31話 彼女と彼女と彼
「何を、って・・・室長、こそ・・・」
目の前にいるのは、いつもと変わらない黒の短髪に、漆黒の服に身を包んでいるオスカー室長の姿。ただひとつ違うのは、いつもと違って眼鏡をかけていないということ。それだけでも随分顔立ちがはっきり見えていつもと違うようには見えるけれど、やっぱりその雰囲気や話し方は室長そのものだ。
「俺は所用だ。それよりお前だ。王女殿下に付きもせずこんなところで何をしている。」
「所用って・・・。わ、わたしの方は、後はダンスパーティだけだからと、ステラさまが・・・、」
「クビか。」
「そんなんじゃありません!・・・室長には所用があるそうですから、わたしはこれで。」
心の無い一言に思わずカッとなって、これ以上室長と話すには体力もほとんど尽きそうだと、その場から立ち去ろうとする。左足首に少しだけ痛みは感じたけれど、歩けないほどではない。
「おい、待て。」
と、そこで室長に呼びかけられ、次に彼によって右腕を掴まれる。彼の手は驚くほど優しく、けれど有無を言わさない強さも感じられた。
「な、なんですか。」
「お前、その足、」
「オスカー、どうしたの?」
室長が何かを言いかけたそのとき、室長の肩越しに真っ赤なドレスを着た女の人が現れた。
思わず目を見開いてしまったのは、彼女が稀に見るほどの美人だったからだ。濃い茶色の髪は、長くて、ゆるやかなカーブを描き、特に結っているわけでもないその髪は、キラキラと輝き、彼女が少しでも動くたびにさらさらと揺れている。そしてその顔立ちも、大人の女性を思わせる目鼻立ちがくっきりとしたもので、その漆黒の瞳はキラキラと光っている。さらに室長の隣へと移動した彼女のスタイルもまた、背の高い彼に引けを取らないほどであり、ごく自然に、ふたりがとても似合いのカップルのように見えた。
「あら、お取り込み中だったかしら?」
そう言って室長の肩に手を乗せた彼女は、その意思の強そうな漆黒の瞳で、じっくりと、わたしのそれを捉えた。ぞくり、と背中に緊張が響いて、その美しさに圧倒される。
そうしてすぐに、まだわたしの腕を掴んだままの室長の手をなるべく丁寧に引き離すと、「失礼します。」と一言だけ告げて、その場を後にした。
室長の「おい」という声が聞こえた気がしたけれど、立ち止まらなかった。というか、あの二人の間に入ってはいけない気がした。それは単なる、女としての醜い劣等感かもしれないけれど。
そのまま会場の壁伝いを、なるべく彼らから遠い位置に行こうと移動していたところ、ふいにジャスパーさんの姿を見つけた。彼は先ほど見つけた姿とほぼ変わらずに、右手には明るい色のついた飲み物が入ったグラスを握って、ひとりで立っていた。
「ジャスパーさん。」
「ああ、アリシアさん。もう侍女の仕事は済んだのですか?」
そう言って顔を上げたジャスパーさんは、一瞬驚いたような顔を見せて、そしてみるみる顔を真っ赤に染め上げていく。おそらく右手のカクテルの所為だとは思うが、目線が合わなかったりと、少し挙動不審のような気もする。
「ええ、あとはダンスだけだからとステラさまが。・・・でもジャスパーさん、少し酔いすぎでは?顔が真っ赤ですよ。」
「え?これは酒では・・・あ、いや!そうですね、少しアルコールが強かったみたいで。」
やはり飲みすぎているようだ。少しどもりながら話すジャスパーさんは、けれどどうしてもこちらを見ようとはしない。何か理由があるのかと思ったが、それを追求するにも少し疲れてしまい、わたしは大人しくジャスパーさんの隣に落ち着いた。
しばらく何も話さずにそこに佇み、会場を見渡してみると、人の多くきらびやかなこの空間が、まるで夢の中で起こっているもののように感じる。それでも自分もその空間にいることは本当で、ほんの一言二言だけれど、その中にいる人々と話したということも事実で。今は会場の端っこで、よく見知っている人といるけれど、落ち着いたとはいえまだ心臓が逸っている。
ふと、遠くで大きな歓声が上がる。おそらくステラさまが衣装や化粧を直して、また会場へ登場したのだ。わたしもジャスパーさんも、会場の拍手が止むまで両手を叩く。今はたくさんの人がいて、そして会場の入り口が遠いことから、ステラさまの姿を見ることは出来ないけれど、きっとまた美しくなっていることだろう。
そう思っていた、とき。
「いい加減にして!!!」
そんな、叫びに近い声が、聞こえた。
一瞬にして視線がある一点に集まる。何事かと思い、わたしはその中心を探した。人の間を「すみません」と声をかけながら、なんとかその姿を見つけられるまでの位置へ移動する。
