱う帯とは大きさが比べ物にならない。
人の身の丈ほどある幅、厚みも人の幅と同じぐらいある。
槍とも帯とも言えない巨大なそれが、騎士とペガサスを串刺しにしていた。
(なんだ……あれは……)
突然の出来事に思考が働かないカターリナだが、これだけはわかった。
部下はもう助からない。
助けを求めるように自分を見つめるペガサスに跨る騎士。
「たい……ちょう……ッ!!」
槍に体を貫かれ、血の吐きながら彼は擦れきった声で助けを求めてくる。
必死に手を伸ばし、助けてくれと懇願してきた。
カターリナは求めに応じよう反射的に手を伸ばしていた。
しかし、その思いは全く実ることなく、彼を奪い去っていった。
「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!」
彼は愛馬と共に、赤黒い霧の中へと消えていった。
そして
がぶりッ!!
霧の中から生々しい音が聞こえた気がした。
ムシャムシャ……ボリボリ……
と生々しい音が続いてくる。
『ウバッテ……ヤル………』
聞こえてくる、禍々しい声。
空気を震撼させ、臓物を揺さぶってくる程の凄まじい声量は赤黒い霧の向こうから発せられた。
『ゼンブ……奪ッテヤルウウウウウウウウウウウウウウウウウウッ!!!』
ウオオオオオオオオオオオ―――――!!
狂ったような雄叫びと共に赤黒い霧が飛散し、その正体を露わにした。
『なんだ……こいつは……』
霧の中から姿を現したのは、赤黒い甲冑に身を包んだ異形の騎士。
頭頂部に扇形をした、巨大な金属の飾りがついているヘルメットに《3つの顔》。
逆三角形の胸甲に包まれた胴と、重厚な肩甲にから生える《6本の腕》。
異様な大きさを持つガントレットと鋭く尖った《金属の指》。
関節や鎧の隙間から覗く《歯車》。
そこにいたのは三面六臂の機械仕掛けの騎士だった。
体躯は20m近くもある。
だが、その巨躯以外にも目をひくものが機械仕掛けの騎士の背中にあった。
先ほど部下のペガサス騎士を貫き、霧の中へと引きずり込んだ帯のような槍のような何か。
それが騎士の背中から生えていた。
それも一本ではなく大量に。
先端は槍のように鋭く、人体も金属製の鎧すらも平然と貫けるにもかかわらず、しなやかに動いていた。
(まさか……これは……)
背中から生えている触手の質感が先ほどまであった巨石の表面とよく似ていた。
いや、おそらくは同じだろう。
カターリナが目にした宙に浮く謎の巨石。
あれは石ではなく、今、騎士の背中から生えて蠢いている帯。
それが機械仕掛けの騎士を包み込み、守っていたのだ。
ギャアアアアアアアアアアアア―――――!!
