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1話 世界に拒絶された化物

 

 この場所を、俺はよく知っている。


 薄暗さと不快な湿気に包まれた巨大な空間。


 四方を壁で囲まれ、上部から淡い光が差し込み、下部には底無し沼が広がっている。


 不快度を底上げするように沼には蛆が湧き、ヘドロの悪臭が鼻を捻じ曲げる。


 手錠と足枷をつけてこの地獄に突き落とされた俺は、いつものように空中で目を閉じ、いつもの感覚で体勢を整え、当然のように背中から沼に着水する。


 日々の経験から藻掻いても無駄だと知っている俺は、上から降り注ぐ僅かな光を何の感情も無く見詰め、底無し沼に呑み込まれていく。


 ゆっくりと体に纏わり付くヘドロは、まるで俺の身体や心を溶かして捕食するスライムの様だと、益無い事を考えられる程度には余裕がある。というよりは、今の状況を打開することに興味が無い。


 顔にヘドロが纏わりつくと、口や鼻からヘドロが侵入し、碌に呼吸ができなくなる。


 命乞いをして、泣き喚いて、抵抗して、無駄に体力を浪費するくらいなら、無意味な思考で気を紛らわした方が得だと、物心が付いた時から知っている。


 しかし、死に対して最大限抵抗するシステムが人体に備わっている以上、脳は肺に酸素を取り込もうと全力で体に鞭を打つ。


 喉が詰まって息ができない。


 その現実は脳に激しい負荷を掛け、結果として無限にも等しい体感時間のストレスが精神を破壊する。


 そのストレスは脳の機能停止と共に少しずつ減少し、同時にゆっくりと意識が遠のいていく。





「……くん!」




「……ぃとくん!」



「海斗君!小波海斗(さざなみかいと)君!」


 妙に高い声でそう呼びながら、誰かが肩を揺らしてくる。


 頭が高音に刺激されてズキズキと痛むが、それが気にならないほど眠い……眠過ぎる……


「あ゛あ゛あぁ~」


 寝不足でゾンビみたいな声が出た。


 二度寝したいところだけれども、いつも通りの悪夢で心拍数が上がって、吐き気も頭痛も激しくなって、とてもじゃないが寝られる状態では無い。


 この悪夢はまだマシな方だが、だからといって体が二度寝をさせてくれるわけではないのが純粋にキツい。


 仕方なく顔を上げるが、机に顔を伏せるようにして座って寝ていたからか、顔を上げると照明の光が目を刺激して地味に痛い。


「起きて下さい!!もう閉館しますよ!!!」


 聞き飽きた男の声。他人に意識を割く余裕が無い俺でも、この声の主なら判別できる。


 こいつは俺の家の近くの図書館の司書だ。


 眼鏡を掛けていて細身で運動が不得意なもやしっ子。変声期を過ぎたとは思えない高音で喋るので耳の奥に響く。


 こいつが居るという事は、俺は図書館で寝ていたのだろう。


 体力が無くなるまで本を読んで、その場で気絶するように寝る。良い睡眠環境とは到底言えないが、これが日課だ。


「あぁ~……はいはい」


 目が光に慣れてきたので、手元の新刊を再び開いて読みつつ、意識を分散させてこいつと会話する。


「まったく……いい加減家で寝た方が良いと思いますよ。ここじゃ朝まで寝られないし、寝心地も最悪でしょう」


「余計なお世話かもしれないですけど……睡眠で疲れを取るのなら横になった方が良いでしょうし、本が必要なら幾らでも貸しますよ」


「心配してくれている気持ちは受け取るが……短時間しか寝られないし、寝心地に関しては本当にどうでもいいんだ」


 目の下の酷い隈と疲れ切った表情から今にも死にそうに見えるのだろう。


 これまで色々な人に何度も心配されて、何度も医者にかかったが全く効果が無い。


「それに、家に居てもなぁ……家に居るくらいなら、馴染みの図書館に居る方が何倍もマシだ」


