18話 利他主義者の独白
ネガティブな描写が非常に多いです。共感性が高い人は心が健康な時に読んでください。
「ふぅ……ただいま」
いつものことだけど、家に帰ってくると疲れが一気に襲ってくる。
それにしても、家の前までみんなが付いてくるなんて、こんなこと今までなかったな。
でも、みんなの命と町を守れたのは素直に誇らしいし達成感がある。
ドラゴン討伐で酷い怪我をしたし、1つ間違えたら死ぬ場面もあったけど、辛いとは全然思わなかった。
お姉ちゃんとシアさんが喜んでくれたし、心配して医師ギルドまで付いてきてくれたから。
それに、今日の表彰式では沢山感謝されて嬉しかった。
今までも町のみんなのために地道に依頼をこなしてたけど、やっぱり直接命を守る以上の貢献はないと思うし。
そういえば、カイト先生はなんで表彰式に出なかったんだろう。何か理由があったのかな?
……考えても仕方ないか。
お姉ちゃんはお祝いの席に行ってまだ帰ってきてないけど、今日はもう寝よう。
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今日も朝から鍛錬をして、その後仕事だ。
どうやらお姉ちゃんによると、町のみんなからの依頼が沢山来ているらしい。
冒険者ギルドに行ってみると、僕の周りにいる人が増えていた。
町の人の依頼を受けて仕事をしたり、他の冒険者パーティーの付き添いで遠出したり大忙しだ。
こんなに沢山の人から依頼されるなんて、冒険者として認められてるって事だよね。
嬉しいけど責任も感じる。もっと頑張らないといけないな。
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表彰式の約1週間後。
今日の午後の1つ目は町の人からの相談で、隣人の家庭内暴力を止めてほしいとのこと。
毎日夜になると隣の家の男が怒鳴っていて、それが近所迷惑なようだ。
その日の夜。
他の依頼を幾つも達成した後で疲れていたが、「早めに解決した方がいいんじゃない?」とお姉ちゃんの一言で張り込み調査が決まった。
今回はどうやら一緒に行くつもりらしい。
現場に行ってみると男の怒鳴り声が辺りに響いていた。
「料理も掃除も子供の世話もできない!一体何ならできるんだよ!お前は!」
「……ごめんなさい」
「私は毎日毎日仕事で忙しいのに、お前はどれだけ時間を無駄にすれば気が済むんだ!」
窓越しで距離があっても、こういう風に怒られている人を見ていると、僕も怒られているような気分になって苦しい。
怒鳴り声が響く度に心が疲弊していく。
すぐに家に入って止めたいけど、タイミングが見つからないな……
そんな事を思いながら様子を窺っていると、
「私のこの怒りを本当に分かってんのか!?」
「……ごめんなさい」
「……ッ!」
男の方が手を振り上げたので慌てて家に入って腕を掴んだ。
「誰だお前は!何すんだ!」
「落ち着いてください……!暴力はダメです!」
僕が床に組み伏せる形で動きを封じた後、お姉ちゃんが後からやってきた。
「そうだよ〜暴力はダメダメ!」
「わかったから!手を離せ!」
こんな状況で暴力は振るわないだろうと判断して男を解放した。
その男は手首を触ったり、首を伸ばしたりしながら僕達に質問した。
「チッ……貴様らは何だ?何の権利があって私の家庭に首突っ込んでんだ?」
「実は僕……俺達は冒険者なんだが、近所の人から怒鳴り声がうるさいから止めてくれと依頼が来たんだ」
そう理由を説明すると、男はアッサリと眉間の皺を消して頭を下げた。
「そうか。君たちにも近所の人にも迷惑をかけたな」
「これからは夜に近所迷惑になるような説教はしないようにする」
説教って……その範疇超えてたと思うけど。
「申し訳ないが、君の方から相談者さんに謝ってもらえないか?私は毎日毎日非常に忙しいのでな」
「それは構わないが……」
これで依頼は達成したけど、これで終わりで良いのか?