機械仕掛けの騎士が金切声のような雄叫びを上げる。
三つの顔が同時に口を開いていた。
騎士には三つの顔があった。
正面と、右と、左に、それぞれ表情が異なる。
正面は何かに激昂しているかのような険しい顔。
左は何かをあざ笑うかのような楽しげな顔。
右は何かを嘆くような悲しげな顔。
それらが同時に口を開き咆哮を上げている。
そして大きく開かれた口の奥から顔をのぞかせたものを見て、カターリナは戦慄する。
それは《巨大な髑髏》だった。
おまけに髑髏の色は白じゃない。
血のにじむような赤だ。
髑髏には筋肉と思わしき繊維が纏わりはじめている。
人が白骨化していく様子を巻き戻して見ているかのように、赤い髑髏に、血の滴る筋肉が付き始めている。
それが、先ほど食べた自分の部下の肉であるとカターリナは感覚的に理解できた。
『散開だッ!散開しろッ!』
と叫びながら部下を振り返った時、赤黒い影が視界を過った。
「うあぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!!」
断末魔の叫びが聞こえてくる。
また一人、部下が捕まった。
騎士の化け物から伸びた帯に愛馬ごと貫かれていた。
カターリナはただ、呆然と見ている事しかできなかった。
ペガサスと騎士をまとめて串刺しにした帯は、騎士を顔の前まで移動させる。
嫌な予感がした。
そんなことがあるものか、と。
でも、予想は間違っていなかった。
パカリ、と赤い骸骨がその口を開いたのだ。
大きく開いた兜の口元。
そこから覗く、筋肉の繊維がうっすらと張り始めた赤い髑髏。
そいつがさらに口を開いたのだ。
そして生き物の歯とは似ても似つかない、四角い鉄板を並べたような金属の歯をのぞかせる。
三面六臂の騎士はそこにカターリナの部下を頬り込み、ガブリと食らった。
ムシャムシャ、ボリボリ、と生々しい音が続く。
(食ってるのか……人を……)
三面六臂の騎士は人を食っている。
これで二人目だ。
だが、カターリナはそこで騎士がガクガクと震えていることに気付いた。
まるで全身にエネルギーが滲み渡っていく快感に悶えているように見えた。
鎧と鎧の狭間から赤黒い霧が、プシュウ、プシュウと吹き出てくる。
「こ、この化け物めッ!」
動いたのはカターリナの親衛隊の一人。
『よせッ!やめろッ!』
とカターリナが叫んだ時には遅かった。
騎士はペガサスを駆りながら掌を突き出した。
その掌に光り輝く魔法陣が浮かび上がる。
光魔術の中でも上位魔術にあたる、《光の聖槍》を放つための魔法陣だ。
魔法陣から連続して光で出来た剣が射出され、赤黒い騎士に命中する。
爆炎が上がり、一瞬、姿が見えなくなった。
が、次の瞬間にはその部下が煙の中から伸びてきた帯に貫かれ、叫ぶまもなく煙の中へと引きずり込まれた。
そして鎧ごと骨をかみ砕く音がしても断末魔の悲鳴は聞こえてこなかった。
煙がはけるとそこには無傷なままの赤黒い甲冑を纏った騎士がいる。
プシュゥー
と、また空気の抜けるような音がした。
騎士の甲冑と甲冑のつなぎ目から赤黒い霧が排出されてくる。
そして、体中から赤黒い稲妻を迸らせた。
(こいつ……人を食べて……自らの糧に変えているのか……)
そこでようやく思考が回り出したカターリナはある一つの可能性を導き出した。
ずっと伝説だと、ただの作り話だと思っていた、あの存在を。
Armed……そして
(巨神機兵……)
古代レイヴァン帝国が生み出したArmedの最高傑作が一柱、それがここにッ……!
「隊長ッ!」
カターリナの顔の横を飛んでいる部下が叫んだ。
「あれをッ!」
その言葉ではっとなり前を向く。
すると、その瞳にはまたもや信じられない光景が飛び込んできた。
騎士が変化を始めているのだ。
二つの脚の、脛の中央がボキリと折れることで獣のような足へと変化する。
二本の腕を地面に着き、四つん這いになる。
背中に乱雑に生えていた帯が、鬣のように背筋へと整列した。
甲冑を纏った騎士が、三つ首の獣に《獣化》したのだ。
ウオオオオオオオオオオオ―――――!!
首筋まで裂け目のある巨大な口を三つ同時に開きながら、咆哮を挙げる騎士。
直後、猛牛のごとき重厚さと速度を伴ってカターリナに突撃を仕掛けてきた。
「くそッ!」
咄嗟にカターリナは手のひらを突きだし、白い魔法陣を出現させる。
『光の砦ッ!』
突き出した手のひらを中心に光の魔法陣が大きく展開する。
悪霊とハウゼンを守っていた赤黒い魔法陣と同じ、魔力の壁を形成する魔術だ。
だが、その性質は光。
闇の力から術者を守る時、最も効果を発揮する。
もし赤黒い騎士の性質が闇ならば、カターリナの光の壁を突破するのは容易ではない。
ばこぉんッ!