 この寂れた図書館の本なんて幼い頃に全部繰り返し読んだし、今更読みたい本なんて数少ない新刊だけ。


 だが、まぁ、理解のある司書が居るから家よりは全然居心地が良い。


 ……と、そんな会話をしながらも俺は一度も相手の目を見ずに目線は文章を追っている。


 こんな姿勢で話すのは日常茶飯事で、こいつはある程度俺の事情を把握しているから文句は言わない。


 少し本から目を離して周囲の状況を確かめる。


 窓から見える外の景色は真っ暗闇で人の気配が無い。


 街灯の少ない奥まった場所にある図書館だから暗いのは承知の上だが、今日は新月で特に不気味だ。


 読書スペースの一角にだけ照明が当たっている状況。


 周囲の暗さと薄気味悪さがより際立っているような気がする……が、体調が悪いからそう感じているだけか。


「そういえば、朝、訊きそびれたんですけど、いつ日本に帰ってきたんですか?」 


 本格的に会話する気なのか、机を挟んで俺の目の前に座った。


 机に肘を乗せ、顎を支えるように手で顎を覆う。


 こいつは他の利用者が居れば姿勢正しく会話をするが、2人しか居ない場合は楽な姿勢で話す。


 まぁ、そのくらい付き合いが長いという事だ。


 いや……知り合ってから長いのに、この程度しか距離が縮まっていないと言うべきか。


 向こうは俺との距離を縮める気がありそうだが、俺にはその気……というか、気力が無い。


 しかし、機嫌が悪くて無愛想な野郎に構ってくれるこいつが居なくなったら社会との繋がりが本当に消えそうだ。


 だから、数少ない精神的な余裕を消費して、最低限の人間関係を保っている。


「昨日」


 言葉を口に出すだけで億劫だ。口が重い。


「一度家に帰ったんですか?」


「いんや、そのまま来た」


「……偶にはご両親に顔を見せても良いのでは?」


「今更だな」


 俺の親子関係に横槍を入れたところで何も解決しないし、時間の無駄だから是非とも気にしないで頂きたい。


 と、思っていたら、


「まぁ、海斗君の家庭事情に深く踏み込む気はありませんが」


 俺の不穏な気配を感じ取ったのか、案外簡単に引いた。


 相手の感情を読み取って適度な距離を保てるこいつのコミュニケーションスキルは本当に尊敬している。お節介に感じることも多いが。


「相変わらず素っ気ないというか……ほんとに人に興味ないですよね。今回の旅で気の合う人と出会わなかったんですか?」


「ないな」


「う〜ん、少しやる気を出せば友達の1人や2人作れると思うんですけどね」


「目の下の隈と不機嫌な表情と淀んだ雰囲気を除けば、少し寡黙な普通の男の子なんですから。特に顔は印象に残らない普通さで感心します」


「褒めてるようで褒めてないだろそれ」


 まぁ、化粧でもすれば多少印象は良くなるのだろうが……問題点を改善する余裕は無い。


「でも、一昔前の恋愛小説やラブコメでは、運命的な出会いがあって恋に発展していくパターンが殆どで、やっぱり現実にも運命的な出会いってあると思うんですよ。海斗君にもきっと運命を感じるような出会いが……」


 真面目な顔をして青臭いセリフを吐く。相変わらずの恋愛脳。


「出会いを拒絶している人間に運命の人は現れないだろ」


 俺は運命という言葉自体が嫌いだ。都合の良いように使われているのが気に食わない。


「……止めますか、この話。掘り下げても良い事なさそうですし」


 元から暗かった図書館が更に暗くなった。


 悪いが発音するだけで多少キツいんだ。許してくれ。


「それはそうとして、今回の旅で世界に存在する本を全て読んだんじゃないですか?」


 まだ会話をするつもりらしい。


 会話したいなら最低限付き合うが、会話を盛り上げるのに意地になってないか?


