<彼の愛情>
僕の家は、もともと裕福だった。
父と母が、事故で亡くなるその日までは。
幼い頃から、研究者として物を生み出し続ける父と、それを献身的に支える母との間で、自分も当たり前のようにたくさんの本や資料に携わってきた。いつかは自分も、父を支えて、そして父のようになりたいと思っていたからだ。
だけれどそれは、僕が10歳のときに、全て崩れ落ちてしまった。
父と母が、いなくなった。
いや正確には、誰かに殺されてしまったのだ。
父が亡くなる前まで必死に行っていた実験の成果、それをうちよりも格下だと思われていた研究者によって発表されたとき。僕は思った。ああ、こいつは父のものを横取りしたのだと。散歩に出かけていた両親がたまたま崖から落ちるだなんて、やはり仕組まれたことだったのだと。
幼いながらに悟ってはみたけれど、自分にはそれを告発する力も、また復讐する勇気さえもなかった。さらに両親がいなくなったことで、家の研究所は別の大きな実験施設に買い取られ、僕は居場所さえもなくしてしまった。そこにあったのは、絶望のみだった。
「ジャスパー、お前は本が好きか。」
そう呟くように言う祖父は、僕を快く家に置いてくれた。彼は昔、王宮で下働きをしていた過去をもっていたという。だけれどそんな祖父さえも、もう弱りきって思うように身体は動かない。
「・・・好きだけれど、もうどこにも本だなんて無いじゃないか。全部やつらに取られてしまったんだから。」
「そうだな。・・・ジャスパー、もっと力をつけなさい。勉強をして、自分が望むように生きなさい。」
そう言って祖父が震える手で差し出したのは、束になったお金だった。どうやってこんなお金を用意したのだろうか。尋ねたくても、そう出来ない空気が、祖父にはあった。
祖父はそれを使って、学校に行くように言った。きちんと勉強をして、そこから先は自分で道を掴めと、そう言った。
それから数年後、祖父は亡くなった。病などではなく、寿命で生涯を終えたことが、僕には何よりもの救いだった。その祖父の言いつけ通り、僕は勉学に励んだ。学校では常に上位の成績をとって奨学金を貰い、寮ではずっと図書室に入り浸っていた。
そうして知識を充分に得たときには、その元となった本に対して、まるでそこに父や母、そして祖父の魂が宿っているのではないか、そこで見守ってくれているのではないか、なんて、そんな感情さえも抱くようになってしまった。
高等学部を卒業する頃、僕は当たり前のように本に携わる仕事を探した。そこで一番自分の願いに叶っていると感じたのが、王宮の第一書庫で働くことだった。ここならば、一生をかけても読みきれないほどの本があり、そしてずっとそれに触れていられるのだ。それは僕にとって、何よりも大切なことだった。
王宮で働くようになってから5年経った頃、ひとりの女性が書庫で働くようになった。今まで開放されていなかった第三書庫に配属されるというその女性は、名をアリシア・メラーズといった。顔立ちも良く、しっかりとした印象を抱かせる彼女に、最初は好意を抱いていた。しかし僕は、彼女が王宮へ来た理由を知ってしまった。
彼女は、ただのコネでここにやって来た。
彼女は、本を愛していないのにここで働いている。
そんな思いが、いつしか自分の中で黒い感情を生み出すようになっていた。自分はあれだけ苦労したのに。あれだけ努力して、今ここにいるのに。
そうじゃない人間が、自分と同じように本に関わるだなんて許さない
そう思ったとき、僕は自分を止められなくなった。
最初に行ったのは、第三書庫を荒らすことだった。彼女がいる第三書庫なんて、閉鎖されてしまえばいいと、そう思った。だけれどそれは叶わず、彼女はそこに居続けた。だから次は、彼女自身に問題を起こさせた。厳しいといわれるオスカー室長の前で失態を犯せば、きっと彼女は解雇されるだろうと、そう思ったからだ。
彼女が室長の前で緊張状態に陥るかどうかは、賭けだった。それでも室長ではなくとも誰かの前で居眠りをすれば、僕がそれを報告してやればいいだけのことだ。そして誰の前でも居眠りをしないのならば、僕がさせてやればいいだけのことだ。
期待通りに眠ってしまった彼女を確認して、綺麗に仕分けされた本たちをばら撒いていく。こうして仕事を停滞させて、怠けていたと報告するためだ。
だけれどその途中に、彼女は目覚めてしまった。
今さらそれを隠すつもりも無い。どうせ彼女はもう、ここから出て行くのだから。