巨大な激突音がした。
しかし、吹き飛ばされたのはカターリナだった。
赤黒い騎士は難なく光の砦を兜の頭頂に取り付けられた扇状の刃で突き破り、天使化したカターリナに体当たりをくらわしたのだ。
だが、光の砦は確かに魔力の波動を持って騎士を拒絶した。
それはつまり、騎士の性質が闇であることの証だ。
でも、騎士の化け物はいとも簡単に光の防壁を破壊した。
『うあぁぁぁぁッ!』
武装した天使が真黒な部屋から飛び出し、石の床をゴリゴリと削りながら回転し、無様にのたうちながら先ほど来た道を戻らされる。
『く……そう……』
純白の天使は土と埃にまみれて汚れていた。
上半身を起し、赤黒い騎士を探す。
「来るなッ!来るなぁぁぁぁぁぁッ!!」
すると、あの黒い部屋に残っていた天馬騎空団の団員たちが赤黒い騎士に追われていた。
ペガサスを駆る騎士たちは一目散にこちらへと逃げている。
ペガサスは主の焦心を敏感に感じ取ったかのように訓練の以上の速度を発揮していた。
だがそれは獣化した騎士の化け物も同じ。
猛牛のように凄まじい速度で追撃してくる。
そして一人、また一人と天馬騎空団の騎士たちは機械仕掛けの騎士の背中に生える鬣に捕まり、食い殺されていく。
「「「うあぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!!」」」
断末魔の叫びが神殿の巨大な通路に響いた。
「隊長ッ!撤退しましょうッ!!」
裏返った声で叫んだ一人の天馬騎空団の騎士。
カターリナの親衛隊だ。
神のためならば死をもいとわない筈の彼らが怯えきっている。
実力差がありすぎるのだ。
自らの死によって何かを成し遂げられるならば命を投げ出すこともできようが、ここで戦っても犬死するのが目に見えている。
逃げるのと撤退とでは意味がまるで違ことを、カターリナも十分に理解していた。
『よし、撤退だッ!撤退しろッ!この戦闘区域から脱出す―』
と、そこまで言って声が途切れた。
周囲を取り囲んでいたペガサスの騎士たちの顔が凍り付くのを見た。
なぜそんな顔をする?
なぜ自分の声は途絶えた?
疑問が脳裏を過った時、ある不可思議な感覚に襲われた。
体が浮き、吹き飛ばされる感覚だ。
カターリナは追撃してきた化け物にまたしても体当たりを食らっていたのだ。
一瞬の間に凄まじい衝撃が体に叩きこまれ、たとえ天使化している肉体であってもそれに耐えることはできなかった。
どかぁぁんッ!!
天使化したカターリナの肉体が通路の突き当たりにある壁に勢いよくめり込んだ。
石の壁を抉り、土埃を巻き上げる。
その中に、ぐったりと尻もちをついた武装天使がいた。
『なんて……力だ……』
天使化していたとしても痛みは感じる。
今の今まで殆ど感じたことはなかったが。
「隊長ッ!」
そこでまた聞きなれた声がして顔を上げると、目の前に、自分を守るよう赤黒い騎士との間に飛ぶペガサスの騎士たちの背中が見えた。
「早くお逃げくださいッ!」
「ここは我々が食い止めますッ!」
彼らもカターリナの親衛隊だ。