「いや、流石に全部は無理。観光客に開放されている程度の図書館、本屋を巡っただけだから」


「それでも尋常じゃないレベルで読書に狂ってますよね」


 文字を通して別世界に逃避していないと自殺しそうになる。


 だから必然的に読む本の種類が莫大になっただけだ。


 本を読むのは生きる手段で、好きかどうかなんて考えられない。


「読書はともかく、自由に旅行ができるのは正直凄く羨ましいです!」


 こいつは好きな国に行った妄想でもしているのか、心ここに在らずといった様子で上を眺めている。


「必要に駆られて旅行をしているだけで、実際は自由度低いぞ。景色も料理も、何もかも楽しめない」


 実際、現実逃避以外で楽しいと思ったことが無い。


 ……あったのかもしれないけど、思い出せない。わからない。


「でも庶民の感覚からしたら、お金に余裕があるだけでいいなぁって思います」


「お金か……」


「まぁ、あった方が良いとは思うが」


 心にもない言葉でお茶を濁した。否定すると話が長くなるから。


 金があったから生き永らえたと言えば耳触りが良いが、無駄に金があった所為で無駄に長生きして無駄に苦しんでいる。


 生きようと思えばなんとか生きられるから死ねない。


 この瀬戸際がいつまで続くか分からないし、現状死んでいるようなものだが。


「ですよね!」


 良い笑顔で嬉しそうに同意しながら、「私も司書の仕事頑張ってお金貯めないと……それとも、副業でもしようかなぁ」と呟いている。独り言のつもりなのか声が小さい。


「そういえば、まだ高校生なんですか?前に尋ねた時は不登校ながらも在籍しているという話でしたが」


「あ……学校行けとか授業に出ろとか、言いたいわけではないですよ」


「分かってるよ。高校に入って初日の授業以降、暫くは不登校って事で学校には話が通っていたけど、今はもう退学した」

  

「あー、そういえば、最初の授業の話を前に話してくれましたよね」


「たしか……授業時間に耐えられなくて、窓から飛び降りて死にかけたんでしたっけ?」


「そうだな」


「そんな事件を目の前で見せられた同じ学校の子にとっては一生物のトラウマでしょうね……」


「あの時はマジで口から魂が漏れそうだった。骨も筋肉もぐちゃぐちゃだったし」


「授業の時間程度なら耐えられると高を括っていたら、全然駄目だったな」


 先生の話を聞いているだけでは集中しきれず、思考が自殺方面に逸れやすいのが原因だったと思う。教科書も1回読み終えたら飽きるし。


 何故かあの時自分の限界を試したくなって魔が差した。


 無理をしないで素直に途中退出すれば良かったのに。と、今になって思う。

 

 入院中1番キツかったのは、肉体の損傷による痛みではなく、自殺衝動を伴う精神的ストレスだ。


 自由に手足を動かせないが故に読みたい本が読めない療養期間は俺にとって地獄だった。


 インターネットがあったからなんとか生き延びたが、それが無ければ舌を噛み切って死んでいたか、ストレスで内臓が溶けて死んでいたか。


 ……あー、思い出したら余計に気分悪くなってきた。


 日々原因不明の自殺衝動に悩まされているというのに、自身の嫌な思い出までストレス源になったら本当に潰れてしまう。

 

「……」


「……」


 沈黙。


 俺の鬱々とした雰囲気を感じ取って黙ったのか?


