第3章 知覚 (2)
彼女の話は衝撃的だった。
中学生の時の交通事故から細かな音や小さな音が聞こえなくなってしまったらしい。医者も、彼女の耳には特に異常がないらしく、何が原因かは分からないということだ。
自分が当たり前のように享受している五感の恩恵。視覚、嗅覚、触覚、味覚そして聴覚。それが不意にかけてしまうというのは、どれほど恐ろしいのだろうか。
想像することもできない。
実際、僕が初めて商店街のはずれでハルに話しかけた時、彼女は僕が何を言っているか聞き取れずに、どうしようもなく帰ってしまったとのことだ。
僕も、急に話しかけて、彼女を困らせてしまったことを後悔した。
「でもね、ギターの音はよく聞こえます。・・・耳じゃなくて体で聞くことができますから。でも、自分の声がよく聞こえないから・・・下手ですよね?」
彼女は少し恥ずかしそうにEmコードを鳴らすと、少し悲しげな音階がギターの振動から周囲を満たしていく。
・・・だから、彼女は調子外れな声で歌っていたのか。
自分の中で、何かが繋がった。
自分の声が聞こえない状況で歌うと人は音程が取れずに音痴になることは、兄がヘッドホンをしながら歌うのを聞いていた僕は知っていた。
「・・・僕に歌わせて。」
彼女が自分の声で歌うことができなら、せめて僕が代わりに歌いたい。そんな風に思った。
彼女の綺麗な声に自分が代わりになれるかどうかは分からないけれど。
しかし、彼女はよく聞き取れなかったらしく、首をひねって僕に耳を近づけて言った。
「耳元で言ってくれると助かります。」
どきっと心臓の鼓動が早くなる。
自分の顔を彼女の耳に近づけると、彼女の髪が鼻に少しかかった。さらに、甘いような匂いがした。
どきっと心臓が揺れる。まずい、息を荒げたら、彼女にバレる。
冷静になれ冷静になれ冷静になれ。
自分を落ち着かせる時の癖で、少しふっと息を吐くと、彼女を耳を押さえて身をよじった。
そして、ちっと恥ずかしそうなほてった顔で
「ちょっとくすぐったいです。」
と笑った。
小説とか漫画で読んだ「ヒロインの笑顔を守りたい」という主人公の気持ちがよくわかった。今のこの気持ちだ。
ハルの笑顔のためなら、なんでも頑張れそうな気がした。
僕は身を乗り出して、彼女の耳の前でもう一度言った。
「僕も一緒に歌わせて。」
彼女は驚いた顔をしたが、すぐ笑顔になって、「はい、お願いします」と小さく頷いた。