いや、ダメだ。何も解決されていない。
奥さんの俯く姿を見たら、このままで良いなんてとても言えない。
「少し待ってくれ。もうちょっと話を聞かせてくれないだろうか?」
「私も気になるな〜♪」
お姉ちゃんは純粋に興味があるようだ。何か余計な事を言わないか心配だが……
「聞きたいなら聞かせてやろう。私がこいつのせいでどれだけ苦労しているのか!」
そう言った旦那さんは奥さんに対する不満を次々と吐き出した。
内容としては一貫して家事も育児もできない奥さんへの罵倒だった。
僕はどうしてもこの状況が耐えられず、冷や汗をかきながら旦那さんの言葉の途中で奥さんの擁護をしていた。
その間も微動だにせず長い髪を前に垂らして俯いている奥さん。今にも消えてしまいそうなほど儚げだ。
「でも、何にもしない奥さんの方も悪いよね〜?」
そんな様子を見てお姉ちゃんが意地悪な事を言う。
何か癇に障ったのかもしれないが、流石にそれは酷いな。
あんな調子で毎日怒鳴られたら気力がなくて動けないのも当然だと思うし、奥さんが悪いなんて僕は絶対に言えない。
どう考えても悪いのは旦那さんの方だ。
「まぁ、旦那さんの不満の伝え方も酷いと思うけど、反論しない奥さんもどうかと思うし、そんなに傷つくのもどうなのかなぁ〜って思「兎に角!」」
やっぱり余計な事を言ったので、それに被せた。
「俺達が解決できる問題ではない事は分かった」
「夫婦関係を続けるとしても離婚するとしても、最終的に話し合いは必要だと思う」
「だから冷静に話し合えるまで離れて生活するのはどうだろうか?」
「そうだな……このままでは私が擦り減っていくだけだからな」
旦那さんに奥さんを思い遣る気持ちはもう残っていないようだ。
「念の為お二人に言っておくが、役所に相談するのも良い選択だと思う」
「あと、次に相談が来たら問答無用で役所の人を呼ぶからな」
そう警告してから家を出た。
「ハインくんは凄いな〜こんな難しい場面でも良い提案できるなんて☆」
「でも、私も頑張ったでしょ?褒めて褒めて〜」
「お姉ちゃんはすごいよ」
「うんうん……ってそれだけ?」
「もう帰るよ」
「置いてかないでよ〜」
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非常に気疲れしたあの依頼から1週間後。
今日は冒険者ギルドにカイト先生が来る日だったらしい。
最近ちょっと体調が悪いから予約しようかな。カイト先生を推薦したのは僕だし。
2人に渋い顔はされたが、どうにか次回の朝に予約を取ることができた。
少しだけ軽くなった足取りで午前中の依頼を終わらせた。
昼休憩の時間。
最近忙しくて行けてなかった鍛冶屋に行こう。
「おじさん!」
「おっ?ハインじゃねぇか。今日はどうした?」
「武器のメンテナンスを頼みたい。特に剣の切れ味が落ちてるから見てくれないか?」
「おう、いつものだな。任せな!」
「それじゃまた明日来るから、それまでに頼む」
早めに戻らないと昼食の時間がなくなる。
足早に僕が立ち去ろうとすると、
「ちょっと待ってくれ。今新しい金属で剣を作っててな。試しに使ってみないか?」
「新しい金属?」
「そうだ!これを見ろ!」
そう言って渡されたのは、青白い光を放つ神秘的な剣だった。
思わず見惚れてしまうほど美しい。
「これは……?」
「聞いて驚くなよ?これがうちの新商品、ミスリル剣だ!」
「どうだ!凄ぇだろ?」
「ああ……本当に綺麗だ」
本心からその言葉が漏れ出た。
「これってもしかして……」
棚の上に置かれていた鉱石が無いのを見ると予想は当たっていたようだ。
「おう!置物だったミスリル鉱をやっと加工できるようになったんだ」
「遠くの国でミスリルの加工品が流通していると聞いたことはあるが、現物を見たのは初めてだな」
「この国の鍛冶屋が鍛造できるなんて聞いたことがない」
「ハインならこの凄さが分かると思ってたぜ」
得意げな表情を隠す気がないおじさん。裏表ない感じが親しみやすくて僕は好きだ。
「なんで急に加工できるようになったんだ?」
「それはだな……この本をある人?に貰ったんだよ」
