23話 彼女と結末
再び目を開けるとそこはまだ、第三書庫だった。
わたしは本棚に背中をあずける格好で床に座らされている。辺りはとても静かで、まだ眠ってしまってからそれほど時間は経っていないようだった。
「・・・あんた、・・・・・・平気?」
そんな、少しだけ男性にしては高い声で尋ねてきたのは、第二書庫の整理係をしているライナスさんだった。細身の体を少し折り曲げて、わたしの顔を覗くようにしているけれど、こちらからはその長い前髪に閉ざされて表情がよく見えない。だけれど、心配してくれているのだろうとは分かる。
「・・・大丈夫です。」
「・・・・・・そんなに眠ってない。・・・・・・せいぜい10分くらい・・・。」
聞きたかったことを、言うより前に答えてくれた彼は、そのまますぐに身体を背け、未だにこの場にいるジャスパーさんと対峙する。
「・・・・・・・・・やっぱりジャスパーだったのか・・・。」
「ライナスくんには気付かれても仕方ありませんね。ですが君だって、アリシアさんを嫌う気持ちは僕と同じではありませんか?君だって本を愛しているでしょう。」
「・・・・・・・・・黙れ。」
お前と一緒にするな
向き合っているふたりは、ジャスパーさんの方が背が高くて、体つきも良く、どう見ても彼の方が圧倒的なのに、だけれど今のライナスさんからは、そんなものがまるで関係の無いように、凄まじい迫力を感じる。それをジャスパーさんも感じてか、少しその表情に不安がこもる。
「・・・・・・・・・じきに他の整理係が人事の室長を呼んでくる。」
「オスカー室長がここに・・・?それにライナスさん、どうしてここに・・・?」
「・・・・・・うるさい叫び声が、隣の第二書庫に聞こえてこないとでも?・・・それよりあんた、怪我してるなら医務室行けば。」
少しもこちらを見ようとしないライナスさんは、だけれど今のこの状況ではとても頼もしく思える。
と、そのとき、開放されていた第三書庫の扉からオスカー室長とマーティンさんが急いだ様子で姿を現した。それを見たジャスパーさんは、心なしか何かを覚悟したような表情をみせた。
「・・・アリシア・メラーズは。」
そんな低い重い声が聞こえて、思わず「はい」と、大きく返事をしてしまった。その声に導かれるように視線をこちらに寄越した室長とマーティンさんは、わたしの姿を見て唖然とする。
「マーティン、すぐに医務室からノエルを呼んでこい。」
「あ、ああ。」
そうしてマーティンさんはすぐに第三書庫から出ていった。わたしなら大丈夫だと、そう言いたかったのだけれど、寝ている間に誰かが、きっとライナスさんだろう、白い布で止血をしてくれていた左手は、それでもひどくずきずきと痛みを訴えている。唇も、どれだけ舌で潤そうとしてもすぐに乾き、切れたそこからは鉄の味がした。さすがにこの状態では、手当は必要はありませんとは言えなかった。
「・・・ジャスパー・メイフィールド。貴様は今日付で解雇だ。いや、それだけでは済まされない。暴行罪で警察に突き出してもいい。」
「ま、待って下さい室長!この傷は全部わたしが自分でやったんです!」
「・・・・・・は?」
室長の言葉を聞いて何の表情をも見せないジャスパーさんは、問題を起こした張本人だけれど、一番傷ついているように見えた。
「眠気をこらえるために自分でペンを刺したんです。唇は、叫び続けていたら切れちゃっただけです。」
「・・・どうしてそんなことになるというんだ。」
「僕がやったことですよ。」
そう、冷たい声で、どこにも視線をやらずに言ったのは、ジャスパーさんだった。彼は真っ直ぐにオスカー室長と向き合い、淡々と言葉を紡いでいく。
「眠気を起こさせたのは僕です。もともとリラックス効果のあるお香の配合を変えて、緊張状態に陥れば睡眠薬と成りうるものに作り変えたんですよ。それから彼女を叫ばせたのも僕です。ですから、全ての原因は僕にあります。」
そう言い切った彼の表情は、一気に諦めに変わった。
どうしても、すっきりしなかった。彼が問題を起こしたのは事実だけれど、その原因はわたしにもあったから。わたしさえ第三書庫に来なければ、彼はこんな問題を起こさなかったから。