 そう思って司書を見ると、俺と同じように机に肘をついて本を読んでいるだけだった。


 ページの擦れる音が図書館内に響いた後、不意に欠伸の出る音が聞こえてきた。


 俺はいつも通り閉館時間ギリギリまで本を読む気で居るが、こいつが早めに家に帰って寝たいのなら、俺も帰らなければならない。


 俺の相手をする以外仕事が無いのに図書館に縛り付けるのは流石に悪い。


 最後に1つだけ、前からしようと思っていた質問をしてから帰ろう。


「なぁ、質問して良いか?」


「なんでしょう?」


「世界に祝福される感覚って分かるか?」


「祝福ですか?ん~……」


 考える素振りを見せてから1分程が経って、


「いやー分かんないです。というか、祝福されてない感覚を知らないと比較できなくないですか?」


「まぁ、そうか。変な質問して悪かったな」


「いえいえ。どうしてその質問を?」


「俺が祝福される感覚を知らないからだよ。現実を見て平気で居られる人間が、どんな気分で生きているのか気になった」


 本を読んでも理解できなかったから最も身近な人間に尋ねるべきだと思った。


「んーなるほど。祝福される感覚……感覚かぁ……」


「因みに、祝福されない感覚ってどんな感じなんですか?」


「常に呪詛を唱えられている感覚だな。罵詈雑言で精神攻撃と存在否定をされる感じ」


 それに加えて悪夢もあるから余計に辛い。


「……今まで詳しくは尋ねてなかったですけど、それは……最悪ですね。すみません、説明させてしまって」


「何か思いついたか?」


「うーん。祝福される感覚というものを意識せず生きてきたもので、その感覚を言い表す言葉が思い浮かばないです」


「自然に生きているだけというか……なんとなく生きているだけというか……すみません!私には分からないです」


「……とても参考になった。ありがとう」


「いえいえ」


 億劫だが仕方ない、家に帰ろう。


 と思って本を閉じると、後ろからポタポタと、水の滴り落ちる音が聞こえる。


 何故水の音が?雨が降るような天気ではない筈なのに。


 水滴音の発生源が気になったので、ゆっくりと本を閉じて机の上に置き、顔を上げる。


 すると、目を大きく見開き、口を半分開き、アホ面で固まっている司書の姿があった。


 異常事態に脳が情報を処理できていないのか、まるで幽霊でも見たかのような反応をしている。


 顔は硬直しているが、手足はなんとか動くようで、俺の後ろを震える指で指している。


 明らかな異常事態の全貌を把握するため、俺は高速で後ろを振り向いた。


「なっ……!」


 そこには、空想の世界でしか存在が許されないような、醜悪な風貌をした生き物が体を波打たせていた。


 体は鱗に覆われていて、足は無く、ヒレがゆらゆらと動く、巨大なサメを素体にしたキメラのような生き物だ。水滴音の正体は体表面の水滴だったらしい。


 一体どこから来たのか?なぜここに居るのか?など次々と湧いてくる疑問を整理する間もなく、俺と目が合った瞬間にサメは尾ヒレと腹をくねらせ、本棚をなぎ倒しながら、猛スピードで突進してくる。


 このまま喰われると思ったら、数メートル前で尾ヒレを勢いよく地面に叩きつけて跳ねた。


 急激な行動の変化に視線を上に向けるのがやっとで、上を向くと大きな口を全開に広げて俺の真上から落ちてきているのが認識できた。


 ゆっくりと進む体感時間の中で生命の危機を感じながらも、体が蛇に睨まれた蛙のように動かない。


 大きな口の中がブラックホールのようだと感じるだけで精一杯だった。





 ……サメに喰われたが、どうやらまだ生きているらしい。


 歯は見えなかったので、噛み殺されないと思っていたが……


 真っ暗な口の中で転がされている。


 水が充満しているのでそう長く息は保たないが、多少の思考はできそうだ。


 まず、このサメに喰われた時、地面にぶつかったような衝撃が来なかったのが気になる。地面をすり抜けたのか?


 ……ピンポイントで俺だけを喰ったので、実体化したり透明化したりできるのだろう。


 そうだとしたら、この世界の理から明らかに外れている。だったら、地獄からの使者か?


 ……地獄が存在するかどうかは置いておいて、地獄に落ちるような悪事はしていない。


 百歩譲って閻魔様がお怒りだったとしても、生前にお迎えが来るというのは聞いたことが無い。


 他には、世界からの直接的な排斥というのも考えられる。


 しかし、今まで散々精神攻撃を繰り返してきたのに、急に直接行使という手段を使ってきたのだとしたら違和感がある。それに、連れ去る様な動きで干渉する意味が無い。


 どのような理由で今の事態になったのか推測の域を出ない。


 確実なのは、俺に足掻く時間は存在せず結果を受け入れるしかないということ。


 体内に存在する酸素を可能な限り循環させて耐えていたが、もう限界だ。


「……ゴボゴボ」


 あーもう無理。


 泡沫のように消えていく意識の中で、最後に感じたのは、世界が反転したような……自分がひっくり返ったような不思議な感覚だった。

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