おじさんが持ち上げた本の表紙を見ると、『鍛治の道――灼熱の意思――』と書いてある。
「これには炉の温度を上げる方法が書いてあってな。それを実践してミスリルを鍛造したら加工できたんだ」
「そんな価値のある本を誰に貰ったんだ?」
「そう!そこなんだよ。それが分かんねぇんだよ」
「分からないとはどういうことだ?」
「この本を渡されたのが夜だったからか、ぼんやりとしか見えなかったんだが……」
「手足が長くて、お腹が丸くて……そう!まるで、蜘蛛みたいだったんだよ」
「蜘蛛みたいな人か……今まで見たことがないな」
「うーん、そうか。あれだけ異形だったら絶対ぇ印象に残ってるはずだからなぁ」
「ハインが忘れていることはねぇだろうし」
「おっと、話はそれだけじゃねぇんだ。この本に挟まってた紙とカードを見てくれ」
渡された紙を開くと、これまた不思議なことが書いてあった。
”この本で得た利益の分だけ、このカードに反応するアクセサリーを持つ人間に便宜を図ってください。裁量は貴方に任せます”
カードに反応?アクセサリー?意味不明な内容だ。
僕が怪訝な顔をしていたからか、おじさんは紙の内容に関して何も訊いてこなかった。
「そのカードは隕鉄版なんだが……どんな魔法が入ってるか分かるか?」
そう言われてカードをよく見てみると、魔法が刻まれているのが確認できた。
「これは……特定の条件下で振動する魔法だな。危険性はない」
「要するに、紙に書いてある内容は合ってるってことか?」
「ああ」
「そうか。安心したぜ」
「人気者の時間を奪って悪かったな。これを持っていけ」
おじさんにミスリル剣を手渡された。
「いいのか?」
「ああ。本の知識と技術があれば何度でも作れるからな」
「それなら、ありがたく貰っておく」
深くお辞儀をして感謝を伝える。
改めて手に持って振ってみると、この剣の使い勝手の良さが伝わってくる。
本当に感謝の念に堪えないな。
「これからもみんなの為に頑張るよ。何か困ったことがあればいつでも気軽に頼ってくれ」
「おう!頼むぜ」
「また今度。剣を受け取る時に来るから」
そう言って鍛冶屋を後にした。
昼休憩の時間はもうないが、新しい剣を手にしてやる気が出た。
午後も頑張ろう。
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予約をしてから1週間後、今日は待ちに待った診療日だ。
朝の鍛錬を急いで終わらせて、最速で来た。
「予約したハインだが、入っていいか?」
「勿論、どうぞお入りください」
と、そんなやり取りから始まった診療だが、限られた時間の中で真っ先に感じたのはカイト先生の実力だ。
やっぱり彼はすごい。
あの短い時間で的確に僕の状態を把握して、的確に助言してくれた。
だけど、僕はその助言を無下にしてしまった。
どうしても怖かったんだ。受け入れたら今までの人生の全てが壊れるような気がして。
人間関係については、もう考えたくないな。
どうせ変わらないし、無駄だから。
そして、最後にお姉ちゃんが非常に失礼なことを言ってしまった。カイト先生は何も間違っていないのに。
本当に申し訳ない気持ちで一杯だ。今度会ったら謝らないと。
今は気持ちを切り替えて次の依頼をがむしゃらにやろう。
そんな事を考えながらも、僕の腕はお姉ちゃんに強く握られている。
診療室から引き離すように引き摺られる。
「何なの!あの医者は!お姉ちゃんぷんぷんだよ!」
「何も知らないくせに!あ〜もう!イライラする!」
と、次の依頼を聞く間もなくカイト先生の助言にずっと文句を言っていた。
仕方ないのでシアさんに尋ねる。
「シアさん。次の依頼は何ですか?」
「次は冒険者の依頼です。山の向こうに一緒に行きたいらしくて」
「今から5分以内に南門の前に集合です」
「了解です。お姉ちゃんたちはどうする?」
冒険者ギルドから出たところでようやく足が止まった。
「怒って疲れたし、今回はパスかな」
「私は午後の依頼主との話し合いがありますので」
「それじゃ、行ってきます」
「お昼までには戻ってきてね!」
依頼主のパーティーと共に山を越えて、魔物の生息域へ。
ある魔物の素材が欲しいらしいが、山を越えるだけで息が上がるくらい苦しい。