そう思っていたのに。
あろうことか、彼女はそれ以上眠らなかった。いや、眠ろうとしなかった。自分を傷つけてまで、それに抵抗しようとする、彼女。どうしても譲れないとでもいったその表情からは、普段の彼女からは考えられないほどの気迫が感じられた。そして彼女が、言った言葉。
あなたのそれは、愛じゃない
そう言われたとき、確かに頭を殴られたような、そんな感覚がした。
今まで自分を支えてきた何かが崩れてしまうような、そんな痛みが自分に襲い掛かる。それを止めなければ、自分が自分ではいなくなってしまう。だけれど彼女は、それを許さない。思いの全てをぶつけるようなその叫びは、どんどん自分の中を侵食し始める。だけれどその言葉に確かに心を動かされたとき、彼女はついに眠ってしまった。
そのとき、第二書庫のライナスが姿を現した。あれほど叫んでいればそれは当たり前かもしれないが、その表情に浮かんだのは少しの焦りと、心配だった。
「・・・・・・ジャスパー、こいつはお前の思うような人間じゃない。」
そう呟くように言った彼の視線は、真っ直ぐに彼女に向かっていた。そして彼女の左手を見るなり、自分のポケットから、おそらく重要な本を開くときのための白い布を取り出し、そこに巻きつけた。
「・・・・・・・・・こいつは、本を大切にしてる。」
そう言われて、気付く。
彼女の本への接し方や、その仕事の一生懸命さに。今まで自分が見ようとしなかった、その事実に。
彼女が目覚めたときには、僕はもうここから去るつもりでいた。おそらくライナスは誰かを呼んだだろうから、どっちにしろ僕がここに居続けることなんて出来やしない。そう思っていたのに。やはり覚悟はしてみても、どうしたって辛かった。もう二度と、本に触れられないような気がして。もう二度と、両親や祖父の面影すら、思い出せないような気がして。
だけど、やってきたのはそんな未来ではなかった。
彼女が、それを止めた。僕にここから離れるなと、そう言った。
その言葉はひどく優しくて、やわらかくて、だけれど彼女のその表情は、とても真剣だった。その場にいる誰をもが、それを聞き入れなければならないような、そんな重みをもった、彼女の声。
彼女は僕を許さないと言ったけれど、そのとき僕は確かに、彼女は最初から許すつもりでいたのだと、そう感じたのだ。
そしてそのとき、自分を縛り付けていた何かが、瞳から零れ落ちるのを感じた。
あの日、結局彼女に謝罪と礼を言えなかったことが悔やまれ、僕は彼女がいる医務室を訪れていた。あの左手は、ペンによる刺し傷だけでなく、あのときそれが少しだけ骨に触れ、ひびを作ってしまったことから、彼女は定期的に医務室に通っていると聞いた。
あんなことがあったから、彼女に顔を合わせるのが気まずくないと言えば嘘になる。それでも僕は、人として、彼女に言わなければならないことがあると、そう思った。
医務室へ向かう角を曲がると、丁度その扉からオスカー室長が出てくるのが見えた。彼は僕の姿には気付かずに、反対の方向へと足を進ませる。上司となれば、部下の怪我の具合を知るのは必要なことだが、わざわざ医務室まで足を運ぶだろうかと、少し不思議に思いながらも、医務室の扉を開けようとする。だけれどそこに、彼女のほかにもう一人の声があることに気付き、思わず手を止めた。
「今出てった人、あなたの上司よね。」
「そう。でも意地悪ばかり言うのよ。」
「確かに口が悪いとは思ったわ。」
「・・・マーガレット、室長のこと知ってるの?」
「ええ。だってあなたが倒れたときに運んでくれたのはあの人だもの。」
「!・・・ええ!?」
「・・・あら、違う人だと思ってたの?・・・・・・ってあなた、顔が真っ赤よ?」
そんな会話が聞こえてきて、自分でもなぜか分からずに、だけれど医務室から離れてしまった。早歩きで、自分の職場に戻っていく。言いそびれたお礼のことも、謝罪のことも、頭から完全に飛んでしまっていた。
それがどうしてなのかは、博識な自分ならば分かるはずだった。彼女たちの会話の中に答えがあることも、分かるはずだった。だけれど、どうしたって気付きたくは無かった。今までとは違う、この気持ちに。
今はまだ、自分も、そして彼女も、その意味を知ることの無いようにと、願うばかりだった。
さて、このお話で第三章は終わりです。
気付けばこの小説も30話に到達していました!
まだまだ続けようと思っておりますので、宜しくお願いします。