52話 彼女の旅立ち
ノーラさんから彼女の知っている限りのことを聞いたあと、わたしはひとつの決意をもっていた。
わたしも室長の元へ、向かう、と。
わたしに出来ることなど無いとは分かっていた。むしろ彼にとっては邪魔になるであろうと。
しかし、それで良かった。
もしも彼が危険なことをしようとしているのならば、自分が邪魔をして止められれば、それで良い。マーティンさんやノーラさんがもっと良い案たどり着くまでの時間稼ぎになれればそれで良い。そう思った。
隣で拳を強く握り締めたわたしを見て、マーティンさんは何かを悟ったのであろう、
「・・・アリシアちゃん、」
どこか、確認するような、制止するような、静かな声を投げかけた。
「わたし、オスカー室長のところへ行きます。」
「・・・あなた、本気なの?」
「本気です。危険なことをするつもりなら、誰かがそれを止めないと。わたしに出来るかどうかは分かりませんが、おふたりがより良い策を考える間だけでも、やってみせます。」
「・・・・・・どうしてそこまで・・・」
そう言われれば、答えはひとつしかなかった。
あの人が好きだからとか、好いてほしいからとか、そんなものもあったのかもしれない。
でもそれよりも、彼に危険が迫っているのなら、大事な人が危ないと分かっているのなら、黙っていることなんて出来ないのだ。
きっと彼も、そうだったように。
言葉にしなくても、きっとマーティンさんには分かったのだろう、彼は小さくため息を零して、
「俺の独断で君を遠方にやることは出来ないよ。それは、分かっているね?」
と厳しい表情で言った。
「すぐにでも、上の人たちに事情を話してきます。」
と、力強く告げた。
そのまま何も言えず呆けているノーラさんと、諦めたような、それでも強い意志をもったような表情のマーティンさんに一礼し、統括室を出た。
向かったのは、ハウエル王太子殿下の元だった。
「珍しいな、お前がこちらへ来るとは。」
本当に驚いたように、殿下は目を丸くしてこちらを見ている。
事前の申請もなく執務室を訪れることなど、一下働きの人間に許されることではないが、ここへ来たばかりの頃に殿下と親しくなったことのおかげで、何とか部屋に入れてもらうことが出来た。
深くお礼をして、近づくことの許しを乞う。そんなことしなくていい、と殿下は小さく笑いつつ、もっていた書類を置いて、事情を話すように目配せした。
焦る気持ちを抑えながら、ひとつひとつ分かりやすく説明していく。聡い彼のことだ、おそらく説明の途中でわたしが何をお願いに来たのか分かったのであろう、目を伏せて書類にわたしの名前と自分のサインを残す。
「・・・行くんだな?」
そして、問いかけられ、迷うことなく頷いた。
「分かった。特別に許可を出す。・・・ただ、」
「・・・ただ?」
「必ず戻って来い。」
許可証を差し出しながら、綺麗な灰紫の瞳をこちらへ向けた。
その高貴な眼差しに、おもわず身震いしてしまいそうになる。
その言葉に答えるべく、もう一度深くお礼をして、執務室から出た。
そしてその足で急いでマーティンさんの元へ向かう。彼はわたしの右手に握られている紙が何なのかを見なくても分かったようだ。依然として硬い表情を浮かべたまま、
「・・・気を付けて。」
と、それだけ告げた。
その日の午後にはもう、王宮を旅立つ準備が出来ていた。
準備といってもわたし自身持って行くものは何も無い。
働き始めていくらか貯金していたお金と、あとはステラさまが殿下から事情をきいて用意してくださった馬車だけ。
王宮の門を出る頃には、どうやって話が伝わったのか、いや、室長の話は口外されていないはずだから、おそらく事情は何も知らないのであろうマーガレットやジャスパーさんが見送りにきていた。
何処へ行くのか、どうするのか、教えてほしい。
そんな思いが表情から伝わってくる。
でも、何も言うわけにはいかないのだ。
必ず室長を連れて帰ってくるから、待っていてほしいと、それだけが伝わるように今の自分に出来るだけの微笑みを浮かべて、彼らの元を去った。
背を向けたときに、
「・・・あなたには適わない・・・」
と、聞き覚えのある低い声が聞こえる。
けれど彼の方は向き直らずに、そのまま歩みを進める。
そして馬車に乗り込んだときにはもう、
「まるで遠くへ行ってしまいそう・・・」
「大丈夫。必ずふたりは帰ってくるよ。」
なんていう会話はわたしの耳に入ることは無かったのである。