体調不良の中、同行者にその辛さを共有できない。どうしても強がってしまう。
結局その苦しさを抱えながら魔物の群れを襲撃した。
戦闘中に上手く呼吸ができなくて、それを意識すればするほど肩に力が入ってしまい、思うような行動ができない。
それに、集中もできていなかった。カイト先生に言われたことが頭の中で何度も何度も反芻していたから。
その結果として何度か怪我を負ったが、新しい武器を貰ったお陰で危ない状況になっても切り抜けられた。
何とか依頼を完了して、昼に町に戻る。
折角の機会だから一緒に戦った仲間と食事を摂ったが、どの料理も薄味で物足りなかった。
体調不良を早く治す為に沢山食べたらトイレで吐いてしまった。
料理をしてくれた人に申し訳ないな。
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診療から1週間後。
カイト先生から真剣な眼差しで、診療所で待ってると言われた。
前回の診療の際にも非常に心配をかけたが、そんなに酷いのだろうか。
周りの人は気付いていないし、バレてないと思ったんだけどなぁ。
……それはともかく、覚えておくことにしよう。
「あんな医者なんて気にせずに今日も頑張ろうね!ハインくん!」
「今日は9時から八百屋の依頼が入っているので準備してください」
八百屋か……
自分がやるべき仕事なのか分からないけど、任されたからにはやり遂げなければならない。
現場に行ってみると、大量の野菜果物を載せた馬車が何台も止まっていた。
話を聞くと、今日は安売りの日で大量に仕入れたからその荷下ろしを手伝って欲しいらしい。
関節の痛みが酷かったので、魔法で体を補助しながら仕事を終わらせた。
「いつもありがとうねぇ♡助かっちゃったわ♡」
八百屋のおばさんがそう言って褒めてくれる。
「本当に大したことじゃないですから」
「うふふ♡それならまたお願いしちゃおうかしら?」
「……」
「あら?大丈夫?」
「えっ?……すいません。少しぼんやりしてたみたいで」
「いいのよ♡イケメンをこんな間近で見れて眼福だったわ♡」
「目が醒める果物を袋に詰めてあげる♡」
「ありがとうございます」
「それでは次の仕事があるので」
そう言って八百屋を後にした。
「次は町の東にある家の改築ですね。時間がないのですぐに行きますよ」
現場に到着すると、建材を屋根に運ぶのを手伝って欲しいという依頼だった。
「私達は下で応援してるから、力仕事はよろしくね〜☆」
2人はいつも通り日陰で休憩しながら談笑している。
……
そんなこんなで今日の仕事が終わって家に着いた。
今日はもう寝てしまおう。
と思ってベッドに入ったが寝付けない。
身体が変に覚醒しているのか、寝つきが悪い。頭が痛い。
結局寝たのは空が白み始める時間だった。
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ここは冒険者ギルドだ。
扉を開けて入ると、いつもの面々が待ち構えていた。
「おう!ハイン!」「今日は遅かったね」「俺の相談を聞いてくれ!」「私の方が先なんですけど!?」
彼らが駆け寄ってくる。
誰が何を言っているのか理解できない喧騒と人の熱気の中で、耳の奥から不快な金属音が聞こえた。
その音を無視して振る舞う。
「入口にいると他の人に迷惑だからいつもの場所に移動しようか」
大人数を引き連れて移動する。
その間も会話は欠かさずに歩いているが、耳鳴りのせいで自分が何を言っているのかわからない。
足元がふらついて、頭がぼ〜っとする。耳鳴りに続いて視界もぼやけてきた。
自分は真っ直ぐ歩いているのだろうか?
目的地も定まらないまま歩いていると、前を歩いている人の背中にぶつかった。
「みんな並んでね〜☆」
「要件のある人は順番にどうぞ」
遠くからそんな声がする。
毎日毎日同じことを繰り返しているからそんな幻聴が聞こえているのかも。
と、ふと思った。
この時間、僕はマスコットだ。会いにきた町の人と笑顔で話をしたり、同僚の冒険者の相談事に乗ったりする。
しかし、僕は今いつも通りに笑顔で格好良く振る舞えているのだろうか?
