36話 彼女と特別授業
「何度言えば分かるんだ。アイレア国の次期国王候補の名前はダグラス・エルミ・サルブリステンだ。」
「ダグラス・エミル、」
「エルミだ。」
さきほどから低い声で冷たい雰囲気で淡々とアイレア国の政治についての説明をしてくれているのは、オスカー・ブラックストーン室長である。
この国以外の政治や歴史に関する知識に乏しいわたしに、室長はとても丁寧に指導してくれていると思う。それは分かるのだが、しかしどうしても室長とふたりという空間に耐えられない。それは彼の指導が少し怖いということもあるし、間違えたら怒られるという集中を強いられる雰囲気もあるし、それとは違うむず痒い緊張感もある。
エルミ、エルミ、と何度か呟くわたしを見て、室長は小さく頷いた後、教科書代わりの紙の束をめくった。
「あの、そういえばこの資料は室長が作ってくださったんですか?」
「ああ。かなり簡素ではあるがな。」
「わざわざすみません。急に頼んだのにありがとう御座います。」
「・・・・・・・・・。」
「その沈黙は何ですか。わたしだって素直に謝ったりお礼を言ったり出来ます。」
わざとらしいとさえ感じるような驚いた表情に、何だかとても馬鹿にされているような気がして、思わず口調を厳しくしてしまったが、それでも室長はまだ黙ったままである。
「・・・・・・気にしなくていい。」
「はい?」
「・・・俺は何事も完璧にやりたいだけだ。別に君のためにと思ってやったわけじゃない。」
そう言う室長の表情は見上げないと分からないが、声の大きさはいつもよりも小さくて、そして張りも無かった。言いにくいことを無理やり言ったような様子だった。
「分かってます。無理に頼んですみませんでした。」
実際、室長の言うことは事実である。勤務外にこうして時間を作ってもらっているのはかなり迷惑であることはわかっているし、それで愚痴のひとつやふたつ零さないというのは室長ではないだろう。だが今回ばかりは室長に非は無く、全面的にわたしの責任であるから、素直に謝り、そして礼を言う。そうすれば室長は新しいページの一行目を指差して、再び低い声で講義を再開した。
「そっか。オスカーも資料作ってたか。」
「はい。完璧主義者だから、って自分で言ってました。」
「はは。そういう言い方をするやつだからね。」
「というかマーティンさんも作ってくださったんですね。本当にありがとう御座います。」
そう言って目の前に置かれた資料を手に取る。10枚ほどの資料はアイレア国の歴史を現す年表をメインとして、大事なことや詳細は枠外にきちんと書かれている。
わたし自身はたいしたお礼も出来やしないのに、きっと室長やマーティンさんもそれは分かっているはずなのに、こうして力を分けてくれることがとても有難い。迷惑をかけているということが分かるから、尚更がんばろうという気持ちが沸いてくる。
「オスカーも僕も、アリシアちゃんの力になりたいんだよ。特にオスカーはそれが伝わりにくいのかもしれないけれど、分かってあげて。」
微笑むマーティンさんの言葉は、だけれど全部を分かりましたといって消化することは出来ない。どうしたって室長の優しさがわたしに向けられるとは考えられなかったからだ。しかし、それでもわたしを助けてくれていることには変わりない。だからその気持ちを込めて、「はい」と小さく返事をした。
「じゃあ、今日はここまでやろうね。」
と、そう言うマーティンさんの授業は、室長のそれとはうって変わってとても柔らかい雰囲気だった。常に発言することを許されていて、というかひとつひとつを覚える毎にそれに関連付けた話をしてくれるから、それに相槌を打ったり質問したりするようにマーティンさんが導いてくれている。
こんな風に、優しくて、柔らかくて、常に微笑んでくれるマーティンさんみたいな人と一緒だったら、きっと毎日が楽しいんだろうな、と、そう漠然と思った。
だけど、そう思っていても常に頭に思い浮かぶのはマーティンさんではないのだ。意識していないところで、だけど心の深いところで。
「アリシア、お見合いの詳しい日時が決まったわ。」
そう言うのは、ステラ王女殿下である。昼間の太陽の光が優しく窓から入ってくる第三書庫は、訪れる人をとても心地よい気持ちにさせるらしい。ステラさまも光を浴びてとても気持ち良さそうである。そんな中で告げられた見合いの日程は、思いのほかすぐ先で、どうしても緊張を感じてしまう。
「あともう少ししかありませんね・・・。」
「不安?」
「ええ、少し・・・。」
「でも人事の方々がちゃんと歴史や政治を教えてくれているのでしょう?」
「はい。室長やマーティンさんの指導は本当に有難いです。」
「そう。その指導があってもまだ不安に感じるということは、それとは別のところに不安を感じる要素があるのかもしれないわね。」
光を浴びて目を閉じた彼女は、やさしい声でそう言った。
きっと、彼女は分かっているのだ。
だけど、わたしには分からない。いや、分かろうとしていないだけなのかもしれない。何かを認めるのが、とても怖いことだと知っているから。