突き出した手のひらに魔法陣を出現させ、光の砦を出現させる。
巨大な魔法陣を二重に重ねることで壁の密度を高めているのだ。
だが
『バカッ!逃げろッ!』
そんなもの、あの化け物からしてみれば紙装甲も同じ。
―ウオォォォォォォォッ!―
赤黒い騎士が前足を掲げ、真横に薙ぎ払った。
獣化した騎士の前足には全ての指に鋭利な金属の爪がある。
ペガサスの騎士たちが張った光の砦はそれに一瞬で引き裂かれ、同時に発動者だった騎士たちも肢体をバラバラに切り裂かれた。
『あ………』
カターリナの目の前を、ミンチになったかつての部下たちの肉体が落ちていく。
そして、それを舐めとるかのように地面に顔をつけ、貪る赤黒い騎士。
貪欲なまでに血肉を欲していた。
『化け物……化け物めッ!』
カターリナは飛び上がり、右手に白銀の剣を、左手に白銀の盾を構える。
そして、食事に夢中になっている赤黒い騎士に側面から飛び掛った。
『くらえッ!』
白銀の刃をか細い騎士の胴へと突き立てる。
だが、刃は甲冑の分厚い装甲を突き破ることが出来ず、弾き返された虚しい感覚だけが返ってきた。
そして次の瞬間、またもカターリナの身体は吹き飛ばされる。
邪魔者を手で払うような雑な仕草で、肩から生えている腕がカターリナを払ったのだ。
騎士には腕が全部で6本ある。
内2本は前足になったが、4本は未だ人の形をして健在である。
カターリナの天使化した体はその圧倒的な力の前に吹き飛ばされた。
まるで勝負にならない。
◇◇
神殿の入り口ではヘクトリア王国軍がキャンプを設営し始めていた。
神殿内部の掃討はローエン教皇領が行う、と天使化したカターリナが決めたためだ。
ヘクトリア王国軍も古代の遺跡には感心があり、中に入りたいと申し出たが却下された。
もともと、ハンマーベル山は王国の領域内にある。
そのため本来ならばローエン教皇領に指図される謂われはない。
だが、カターリナは天使へと変身する能力を持っており、自分達がどれだけ抗っても勝てる相手ではなかった。
おまけに、彼女が率いる天馬騎空団は聖典騎士団の中でも精鋭中の精鋭。
現在の兵力で事を構えても勝機はないと見た司令官の判断で、ヘクトリア王国軍は神殿に足を踏み入れないことに決めた。
カターリナの命に従い、神殿を拠点として確保する。
ヘクトリア王国軍はローエン教皇領の増援が到着しだい、ここから離れる。
ここで見たことは他言しない。
それが王国軍に課せられた任務だった。
「にしても、さっきから凄い音だな」
「ああ、神殿の中から響いてくる。ローエン教皇領の連中、派手に暴れまわってるな」
既にブラン帝国軍を殲滅し終えたヘクトリア兵達は緊張の糸を緩め、他人事のように振舞っていた。
あの天使とペガサス騎士の精鋭たちのこと、ブラン兵に負ける筈も無いと思うのも当然だろう。
確かに、カターリナ率いる天馬騎空団はブラン兵には負けないだろう。
だが彼らに、遺跡の中で戦っている相手がブラン兵とは限らない、という考えは無かった。
しかし、仮にあったとしても何の意味もなさなかったのは間違いない。
どかぁんッ!!