自分の感覚がない。
耳は碌に聞こえない、目は霞んでいる、頭は働かない。
何も感じない空間の中で、どこからか糸が切れる音がした。
あれ?今僕は何をしてるんだっけ?
あっ……そうだ。
おじさんに貰った剣の試し切りをしてるんだった。
見覚えのある人を斬ってみたけど刃こぼれしていない。流石ミスリルの剣だ。
剣を自慢しようと思って周りと見渡すと、観衆は斬った人と同じ顔ばかりだった。
みんな金切り声を上げながら必死に逃げ惑っている。
うるさいなぁ、と思った。
目の前で転んだこの人を斬ってみるか。
怯えた顔をしてこちらを見上げている。
その表情も見たことある気がするなぁ、と思いながら斬った。
誰も逃げ出せないこの空間で、歩きながら少しずつ斬っていく。
同じ顔の人を次々と斬っていると、心の中のモヤモヤが少しずつ消えていく気がして、気分が良かった。
見覚えのある顔が誰なのか、ずっと考えているが思い出せない。
だけど、すごく安心している。
これでもう僕は自由なんだ。
明日からどこに行こうかな。何をしようかな。
そんなことを考えていたら、自分以外の事なんてどうでもよくなっていた。
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「はぁ……はぁ……」
飛び起きると、そこはベッドの上だった。
こんな惨たらしい夢を見てしまうとは……自分が信じられない。
僕みたいな人間が生きていていいのだろうか。本当に気持ち悪い。
でも、仕事に行かなきゃ。
行かなきゃいけないのに、身体が動いてくれない。
これは……本当に限界なのかも。
「ハインく〜ん♪起きた?」
「……ごめんお姉ちゃん。今日は調子悪いみたいだから休んでもいいかな?」
「えっ!?ちょっとおでこ出してみて」
「う〜ん、熱はないし、身体は大丈夫そうだけどな〜」
「でも、本当に気分が悪くて……」
「大丈夫だよ〜ハインくんは天才だから!」
「それに、今日の依頼をキャンセルしたらみんなガッカリするし、ハインくんの仕事が減るかもしれないよ?」
「でも、こんな状態で……」
「何でお姉ちゃんの言うことに反対するの?今までそんなことなかったじゃん」
「お姉ちゃんのこと嫌いになっちゃったの?」
「そう、じゃない、よ」
「なら行こ!みんな待ってるよ!」
俺の手を取って強引にベッドから引っ張り出す。
やばい、吐きそう。気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い。
「ごめんなさい!」
思い切りお姉ちゃんの手を振り払った。
「えっ……どうしたの……?」
「本当に無理なんだ……休ませて……」
自分の口を押さえながら消え入りそうな声で言った。言ってしまった。
もう後戻りできない。心が張り裂けそうだ。
「分かったよ……お姉ちゃんだけで行ってくるからね。ゆっくりしててね……」
お姉ちゃんが出て行った後、僕は覚束ない足取りで部屋の扉の前まで歩いて鍵を閉めた。
布団を頭からかぶる。
ぐるぐると思考が巡る。
心臓がドキドキして冷や汗が止まらない。
どうしようどうしようどうしよう。
僕はどうすれば……!
