文学の現状、活字文化の衰退。
文学、、いわゆる活字文化、の衰退?がいわれて、ひさしい。
その原因は?
テレビゲームの台頭とか
インターネットで、動画やアプリ、ゲームもできる社会の出現とか、
あるいはアニメ文化の最盛とか、
まあ確かに
これだけ選択肢があれば
誰も、
白い紙に、活字だけが延々と並んだようなモノ?を
シコシコと読みふけるなんて営為?を、
したいとは思いませんよね?
そもそも、、、
文字文化、、活字文化というのは
象徴としての、、文字を、読む(解読)することで、
その意味を、頭で理解して
イメージとか
風景とか
状況とか
映像とかに
転化、、して自分の頭のなかに小説世界をつくりあげる行為ですね。
だから文字理解ができなければ
つまり、私がアラビア語の「千夜一夜物語」の本を
ぱらぱらとめくってみても、
まったくそれは「無意味」ですね。
ただミミズののたくったような、黒い紙魚?が
延々と並んでいるだけです。
このように
文学、、文字文化というのは
まあ
読めてなんぼ?の世界です。
ですから私が日本語を
たとえ読めても、
「悠揚たる令室」なんて難しい単語が出てきたら、
もうアウトですよね?
いちいち、辞典で意味を調べなければなりませんね。
このように
文字文化は面倒です。
活字を眼で追い、
その意味を頭で理解し
咀嚼し
そうして頭の中で
イメージ化する。
「緑豊かな、プラタナスの木陰」
なってフレーズから
自分で
青々とおいしげったプラタナスの木陰を頭で
イメージ化して
ああきれいなんだろうなあ、、、と
頭の中にイメージ化して創造する。
でも?
それはあくまでもあなたの想像。
だから想像力のない奴は
うまくイメージ化できなくて
読書というのは
ただ活字を機械的に読解する営為として
まさに苦痛?ですよね?
それに比べたら
アニメはどうでしょう。
きれいな緑の高原が一面に広がって
赤や黄色の花々が満開に咲き誇っている風景が、
即物的に
あなたの目の前に現前するんですよ。
想像力なんて必要ないんですよ。
ただ、見ればあるんですから。
これが映像の魅力?でしょうね。
どんな貧弱な想像力のやつでも
即物的に、楽しめる。それが映像文化、、。
ところが
活字文化っていうやつは
読者の想像力を、強く要求する。
ボキャ貧や
単語力のない奴が
読むと
辞書首っ引きで
やっとこさ、
読むので
そこから想像力を膨らませて
小説のイメージ世界を
自分の頭の中に構築なんてできないという
悲惨な結果に終わる。
これでは
小説だの
活字文化が衰退するのは必然でしょう。
小説読むなんてめんどくさいですからね。
それに比べたら
アニメでもみてたら、
ただ座って画面に向かって目を開いてりゃあ、いいんですから、
こんな簡単なことはないでしょう?
まあ
昔は
読書しかなかったから
読書は、、つまり
小説を読むのは
娯楽の王道だったんですけどね。
今は
ほかにいくらでもあるんですから
こうして、、
かって
一世をふうびした
出版各社がこぞって刊行した
「文学全集」も
いまどこの出版社も
まったく刊行していませんね。
あのころ、、
本屋から毎月、
文学全集の新本が届き、
その新本のなかに挟まれた「月報」を
楽しみに読んだなんて
今はもう遠い思い出ですよね。
大きな文学全集ともなると
完結まで数年かかったんですよ。
本屋にその全集を予約するとですね。
毎月、、あるいは隔月ごとに
新本が届く、
それが楽しみで、
当時は、ほかに娯楽なんてないですからね。
ゲームも、ネットも、動画も、まったくないんですよ。
まさに娯楽の王道、届く新本をむさぼるように読んだもんでしたね。
(テレビはありましたけどね。まだ、白黒でしたからね)
ああ、それから
漫画雑誌も予約しておくんですよ、
そうすると、
毎月
「少年」とか「おもしろブック」とか「漫画王」とかの
月刊漫画雑誌が届くんですよ。
ドキドキしながらページをめくると、、
「鉄腕アトム」とか
「ロボット三等兵」とか
「矢車健之助」とか
興奮して読みふけったものでしたね。
そして「豪華付録」も魅力でした。
まあ、、といっても、
ただの、、紙細工?なんですけどね?
それを組み立てるのがまた楽しみでねえ。
ああそれにしても
あの頃は
楽しかったなあ、、
という、、オチ?で、
終わりにしましょうかね?