その現実が、遺跡の壁を何かが突き破る音と共にやってきた。
騎士達は反射的に音のした方角を見て、遺跡の壁を突き破ってきたものが何かを見た。
視線の先には、宙を舞う天使。
それはカターリナという名前の、聖典騎士団の騎士が天使へと変身した姿だった。
だが、その全身は血にまみれ、美しかった白い翼は赤く染まっていた。
その天使がヘクトリア王国の設営したキャンプへと落ちた。
偶然にも司令官がくつろぐテントの目の前に。
「なんだッ!」
司令官は手にしていた杯を投げ捨て、キャンプから飛び出ると、落ちてきた天使を見る。
「これは……」
天使が、あの美しい天使がズタズタにされている。
鎧はいたる所が抉れており、血が滴っている。
羽毛のような翼は所々が食いちぎられ、無くなっている。
「閣下、あれをッ!」
副官が指を指した方向には遺跡の出口へと逃げていくペガサス騎士たちの姿があった。
自分達の指揮官がこんな有様なのにそれを見捨てて逃げていく。
しかも、30騎近くいた騎士たちがわずか5騎にまで減っていた。
『に……げ……』
そこで、天使の首が回り司令官を見る。
壊れかけの兜から覗く緑色の目が必死に何かを訴えようとしていた。
『に……げろ……はや……く……』
「逃げろ、だと?」
司令官はふと、天使が突き破ってきた穴を見る。
するとそこから、全ての元凶が飛び出してきた。
―ウオォォォォォォォッ!!―
遺跡の壁に空いた風穴をさらに突き破って広げながら、獣化した赤黒い騎士が姿を現したのだ。
その口にはペガサスを咥えている。
まだ息があるが、口から血の泡を吐いていた。
騎士は容赦なくペガサスをかみちぎり、絶命させ、貪り食う。
神聖さの象徴とも言われるペガサスがあっという間に見るも無残な姿へと変えられた。
「なんだ……あれは……」
赤黒い、獣化した騎士は巨大だった。数十メートルはある。
全身から赤黒い霧のようなものを排出し、赤黒い稲妻を纏った体を震わせていた。
『逃げろ……今すぐ……』
赤黒い騎士に目を奪われていると、その脇で武装した天使がまた訴えかけてくる。
逃げろ、と。
だが、人というのは突然のことに対処することが出来ない。
司令官はただ茫然と天使を見て、そして再び赤黒い騎士を見たが……
「いない……?」
神殿の横穴から顔を覗かせていた赤黒い騎士がいなくなっている。
中に戻ったのだろうか?
それなら直ぐに全軍をここから撤退させねば。
号令を出すべく声を発しかけた司令官の耳に、ヒッ!という引き攣った声が聞こえてきた。
何に怯えているのかわからないが、今は号令が先だとした司令官。
次の瞬間、彼の肉体は赤黒い騎士の足裏に踏みつぶされていた。
空から赤黒い騎士が降ってきた。
滑らかな挙動からのたった一跳躍で天使の目の前まで飛んできたのだ。
着地の衝撃で地面が抉れ、周囲の人とテントが衝撃で吹き飛ばされた。
だが、傷ついた天使だけはその自重によってかろうじて動かなかった。
『ウバッテ……ヤル……スベテ……ノコラズ……』
獣化した騎士が、静かに、ズタズタにされて横たわる騎士の脇へとやってきた。
そしてヘルメットの口を天使の眼前へと移動させ、大きく開いた。
パカン、と顎が外れる様に開かれた先にあったのは人の顔。
激怒したような厳しい表情を浮かべ、血のように真赤な肌をした人の顔。
つい先ほどまで髑髏であったものが、いつしか人の顔へと姿を変えていた。
しかし、どこか造形じみていて、人の顔を模した仮面のようにも見える。
人の顔は大きく口を開き、角ばった金属の歯が並ぶその奥に深い闇をのぞかせた。
そしてその奥に、赤く煌く巨大な目玉が現れた。
それがあの、ランタンの中に入っていた悪霊の光であると直ぐにわかる。
あの、下の球体の奴のものだとなぜかわかってしまう。
機械の鎧の中に、さらにもう一つ、血肉に守られた外殻があり、その中に本体たる悪霊が隠れていたのだ。
その向こうはあの世へとつながっている。
悪霊の胃袋という名のあの世に。
食べたものは全て喉奥の悪霊が食らい、その血肉となるのだ。
その運命が確実となってもなお、彼女は騎士としての自分を失わなかった。
『信じるもののために戦った……。悔いも恐怖もない……』
敗れたことには変わりないが彼女は神に仕える騎士として、聖典騎士団の一員として最後まで抗った。
―勇気をもって戦う者を神は愛する―
聖典に記されている最初の一文。
これに照らせば、カターリナは神の慈愛を受ける権利が約束されるだろう。
彼女は静かに瞼を閉じ、神にその身を委ねた。
直後、天使は化け物の口の中に放り込まれ、化け物の血肉となった。
次回 殺戮考察