今は休んで明日考えよう。
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「……」
何も考えられない。
身体が動かない。
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「……」
何も考えられない。
身体が動かない。
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2、3日ベッドの上で何も考えず、虚空を見つめて、ぐずぐずしているだけで過ぎてしまった。
最初の頃は「ドアを開けてよー!ねぇ!」「お姉ちゃんが悪かったからぁ〜」「酷いよハインくん……お姉ちゃんを心配させるなんて」「何が嫌だったの?お姉ちゃんに教えてよ〜」「他の人に何かされたの?お姉ちゃんが殺してきてあげようか?」なんて言っていた。
しかし、効果が無いと分かると諦めたようで、最近は気配がしない。
今はみんな仕事をしてる時間か。それなのに俺は……
どれだけ僕は価値のない人間なんだろうか。何もせずに時間を浪費してみんなに迷惑をかける。
きっとみんな軽蔑した顔で見るんだろうな。
心の重さに引っ張られて身体も動かない。
このまま何も食べずに死ぬのかな。
でも、周りに迷惑を掛けている僕なんかに生きる価値はないんだから、それでもいっか。
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ちょっと気絶していた。
少し頭が働くようになると、復帰した後の不安とか申し訳なさとか考えてベッドに身体が沈んでいく。
本当に幼い頃は、できたことを両親に沢山褒められて、それが自信の源になっていた。
それに、昔から他の人に寄り添うことは得意だった気がする。気持ちが自分によく伝わってくるから。
でも、家族が僕とお姉ちゃんだけになってから状況が変わった。
お姉ちゃんは両親の事を思い出して泣いて、いつも寂しそうにしていた。
それを見て、幼い僕も悲しくなった。
お金はあったけど頼れる親戚がいない僕らは、家事と勉強を助け合いながらやっていた。
状況が変わったのは学校に入ってからだ。
僕は学校の入学試験で良い成績を取って特待生になった。
運動と勉強に加えて魔法の勉強までしないといけないから大変だったけど、奨学金を貰えるから頑張った。その分の浮いたお金はお姉ちゃんの学費として使いたかったし。
お姉ちゃんとは完全に校舎が別だったからどんな学校生活を送っていたのか分からない。
だけど、お姉ちゃんは学校に行ってから人が変わった。
家に居る時は何でもかんでも僕に頼るようになった。
家事はもちろん、勉強に関しても僕任せで、課題を僕が代わりにやることが多くなった。
お姉ちゃんはすごい人だから特別扱いしないと駄目って言ってた。
僕も疲れて休みたかったからお願いを拒否した。そうすると、お姉ちゃんは泣くようになった。
お姉ちゃんに泣いてお願いされると身体が縛られたように動けない。
両親が居なくなった時の事がフラッシュバックして、口から自然と「いいよ」としか出なかった。
そんな風にお姉ちゃんに言われるまま生きていると、お願いはもっと激しくなった。
「他人の目があるところでは常に格好良くしていなさい」と言われて、姿勢や口調を矯正された。
一歩家から外に出たら隙を見せることは許されない。
完璧に見えるように頭の先から足の裏まで姿勢を崩せない。
”俺”という一人称には流石に文句を言いたかったけど、何とか不満を内側に押し込んだ。
だけど、そのお陰か学校の女の子からよく声を掛けられたし、仲良くなりたい女の子もいた。
でも、「ハイン君は学校のアイドルなんだから、特定の女の子と仲良くしちゃダメだよ?」と、女の子に言われたから行動を変えた。それが人の為になるから。
僕はこの世界で一生このまま流されて生きていくんだろうなと、悟った。
そこからはずっと綱渡りをしている気分だった。
落ちてしまいたい。でも、落ちない。
どんどん綱が細くなって、歩きにくくなっていくけど、なんとか歩けた。
今、落下して感じるのは最低最悪の気分だ。
あぁ……もう、気絶してそのまま心臓が止まればいいのに。
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それでも目は覚める。
時間が経つ度に自分を嫌いになっていく。
相変わらず部屋の外に出ようとすると体調が悪くなる。無意味に部屋をぐるぐると回る。
『ハインくんってどれだけ迷惑を掛ければ気が済むの?お姉ちゃんに頑張らせて自分は休むって、酷すぎるよ』『もう限界?何を言っているのですか?次の仕事が入っているので5分で準備してください』
お姉ちゃんにもシアさんにも相談できない。
『ハインってこんなに根性なしだったのか。俺だったら無理してでも仕事に行くのになぁ』『あーあ、ハイン様が仕事をしないから町は大パニックだわ』『こんな無責任な人間に期待していたなんて……』
いつも頼ってくれる冒険者のみんな、期待してくれる町のみんなにこんな弱い姿見せられない。
心臓が痛い。頭が痛い。お腹もぐるぐるして気持ち悪い。
……
カイト先生と最後に会った時の瞳を不意に思い出した。
死ぬほど情けなくて格好悪い僕の事を相談できるのか分からない。
でも、このまま家に居るとお姉ちゃんと鉢合わせるかもしれないし……そうなったら耐えられない。
いつもより少しだけ調子良いし、バレないようにフードを被ってカイト先生のところに行ってみようかな……
でも、深夜だし迷惑かも……今にも雨が降りそうだし、明日でも……
駄目だ!
心を引き摺ってでも行かなきゃ。
これが本当に最後のチャンスなんだ。