「・・・・・・・・・辞めるのか。」
そうライナスさんが確認するように呟くと、ジャスパーさんは力無く笑顔をつくった。まるでそれは、泣いているような笑みだった。
「ではすぐに、荷物をまとめて王宮から去ることだな。アリシア・メラーズ、君には彼を訴える権利もあるが、」
「待ってください。」
有無を言わさない口調で言葉を発する室長に、思わず待ったをかける。本棚に背を預けていた格好から、立ち上がり、ジャスパーさんに向き合った。
どうしたって、わたしにも、言いたいことが、言わなければならないことがあった。
「ジャスパーさん、わたしあなたのこと、絶対に許しません。あなたは、本に対しても、人に対しても、やってはならないことをしたから。」
「・・・・・・・・・。」
「だけど、わたしもあなたに謝りたいことがあります。・・・わたしがここにいて、本当にごめんなさい。」
「・・・君、何を言ってるんだ。」
途中で室長の意味が分からないとでも言うような声が聞こえたけれど、そんなものはもう気にしない。
「あなたが本を好きだから、わたしを嫌いだって、その気持ちは充分すぎるほど分かるんです。わたしだって、自分が大好きなものに、大してそうじゃない人が関わっているのは辛いから。・・・でもわたしは、本も、第三書庫も、大好きです。その気持ちは、どうしたって人に容易く伝わるものではないかもしれません。だから、これからのわたしを見てほしいんです。」
あなたには、ちゃんとわたしのことを認めてほしいから
そう言ったとき、諦めの表情を浮かべたジャスパーさんの瞳が、小さく揺れた。
室長も、ライナスさんも、ただじっとその場に立ち、わたしの次の言葉に耳を傾けている。
「あなたの本への愛情は、間違っているところもあるけれど、でも確かに感じられるものでした。そんなあなたは、ここから離れるべきではありません。」
「おい、」
「わたしは自分で怪我をしたんです。‘二度と室長に居眠りがばれてしまうのが怖くて’、自分でペンを刺しました。ただジャスパーさんと‘本のことで言い合いしていただけ’で、叫んで口を切ってしまいました。」
「アリシア・メラーズ、」
「・・・そうですよね、ジャスパーさん?」
問いかけると、ジャスパーさんはついにその瞳をこちらに寄越す。まるで信じられないとでも言うような弱りきった表情をした彼は、何も言わない。
ただ少し離れたところでこちらを見ていたライナスさんは、どこか結末が分かったかのように肩の力を抜いたのが分かった。
「ですから室長、ここには加害者も被害者も、そして何の問題もありませんでした。無論、ジャスパーさんが解雇される理由もありません。」
そこでついに、ジャスパーさんは目を大きく見開く。
そしてそれは、オスカー室長も同じだった。小さく溜息をこぼした彼は、しばらく宙に視線を向けたあと、呆れた表情をして見せた。
「あなたがそれほど本を好きならば、ここから離れるなんてわたしが許しません。」
そう笑ってみせると、「・・・恩でも売ったつもりですか。」なんていう、ひどく弱々しい声が聞こえた。その表情は少しばかり厳しいものだったけれど、今の彼から迫力だなんてものは感じられなかった。
「いいえ、そんなつもりはありません。ただ本好きなあなたには、これからも王宮に居ていただかないと。わたしはあなたやライナスさんからたくさん知識を頂くつもりなのですから。・・・ああ、断って頂いては困ります。・・・わたしはあなたを、脅せますから。」
柔らかく、優しく、そしてあたたかく、言った。
そこに嘘の気持ちはなかった。でも彼がここに残ることによって、また同じことが起きるとは考えなかった。むしろ、彼はここにいるべき人間だと、そう思ったのだ。
「本当に、君は砂糖菓子より甘い脳みそを持っているらしいな。」
「・・・室長は黙っていてください。」
そう低い声で呟くと、わたしも室長も次には笑いあい、そしてライナスさんまでもが口元を緩め、さらにはジャスパーさんも、零れ出た涙を拭いながら、とても優しく笑ってみせた。