すると、そこにいたのは、ステラさまと、少し離れた位置にいる、ヒルスレイヴ国のエリック王子だった。彼を実際に見るのは初めてだけれど、その深いオレンジや赤が混じった髪色に、はっきりとした切れ長の深い緑色の瞳、そして背の高さや長い手足なども全て、彼を際立たせる要素としてとても美しく備わっている。
そんな彼と対峙するように、ステラさまは目に涙を溜めて、エリック王子を見つめている。それはまるで、彼を非難しながらも、深い悲しみを懸命に訴えかけているように見えた。
そして彼から何の返答も無いことに、まるで何かを諦めたように表情を暗くして、そのまま会場を走るようにして去ってしまった。
一瞬、右足を踏み出しそうにした彼は、けれどもすぐに動きを止めてしまった。周りを囲む人々は、何が起こったのか分からずに内輪で内緒話をしたり、見なかったことにしようと視線を外して世間話を始めたりしている。
でも、その中で何よりも誰よりも今の状況に捕らわれているのは、やはりエリック王子であった。信じられないといった表情を見せたけれど、でも次にはその綺麗な顔は苦しさ、辛さ、悲しさといったものに染められた。眉間に皺を寄せて、目元はほんのり赤くなり、視線を映すと、その拳には強く力が込められている。
ああ、そうか。
ステラさまは、彼は彼女のことが嫌いだと、そう言ったけれど。
そんなこと、有りはしない。
「どうか、ステラさまにありのままの思いをお告げになってください。彼女はあなたの気持ちを、ずっと待っていらっしゃいます。」
咄嗟に出た、そんな言葉だった。
早足で彼に近づき、小声で告げ、そしてすぐにその場を離れたから、当然お礼や挨拶の言葉などを発する暇はなかった。だけどおそらく、彼にわたしの姿は捉えられていないはずである。もし仮に彼がわたしの姿を見ていて、不敬罪で捕まってしまってしまったら、なんて考える余裕すらなかった。
とにかくこの言葉が、彼女の気持ちが、彼に伝わりますように。
それから一呼吸置いて、何かに気付いたように彼は走り出した。
彼を囲む人ごみを、それに構うことなく間をすり抜けていく。まるで、彼が見ているもの、探しているものは最初からひとつしかなかったかのように。
そんな彼の姿を捉え、会場内はまた湧き上がる。今日のメインとなる王女と、そしてその相手を務めるエリック王子の揃っての退場である。だけれどこの会場の誰もが想像することはきっと、間違いなどではない。
きっとあのふたりは、大丈夫だ。
「おい、やりすぎだ。」
ふと、そんな声と共に、頭を誰かにはたかれる。
それは考えなくともオスカー室長であることは分かっていたけれど、何となく振り向きたくなくて、そのままの姿勢をつらぬく。
「一国の王太子に礼も無く挨拶もしないままに高い身分も持たないお前が話しかけるとは、」
「わ、分かってます。反省文で済むようでしたら、いくらでも書きます。」
「・・・話は最後まで聞け。」
そこでついに室長はわたしの頭をガシっと右手で掴み、そのまま彼の方へと方向転換させた。首だけが動くわけもなく、当然それに伴って体の向きも変えられる。
意外と近い位置に室長が立っていることに気付き、なぜか身体が強張る。そして無意識のうちに先ほどの女性の姿を探している自分もいて、混乱してしまう。
「よくやった、って言ってるんだ。」
「・・・・・・・・・はい?」
「だから、誰もが言い出せずやきもきしていたところへ、お前はよく言ってくれたと、そう言ってるんだ。一回で理解しろ。」
まさか室長の口からそんな言葉が出るだなんて。
驚きのあまり瞬きの回数が増え、自然と口も開く。そんなわたしを見た室長は、いかにも不服そうに顔をしかめた。
そしてすぐにわたしの頭を掴む手を離し、この場を離れていってしまった。
それと入れ替わるようにして、今度はジャスパーさんがこちらへやってくる。その視線は先ほどとは違って真っ直ぐにこちらへ向けられていて、なんだか真剣な面持ちである。
「アリシアさん、医務室へ行きましょう。」
「え?」
「足、痛いんでしょう?パートナーなのに、気付かなくてすみません。」
「でも、ダンスが・・・」
「主役のふたりが居なければどうせ誰が抜けたって誰も気にしません。さあ、酷くならない内に。」
そう少し余裕がないように早口で言う彼は、そのままわたしの右手を掴んで歩き出した。時折こちらを振り返るその表情は、不安そうで、だけれど優しかった。
そんな中でも、やはり考えてしまうのはステラさまとエリック王子のこと。
そして、それとは別のところで、強く、わたしの胸を高鳴らせている何かの存在には、まだ気付かなかった。