06話 彼女と彼の恋
なるべく伝わりやすいように、なるべく理解しやすいように、なるべく傷つけないように。わたしはゆっくりと、それでも確実にその手紙を読み進めていた。
手紙の持ち主、ミッドチェザリア国王太子であるハウエル殿下は、今、第三書庫の読書場に腰を下ろしていた。そしてその隣に、わたしは座っている。初めは殿下と同じところに席をもつなどということはあり得ないと、ずっと立っているつもりだったのだが、「構わぬ」という声によってわたしはついに腰を下ろした。
「これが、・・・手紙の内容です。」
そう言い終わってから、長い長い沈黙があった。恐れ多くて殿下の方へはとてもじゃないが目線を移せなかった。未だに緊張が体中に広がっているのが分かる。そしてそれはわたしだけではなくて、殿下からも伝わってきていた。当然だろう、彼はこの手紙の中に、彼の想いを全てかけていたのだから。
「・・・そうか。」
こんな風に、第三書庫が誰もいなくて静かな場所じゃなかったら、とても聞こえない声で彼は呟いた。その声は、わたしにはか細く震えているように思えた。
この人は、この人を動かす希望を失ってしまったのだ。それがどんなに苦しくて、どんなに切ないものなのか、わたしにはまだ知るところがなかった。どうしたって理解出来ないはずなのに、それでもどうしてか伝わってくるこの人の想いは、わたしの胸をも締め付けた。
「殿下が今の今まで、人生の大半を勉学や政務に費やしていらっしゃったのは、全て、このお方のためだったのですね。」
彼は、何も言わなかった。
「自分が知識を得て、誰からも信頼されるようになって、そして権力をもったときに、今の状況を変えるために。」
「彼女を、迎えに行くために。」
言いながら、わたしはとうとう、しっかりと殿下を見据えていた。大きな体をもつはずの彼が、今ばかりは小さな子どものように見えた。深蒼色の髪が顔にかかっていて、その表情まではつかめなかった。それでも、広い肩が小さく小さく震えているのが分かった。今にも泣き出しそうだと、そう思った。だけれどわたしにはきっと、それを見てしまうわけにはいかなかった。
「殿下、わたくしは外へ出ております。もちろん、人が近づかないようにいたします。ですから、」
「良い。・・・行かなくて良い。」
立ち上がりかけた体を、その右の肘をつかまれたことによって引き戻される。どうしたものか、わたしにはこういったとき、何を告げていいのかも、どんなことをしたらいいのかも、分からないというのに。
しばらく何を言うべきか考えあぐねていると、沈黙を破る音が聞こえた。低く、良く澄んだ、きれいな声だった。
「ヘイリーは、俺の初恋だった。」
そこでついに、殿下が涙を零しているということに気付く。エプロンのポケットに入れていた白いハンカチを差し出そうとして、でも殿下に差し出せるような格好のものではないことに一瞬躊躇したが、それでも渡すことにした。彼の方に視線を移さないようにして。
「あいつは、俺の全てだったんだ。絶対に、俺が幸せにするつもりだった。どんなにその状況が厳しくても、ふたりが想い合っていれば必ず乗り越えられると信じていた。・・・俺が国王となるためには、妃が必要だった。だからあいつを妃として迎えることで、ミッドチェザリアとカツァートリアの国同士の関係も修復させるつもりだった。たとえ俺が、恥も外聞も全て捨ててカツァートリアに跪くことになったとしても、・・・それでも、俺はヘイリーを手に入れたかった。」
それだけ零してから、彼はまた、黙り込んでしまった。たぶん、誰かに零したくてたまらなかったんだろうと感じた。ヘイリー王女への気持ちを自覚してから、彼は彼女との未来を当たり前のものだと思ってきた。そのために自分に出来る全ての努力はして、彼女を迎え入れるつもりだった。たとえ数年前に国交が冷めてしまっても、自分と彼女の気持ちが同じで、婚約を発表し、王位を継承してしまえば、どんな苦労でもして彼女を妃とするつもりだったのだ。
そしてそれを支えられるのは、彼女の彼への想いだった、のに。
彼女がもつ、彼への感情は、彼が期待するものではなかった。そして彼が期待してやまない彼女の愛は、別の誰かに注がれているというのだ。
「俺は・・・何のために、・・・何をやっていたんだろうな・・・。笑えるだろう?」
殿下の灰紫色の瞳には、間違いなく諦めと喪失の色が浮かんでいた。はかなくて、今にも消えてしまいそうな輝きだった。
「笑いません。真剣な愛を笑う人などどこにもおりません。殿下が人生をかけて人を愛したのなら、それはあなたの誇りにはなりませんか。人をそれだけ愛せるあなたのことを、わたしは尊敬しております。きっとあなたのそうした愛の深さは、これから人々に広く伝わっていくのでしょう。」
わたしには、そんな未来が見えます。
しっかりと、ハウエル殿下と目を合わせて、言った。無礼な言い方をしていることは、百も承知だった。でもそれを理由に彼がわたしをどうにかするとも思わなかった。さらに言えばそれを気にするよりも先に、彼に伝えたかったのだ。
彼の灰紫から、小さな、輝きがまた零れた。それは頬を伝って、ゆっくりと地面へ落ちてゆく。
「人を愛する強さも苦しみも知った殿下がいるこの国は、きっと幸せになるでしょうね。」
出来る限りの微笑みを浮かべると、2つの灰紫からはまた雫が落ちたけれど、彼はゆっくりと、ひどく優しく、笑ってみせた。